69粒目
「まぁまぁ、いらっしゃいませ、ようこそ」
大きく開かれた扉の前は、日差し避けの大きな布が張られている。
宿のマダムと思われる日焼けした女がおっとりと出迎えてくれた。
着ている服は門番と同じだけれど、パンツの丈はくるぶし程度。
宿の制服らしい。
マダムは我と狸擬きを見て、
「あらあらまぁまぁ可愛い、可愛いわねぇ」
頬に手を当て目尻を下げている。
その表情からも、半分くらいは世辞ではなく本音も混じっているのであろうけれど。
どんなに可愛いと褒められても、狸擬きと同列に語られるのは不本意であり不服でもある。
男たちが部屋に持ち込む荷を下ろしている間に、我は、我等が世話になるらしい宿を仰げば。
3階建ての宿はそう大きくはなく。
その分手を掛けられるのか、外壁の塩害は細やかに修繕がなされている様子。
建物の外にもテーブルが並べられ、のんびり寛ぐのは。
年齢層は様々であれど、男女の組み合わせ、男同士、女同士もチラホラ。
共通しているのは、全て2人連れ。
「大きなベッド2台ですと、1階のお部屋になりますね」
男がその部屋でとお願いしますと建物の中に通され、高い天井の広間で受付を済ませている間。
「どこからいらしたのかしら?」
身軽にしゃがみ、我と視線を合わせるマダムに問われたけれど。
『彼女は、言葉を聞き取れはするけれど、まだ話せないんだ』
狼男がマダムに伝えてくれる。
「まぁ、そうなのね」
言葉が聞き取れるだけでも凄いわと相好を崩すマダム。
実際、凄いのは狸擬きである。
「フーン」
その狸擬きは、我の隣でキョロキョロと広間を眺めていたけれど、受付の棚に飾られた小さな鯨の置物に目を留め。
「フゥン?」
あれはなんですかと首を傾げる。
「あれは鯨を模した置物であるの」
「フーン?」
くじら?と狸擬き。
化け物である人魚は知っていても、鯨はどうやら知らぬらしい。
「海に住むおっきい生き物の」
両手を広げて見せれば。
我等の視線で、
「あら、鯨を知ってるのね」
物知りさんなのねぇと大袈裟に感心してくれるマダム。
マダムはちんまきものが好きであり、どうやら褒め上手でもある様子。
そのマダムはわざわざ、棚から鯨の置物を取ってきて見せてくれた。
「小さくだけれど、肉眼でも見えるんですよ」
「のの?」
鯨が見えるのか。
「潮吹きよ」
ほーうほう。
聞き慣れぬ言葉に狸擬きだけでなく、
『?』
狼男も首を傾げている。
「お待たせ」
男がやってきた。
部屋に案内されれば、贅沢に広い。
居間となる部屋には籐の、ラタンであったか、ラタンで編まれたソファや椅子が置かれ、テーブルには黄色い花が飾られ。
「フン?」
狸擬きが物珍しげに駆け寄って行く。
マダムが部屋の扉を開き、広い風呂場は有り難く、覗いた雪隠にも、花が飾られている。
仕切りのない寝室は奥に、天井から吊るされたレースがベッドを覆うように床まで流れ。
ベッド脇の小さな棚にも花が飾られているけれども。
特筆すべきは。
ベッドに散る赤い花弁。
(ののぅ)
今更ながら、この宿での我等の場違い感が凄い。
マダムはニコニコしつつ、それに付いてはなにも言わず触れず。
そんなマダムに促されて居間の窓からテラスに出れば。
「のん、眩しいの」
漆喰の白さだけでなく、射し込む西陽。
「あの海に浮かぶ小さな島は無人島ですけど、私たちの所有する舟で向かい、釣りを楽しむことも出来ます」
砂浜からも見えた緑色のこんもりした島を指差し。
「フーン♪」
いつの間にか後ろにいた狸擬きが、釣りをしたいですと。
「そうの」
海ならば我も釣れるやもしれぬ。
マダムがお舟の案内や乗り場など教えてくれていたけれど。
テラスから新たな客の姿が見えたか。
「夕食の時間まで、どうぞ寛いでくださいな」
一礼して、部屋から消えた。
(ふぬぬ)
先刻、男が立ち寄った組合で、他の宿も紹介されていたのではないかと、眩しいテラスから部屋に戻りながら思う。
