第33話 積み、重ねる
鹿島グランフォルテU-18との試合が終わってから、僕は1つのことを決めた。
俯瞰を、常に使う。
試合のときだけではない。
練習でも。
紅白戦でも。
ボールを持っていないときでも。
できる限り、ピッチに立っている間は使い続ける。
鹿島戦の後、僕の中に残ったのは、勝ったという感覚よりも別のものだった。
見えた。
それは間違いない。
味方も。
相手も。
ボールも。
速度も。
重心も。
力の方向も。
そして、一瞬先に起こることさえも。
あの試合の最後に、僕はピッチ全体を頭の中に収めることができた。
でも――見えたからといって、全てを思い通りにできたわけではない。
通せないパスがあった。
届かないシュートがあった。
自分の身体では選べない道もあった。
見えているのに、実行できない。
その歯がゆさが、ずっと残っていた。
だから、まずは慣れることにした。
新しくなった俯瞰を、自分の感覚にする。
頭で意識しなくても使えるようにする。
視野を広げる。
全体を見る。
そこから必要なものを選ぶ。
相手の重心を見る。
力の向きを見る。
その全てを同時に処理する。
最初の頃は、簡単ではなかった。
俯瞰を広げると、情報が一気に増える。
味方が走る。
相手が寄せる。
ボールが動く。
その周囲も動く。
1つの動きが次の動きを生む。
意識すればするほど、頭の中が熱くなる。
練習が終わる頃には、目の奥が重くなることもあった。
それでも、僕は続けた。
何度も。
何度も。
同じ場所で。
同じように。
少しずつ、力を抜いていく。
最初は「見る」ことを意識していた。
次に、「見えているものを処理する」ことを意識した。
そして少しずつ――意識そのものを減らしていった。
走りながら見る。
パスを受けながら見る。
相手を背負いながら見る。
ボールから離れた場所も見る。
自分の身体のバランスを保ちながら見る。
それを繰り返すうちに、少しずつ俯瞰が僕の中へ馴染んでいった。
視界を広げても、以前ほど疲れない。
頭の中に入ってくる情報を、前より速く整理できる。
何より――俯瞰を使うことが特別なことではなくなっていった。
ただ、見る。
それだけになっていく。
その頃から、僕はもう1つの練習を始めた。
キックだった。
鹿島戦で、何度も思った。
ここへボールを通したい。
ここへ置きたい。
あの場所なら味方が先に触れる。
あそこなら相手に届かない。
そこへ蹴れば、ゴールに繋がる。
道は見えていた。
でも――蹴れない。
見えているのに、足がそれに追いつかない。
なら、追いつかせればいい。
僕はキックそのものを強化することにした。
強く。
速く。
柔らかく。
低く。
高く。
曲げる。
止める。
浮かせる。
転がす。
身体の向きが悪くても蹴る。
走りながらでも蹴る。
逆足でも蹴る。
トラップの直後でも蹴る。
相手に身体を寄せられていても蹴る。
足元へ置く。
スペースへ置く。
味方の走る先へ置く。
ゴールへ狙う。
同じキックでも、状況によって必要なものは違う。
だから、できるだけ多くの方法を試した。
右足で。
左足で。
インサイド。
アウトサイド。
インステップ。
インフロント。
足の甲の当てる場所を少し変える。
軸足の位置を少し変える。
身体の向きを変える。
ボールの回転を変える。
蹴る瞬間の身体の傾きを変える。
何度も失敗した。
狙ったところへ飛ばない。
強すぎる。
弱すぎる。
浮きすぎる。
伸びすぎる。
回転が掛かりすぎる。
それでも、やめなかった。
僕に必要なのは、1つの完璧なキックではない。
見えた道に合わせて、蹴り方そのものを変えられることだった。
その場所へ。
その瞬間へ。
その強さで。
その軌道で。
どんな状況でも、ボールを送り込む。
それができれば――僕の俯瞰は、もっと意味を持つ。
見えるものが増えたのだから、届くものも増やしたかった。
夏が過ぎていった。
日差しは強く、空気は重かった。
U18へ上がって初めて迎える夏だった。
僕は、それまで自分の身体がどこまで持つのかを本当の意味では知らなかった。
14歳。
高校年代の選手たちと同じピッチに立つ。
春までは、それだけで新しい刺激の連続だった。
でも、夏は違った。
暑さだけで身体が重くなる。
走る。
止まる。
切り返す。
また走る。
試合の後半になればなるほど、身体が思うように動かなくなる。
頭では見えている。
でも、身体が遅れる。
足が出ない。
戻れない。
次の一歩が重い。
そして――それは、僕のプレーそのものにも影響した。
判断が遅くなる。
パスの精度が落ちる。
走り込むタイミングがずれる。
ボールを受ける場所が少し深くなる。
普段なら届くところに、届かなくなる。
俯瞰があっても、身体が動かなければ意味がない。
キックを磨いても、そこへ入れなければ蹴れない。
僕は、夏に負けた。
全国大会。
準々決勝。
そこから、僕はベンチに座ることになった。
悔しかった。
けれど、その気持ちを顔に出すほど器用でもなかった。
試合が始まる。
僕はベンチからピッチを見る。
走る選手たち。
ぶつかる選手たち。
汗を流しながら、最後まで戦う選手たち。
僕はその景色を見続けた。
俯瞰で。
今まで以上に。
外から見ると、ピッチの中にいるときとは違うものが見える。
誰が疲れているのか。
誰の動きが遅くなっているのか。
どこに空間が生まれるのか。
