29粒目
疫病。
それはどんな病であったのか。
そこに現れた浮き島。
あまりにも、都合が良いのではないか。
少年の症状が軽かったのは、単純に若さ故のものであり、ただの偶然なのか。
大爪鳥の背中に乗るのは、こちらでも御法度。
爪が規格外に丈夫なだけで骨はそう強くない。
大爪鳥は、少年の言うことを聞いた。
いや、そもそもである。
浮き島と言う存在ものが。
「……君は、浮き島の存在を疑っているのか?」
男に問われた。
「半信半疑であるの」
男に疫病の話を聞けば。
「昔は疫病は珍しくなかったと聞くよ」
「ふぬぬ」
この世界の人間は丈夫であり。
(耐性が付きやすくもあるのかの)
街の人間に話を聞けずとなれば、あまり良くない頭で推測するしかない。
あれやこれやと男に問うていると。
『君は、疑いをする』
狼男が口を開いた。
「のの、考える、であるかの」
『そうだ、君は、よく考えることをする』
そうの。
ただ、
「馬鹿の考え休むに似たりの」
大爪鳥が水浴びをしていた水辺で、洗い物をしながら。
『でも、それを聞くのは、勉強になる』
おやの。
我のおつむがあまり良くないため、人里に降りてきたばかりの狼男には丁度いい塩梅なのであろう。
男は、
「浮き島が見える条件も気になるな」
洗った皿を拭き上げる。
「条件の糸口すらもないからの」
『浮き島と言うものを、俺も見てみたい』
浮き島を探す旅人もいると聞くけれど、旅人張本人に遭遇出来ても、貴重な浮き島の情報料は安くなさそうである。
猟師から届いた手紙に、あの遠き遠き黒い城は、
「“王が浮き島に願い、一夜で建った城だとの噂がある”」
と記されていた。
「……」
今思えば、あの城を包む黒い靄は、とてつもない濃度であった。
最近、見掛けては消滅を試みている黒い靄とは、また別物なのであろうけれど。
我の解析度の低い、残念な目では、同じような黒い靄に見えているだけで、実際はそれぞれに、“個”があるのかもしれない。
出所も、それに至った、黒い靄になった経緯も。
「ぬぬん」
片付けを終えれば、男、我、狼男と川の字で敷物の上に寝転がり。
木漏れ陽の中から、睡魔がふわりふわりと現れ我を囲み、瞼を閉じようとしている。
逆らう気もなく、身を委ねる瞬間。
雲に紛れ。
(……?)
空に、何か、島の様なものが見えた気がした。
バケツプリンならぬ鍋プリンは。
温いままであれど。
「濃い蜜に、弾力のある部分と柔らかな部分と、色々あっていい、とても美味い」
やはり思い付きで突発の素人仕事。
火の入り方はだいぶムラがあった様だけれど、腹ごなしから戻った大爪鳥はそれ込みで、
「とてもいい体験をさせてもらった」
嘴に付いたカラメルを舐めとりながらニコニコと嬉しそうで。
我等用に蒸したプリンも、
「フゥン♪」
皆に好評であり。
『先刻も上から眺めて来たけれど、やはり、長年打ち捨てられた廃村でしかないのだが』
大爪鳥は鳥なりに背筋を伸ばすと、
『あの村へは、行かないで貰えないか』
そんな頼みごとをされた。
(おやの)
余所者に、かつて街と交流のあった村を、下世話な好奇心で覗かれたくないとの意図であるか。
「配慮がなかったの」
一旦は大人しく引いて見せれば。
『そうではない、お前さんたちが心配なんだ』
心配。
大爪鳥は村のある方を振り返ると、
「未だに、もう疫病の話を知らない人間も少なくないこの街の人間ですら、村へは近寄らない。用がないと言えばそれまでだけれど、人間たちならば、村人への供養などがあってもいいはずなんだ」
けれど、それもないと。
『あぁ。ただ理由の解らない、正解のない恐怖だけが、街の人間に引き継がれてるのではと思う』
では。
「お主はどうの?」
『上を通れば思い出す、でも普段は忘れている』
ごくごくまともな、記憶の在り方。
この大爪鳥は、村があった土地そのものに、未だ、何かしらがあるのではと懸念している。
鳥と違い羽根もなく空を飛べない我等は、地を辿り村へ向かうしかない。
廃村までの道はどうなっているかと聞けば。
『馬車の往き来する道は、背の高い草たちに覆われている』
一見、高い丘が続き、先には何もなく見えていると。
非常に気になる事柄ではあるけれど。
「そうの、近寄るのはやめておくの」
以前ならば、狸擬きの背にでも乗ってこそりと覗きに行っていたであろう。
以前の我ならば。
不本意であるけれど、スンと鼻を鳴らして了承してみせれば。
『わがままを聞いてくれて有り難う』
この大爪鳥が、街や村の尊厳的な話ではなく、我等の事を案じているのをひしひしと感じるため、ここは表向きでなく、諦めるしかない。
近寄らなければ、害はなさそうであるし。
この大爪鳥は、浮き島へ行った少年が願ったためなどではなく、疫病や土地のなにがしで、村人が全滅したと思っている。
それは、生きた村人が突如消えたなどの言い伝えより、遥かに現実的な考えであり。
何より、この大爪鳥には、何かが、視えているのかもしれない。
それを我等に伝えないだけで。
『自分は明日は早朝から仕事でな。数日留守にするんだ。いつかまたこの地に戻ることがあったら、蛇とプリンを食べさせて欲しい』
ここから鳥舎へ帰ったら、寝床に収まり早めの就寝になるため、我等の旅立ちの時に別れの挨拶が出来ないと。
「の、またいつかの」
『あぁ』
先に街の外れの鳥舎へ戻る大爪鳥を見送り、
「では、我等も帰るかの」
男を振り返れば。
「……ん?」
なぜか少し驚かれた。
なんの。
「の?」
首を傾げて見せれば。
「いや、君のことだから、大爪鳥が寝ている今がチャンスだと、廃村へ行くのかと思った」
首に手を当て、苦笑いする男。
「むむぅ」
それでも今までの行いを思い返せば、強く反論出来ないのは痛いところ。
「フーン」
わたくしめが言うのもあれですが、獣たちの勘は侮れませんと狸擬き。
のの?