男は海で、海を酷く警戒していた狼男の姿に、なるべく高台の、波に呑まれにくそうな、狼男の恐怖心が若干でも減るような部屋を選んだのではないか。
「……」
お陰で、白き珈琲の街から再び。
ここでも、またも我等は全く場違いな、新婚旅行客向けの宿に腰を落ち着けたわけだけれど。
(のの)
そう言えばである。
「の」
「ん?」
「海で泳いでいる者がいなかったのの」
男を見上げれば。
「この土地の人たちは、あまり泳ぐ習慣がないんだろうな」
ぬぬん。
「君は泳げるのか?」
男に聞かれ。
「犬掻きなら得意の」
身を屈めるように両手で宙を搔いて見せれば。
男に、なぜかおかしそうに笑われた。
「……ぬ」
なんの。
「いや、可愛いなと……」
身体を揺らして笑う程であるか。
「悪い、悪い」
「ぬぅ」
再び抱き上げられ、あやすように揺すられる。
狼男は、しばらくテラスで海を眺めていたけれど、
『“海は大きい”と、長に伝えなければならないことが出来た』
そうの。
この世界でも。
「海はとても大きいの」
楽しい夕食の前に。
久々に、頭から湯を被り猫足付きの浴槽で湯船に浸かり、
「ぬふーん♪」
温まれば。
「フーンッ!!」
『フーンではないんだ』
狼男が、風呂は断固拒否しますと膨らんで宣言する狸擬きを難なく小脇に抱え、
「フンッ!?」
我と入れ替わりに浴室へ消えて行く。
我は男に髪を乾かされながら。
「あやつは、お主より狸擬きに容赦がないの」
「そうだな」
狸擬きは、自身を狼男の先輩であると、隙あらば狼男に対し、先輩風をびゅーびゅー吹かせているけれど。
「この中では、君が一番上のリーダーだからな」
ふぬ。
「彼には、君の従獣の主張よりも、リーダーである君の意見や意思が優先されるんだろう」
ほうほうほう。
あとは。
「単純に、お主は狸擬きに甘いのやもしれぬの」
「否定出来ない」
男の苦笑い。
「……フーン」
洗われ乾かされ、一回り大きくもっふりと膨らんで出てきた狸擬きは。
ご機嫌斜めであれど。
「夜は久しく、少しばかり飲めばよいの」
夕食時の酒を許可すれば。
「フーン♪」
途端にご機嫌になり、夕食に向けての自身の蝶ネクタイを選ぶために荷をガサゴソと漁り始めた。
食堂での夕食は、我等の席は2人席をくっ付けて布を掛けたもの。2人客たちばかりの中、3人と1匹の客は我等だけであり。
小さい宿なので持ち回りなんですと、盆に小さなグラスを乗せて運んで来たマダムが。
「うちは食前酒も自慢の1つで。お嬢様には白葡萄のジュースを選ばせて頂きました」
『……』
ジュースの単語に、少しばかり羨ましそうな顔をする狼男。
狼男は、見た目からして飲みそうで尚酒に強そうであるしの。
「フーン」
早く飲みたいと狸擬き。
運ばれてきた小さなグラスを皆で持てば。
男が、
「無事にここまで、皆で海まで辿り着けた、お疲れ様」
乾杯とグラスを控え目に掲げ。
「乾杯の」
「フーン♪」
『乾杯』
グラスを軽く掲げてから、白葡萄のジュースを飲めば。
「のん♪」
屋台のジュースも美味しかったけれど、宿のジュースも大変に美味。
「どうであったかの?」
狼男に問えば、
『酒によって、だいぶ味も違うんだな』
これはとても飲みやすいと好評な様子。
男はさらりと飲み干しており、食前酒と共に置かれたオリーブを我の口に運んでくる。
「ぬぬん」
パンが欲しくなる味であるのと思ったら運ばれてきた。
四方の角が丸い、小さくもないパンが、1人1つ。
皮は硬いかと思いきや、指で千切れば中はやわこそうであり。
添えられたオリーブ油を軽く付けて、
「あーむぬ」
噛み締めてみれば。
「……ぬん♪我はこのパンが好きの」
出来ればバターで食べたい。
「フーン」
酒、と狸擬き。
男が、コップを前足で掲げる狸擬きに手の平を向け、彼に前菜と合う酒を見繕って欲しいとやってきたマダムに頼み。
「こちらの彼には、軽く飲みやすいものをお願いしたい」