どこで流れが変わるのか。
試合そのものが、頭の中へ入ってくる。
それを見ながら、僕は思った。
身体が足りない。
技術だけじゃない。
判断だけでもない。
見る力だけでもない。
この年代で戦い続けるための体力が、僕には足りない。
全国大会は、準決勝で前回王者に敗れた。
ベンチから、その試合を見た。
負ける瞬間も。
最後まで戦う仲間の姿も。
全部、見ていた。
僕は、そこで決めた。
身体を作る。
ただ大きくするのではない。
必要な体力を身につける。
最後まで動けるようにする。
夏にパフォーマンスを落とさない身体にする。
秋からの僕は、そこにも時間を使った。
走る。
体幹を鍛える。
下半身を鍛える。
でも、もう以前のように無理はしない。
黒崎監督に止められたことを、僕は覚えていた。
身体を壊すための練習ではない。
自分のサッカーをするための練習。
だから、必要な量だけを積む。
休むことも練習だと、少しずつ理解していった。
そして、夏が終わる頃。
僕の身体は、少しだけ変わっていた。
劇的ではない。
大きくなったわけでもない。
相手を力で押し込めるほど強くなったわけでもない。
でも――試合の最後まで、以前よりも動ける。
それだけで、大きかった。
秋。
リーグ戦が続く。
僕は少しずつ、出場時間を増やしていった。
そして――ある試合で、僕はスタメンの位置を見て少しだけ驚いた。
トップ下。
そこに、もう1つ名前がある。
橘さん。
いつものように、僕の前でプレーしてきた選手。
僕のライバル。
その橘さんと、同時にピッチへ立つ。
ダブルトップ下。
僕たちは、同じ場所に立ちながら、同じことをするわけではなかった。
橘さんがボールを持って前へ運ぶ。
僕は、その少し後ろで全体を見る。
橘さんが相手を引き付ける。
僕は空いた場所へ入る。
僕が左へ流れれば、橘さんが中央へ入る。
橘さんが中央へ出れば、僕が後ろへ落ちる。
2人が同じ場所にいることで窮屈になることもあった。
でも、合う瞬間も増えていった。
何度も一緒に練習した。
何度も失敗した。
少しずつ、分かるようになっていった。
橘さんは、あまり待たない。
自分で行けると判断したら、行く。
それなら――僕はその先を見る。
僕がボールを持ったときは、橘さんがどこへ入っていくのかを見る。
言葉にしなくても、少しずつ互いの動きが重なるようになった。
それは、鹿島戦までの僕とは違っていた。
以前の僕なら、相手を見て、味方を見て、道を探した。
今は違う。
味方がどう動くのか。
相手がどう動くのか。
それらが同時に、頭の中へ入ってくる。
俯瞰は、さらに僕の中へ馴染んでいた。
そして、キックも。
以前よりも、いろいろな場所へ蹴れるようになった。
狭い場所からでも、縦へ出せる。
身体の向きが悪くても、逆足で出せる。
相手が近ければ、足元へ速いボールを入れる。
距離があれば、浮かせる。
走っている選手には、その先へ。
止まっている選手には、足元へ。
同じ場所へ蹴ることは、ほとんどなくなっていた。
俯瞰で道を見つける。
そこへ合わせて、蹴り方を変える。
少しずつ。
少しずつ。
僕のサッカーが変わっていった。
それでも、まだ足りない。
見えるものは増えた。
蹴れるものも増えた。
身体も、少しだけ強くなった。
でも、僕にはまだ届かない場所がある。
だから、続ける。
秋の空気が冷たくなっていく。
夜が早くなる。
練習が終わる頃には、照明の下に白い息が浮かぶことも増えてきた。
季節が進む。
リーグ戦も終盤へ向かっていく。
そして――その頃。
僕たちの前に、1つの大会がやってきた。
Jユースカップ。
秋から冬にかけて行われる、ユース年代最大規模の大会。
全国から強豪クラブが集まる。
リーグ戦とは違う。
一度負ければ、その先へ進めない。
チームとしても。
個人としても。
シーズンの最後に、最も完成された状態でぶつかる大会。
そして――ここでの活躍は、トップ昇格を目指す選手たちにとって、大きな意味を持つ。
僕は、その言葉を聞いた。
トップ昇格。
僕がU18へ来た頃には、まだ遠い場所だった。
14歳の僕には、あまりにも先の話に思えた。
でも、今は違う。
身体は少しずつ変わった。
俯瞰も変わった。
キックも増えた。
チームの中で、少しずつ自分の意思を伝えられるようになった。
試合にも、以前より出るようになった。
まだ足りない。
それでも――以前とは違う。
僕は、Jユースカップの組み合わせ表を見た。
全国のクラブの名前が並んでいる。
強いチーム。
名前を知っている選手。
これまでテレビや映像で見てきたクラブ。
その中に、レガルテ横浜の名前もある。
僕は紙を見つめた。
胸が高鳴るわけではない。
怖くないわけでもない。
ただ、静かに思った。
ここで、自分がどこまでできるのか。
鹿島戦で見えた景色。
夏に味わった無力さ。
秋に積み重ねた身体。
橘さんと並んで戦う中で得た感覚。
キックの練習。
全部が、この大会へ繋がっている。
僕は、ゆっくりと息を吐いた。
Jユースカップ。
僕にとって、初めての冬へ向かう全国大会が始まる。
まだ、答えはない。
でも――今なら、少しだけ思える。
この大会でなら。
今まで積み重ねてきたものが、どこまで通用するのか確かめられる。
僕は、スパイクの紐を結び直した。
そして、ピッチへ向かった。
冬は、もうすぐそこまで来ていた。