『……う、頼む』
狼男は、
“少し気取ったレストランは、酒を覚える場所”
だと男に教えられている模様。
それでも、少々気の乗らなさそうな狼男に、
「あら。でしたら甘めの方がいいのかしら?」
助け船を出すマダム。
『あぁ、出来たら軽くて甘めを頼みたい』
「まぁま、かしこまりました」
間もなく酒と共に運ばれてきた前菜は、大皿に4人分がでんと盛られている。
数種類のチーズ、生ハム、知らぬ魚のカルパッチョ、ルッコラと呼ばれる葉っぱ。
「フンフンッ」
2本足で立ち上がり、フォークを伸ばす狸擬き。
狼男は、軽め甘めなら酒も飲みやすいと、少し自信を付けた様子。
前菜の次は、魚のフリットなる揚げ物や、子羊の肉料理も出た。
どれもこれも、美味であり。
我は。
「……」
そこまでは、覚えている。
そこまでは。
そこまでは、である。
(ぬん……)
そう。
我は。
我は不覚にも。
「……」
この短期間で。
再びの。
失態を犯した。
「……?」
時間が飛んでいる。
目が覚めたのは、翌日の昼前辺り。
寝返りを打つも、同じベッドに男の気配がないことに目を開けば。
視界にはベッドに散らばる赤い花びらと。
「……あぁ、起きたか」
寝室の窓際にあった籐の椅子を、ベッドの枕元まで運び、落ち着かなさげに煙草を吹かしている男。
「おはよう」
目を覚ました我を、妙に悩ましげな笑みを浮かべて見つめてきた。
「……の」
「フーン?」
隣のベッドでは、どうやら二度寝を貪っていた様子の狸擬きが、
「フゥン」
わたくしめの主様のお目覚めでございます、と4つ足を突っ張らせて伸びをしている。
狼男も、
『お……』
隣の部屋からやってきた。
そして、その、非常におずおずとした我を案ずる視線で。
(のぅ……)
我はまた、何かしでかしたと気付く。
仄かにあった疑惑が、確定に振り切られたのは、その瞬間であり。
ベッドで上体だけを起こして、黙って男を見上げれば。
「ええと、だな」
ぬん。
原因は。
食後酒、であると。
食後酒は、甘口、辛口に苦口。
種類は多々あれど、この宿は、客の傾向からして、主に甘いものを出していると。
濃厚で甘口。
昨夜は、アマレットなる酒を、牛の乳で割ったものであったらしい。
そして、本来我に出されるものは、食後酒の代わりに、無花果の牛の乳割りであった。
しかしである。
食後酒に限って、運んできたのがマダムではなく、夏だけの、まだ手伝いに馴れぬ者が運び。
無花果のミルク割りは、我ではなく狸擬きの前に置かれ。
食後酒と信じて疑わない狸擬きは、カパーと煽れば、
「これは酒でない」
と、思いはしたらしい。
けれど、それを伝える前に。
主である我は。
酒の匂いよりも、その甘い香りとトロリとした液体に惹かれ。
「ぬんぬん♪」
くぴーと飲み干した後。
そう。
その後。
「フーン♪」
わたくしめは楽しかったのですと、隣のベッドで何やら4つ足を出鱈目に動かす狸擬き。
何を模した動作であろうか
狸擬きの“ジェスチャーゲーム”では、さっぱり正解に辿り着けず。
「の、我は、“何を”しでかしたのの」
今も宿のベッドに居られる所からして、今回は宿を破壊せずに済んだようであるけれど。
「ええとだな……」
男の口が更に重くなり。
昨夜の我は。
その食後酒を飲んだ後。
1つ大きなしゃっくりをし、スンと目が座ったらしい。
男と狼男が気付いた時にはもう。
(もう?)
我は。
「狸擬きの、海へ行くの」
と、小さな食後酒のグラスの中身を覗き込み首を傾げていた狸擬きに命じ。
「フンフン」
我の従獣は、この程度の酒量ならば動けなくなる役立たずでもなく。
いっそ、役立たずならば良かったのに。
「フーン♪」
承知、と狸擬きは椅子から飛び降り。
我は、我の座る椅子の横にぴたりと付いた狸擬きに飛び乗ると。
「では、行くの」
「フーン!」
男の制止も聞かず、食堂から、宿から飛び出した。