「あやつの言うことを聞いて正解と言うことかの」
「フーン」
わたくしめの勘もそう告げておりますと狸擬き。
のん。
「我でもかの」
阿保みたいに力だけはあると自負しているのだけれど。
『主様のその有り余るお力には、わたくしめも日々驚かされ、そして、日々お力が増していることも、隣にいてひしひしと感じています。それでも』
それでも。
『主様は、以前、自分はどこか別の星の土地から飛ばされたと仰有っておりました』
「の」
狼男が、耳と尻尾をピクリと跳ねさせる。
『廃村のある土地に、その同等の力が未だ残っている可能性もあります』
なんと。
狸擬きは、我がこの世界に来たことを、浮き島の力だと考えていると。
『可能性の1つです、浮き島と廃村の謎もまだ多く御座います故』
謎は多く、可能性は限り無く低くはあるけれど、
『それでも、可能性がある限り、わたくしの主様には近寄って欲しくないのです』
ふわりと緩く尻尾を揺らし。
狸擬きの話で、我としては更に好奇心が疼くけれど。
目の前の従獣の懇願だけでなく、大爪鳥とも。
「廃村へは行かぬと約束したからの」
大人しく帰るのと頷き、男に抱き上げられ、馬車に乗れば。
「浮き島の事は、猟師の彼に聞いてみようか。俺たちよりも詳しいかもしれない」
男が宥めるように頭を撫でてくれる。
「の」
我等の時間は、無限。
時間はどれだけ掛かっても構わない。
ゆっくり、1つずつ紐解いて行けばいい。
それでも。
「……」
睡魔たちに飲み込まれる前に一瞬だけ見えたあれは。
夢か、幻か。
「もう少し、この街にいてもいいんじゃない?」
水の街で仕入れていた海色の髪飾りを、金物屋の嫁に餞別として渡せば、少し珍しい色に形に大層喜ばれつつも、
「先を急ぐの?」
寂しさを隠さない笑みを浮かべられてしまう。
「旅人さんは、旅人さんの仕事や事情があるんだ」
金物屋が、そんな嫁の肩を抱き、
「またこっちに来たら、ナイフを研がせてくれ。こっちとは少し違う形の刃物たちを見られて新鮮だったよ」
笑みを見せてくれるけれど、目が潤んでいる。
「屋台もだ。蛇なんて、びっくりして、……うん、びっくりしたんだ」
嫁でなく、金物屋が潤ませた瞳から涙を流し、
「もぉ、あなたが泣いてちゃ駄目じゃない」
嫁に慰められる始末。
我等も、屋台と言うお店屋さんごっこなる面白い体験が出来た。
男泣きする金物屋と嫁に見送られ、組合へ向かえば。
「あら?あらあら、もう出発されるのね」
組合には祭りで顔見知りになった者も多く、狼男に腕相撲で競った者も数人、賑やかに声を掛けられている。
「お別れの前に、ミルクセーキをご馳走させて」
お言葉に甘えて隣の茶屋へ向かう。
狸擬きと狼男は、大きなジョッキでミルクセーキを出して貰え、大興奮。
にこにこ微笑むこの組合長ならば、離れた廃村の事も、何か知っていそうだったけれど。
「……」
我は、黙って甘いミルクセーキに口を付ける。
土産にまたたんまりと卵を貰えた。
(ののん)
「またいつでもいらして。あなたたちを迎えられるように、長生きするから」
ふふっと、まだ年若き少女の様に微笑む組合長や、組合の人間の見送られ、街を抜けて行く。
「よかったのか?」
「の?」
「話を聞かなくて」
なるほど。
男が組合長のお茶の誘いに頷いたのは、そのためであったか。
「浮き島が絡んでいそうであるから、安易には聞かぬ方がよいと思ったのの」
何より、
“我等が浮き島に興味を持っていると思われる事”
を、知られたくない。
トコトコ、トコトコ。
我等は進む。
トコトコ、トコトコ。
稀に地から崖から滲み這い出る、黒い靄。
では、空からは。
何が落ちる。
ーーー
丘とも言える程度の低い山を越えつつ。
合間の小さな村を幾つか過ぎ。
村もなくなれば野宿をし。
旅人や行商人とすれ違えば、挨拶を交わし。
川があれば小豆を研ぎ。
幾つかの小さな村の1つ。
「見慣れない旅人さんだね、うちの村は宿があるよ」
川で釣りをしていた村のじじが、豊作だとバケツの川魚を見せてくれながら、橋から続く石畳の向こうを指差し。
狸擬きの予報ではこれから雨が降ると言うため、休ませてもらうことにした。
組合も存在しない小さな村。
ここも厩舎が宿屋もやっている。
と思ったら、釣り人のじじが、厩舎と宿屋の主であった。
厩舎は空っぽだけれど、今は馬たちは畑を耕していると。
村の子供たちが、遠巻きに我等を窺っているため。
狸擬きと狼男をけしかけてやれば、きゃあきゃあと大はしゃぎになる。
宿は小さく古いけれど、清潔さはある。
夕食は小さな食堂で、豚肉とジャガイモがゴロゴロ入ったシチューに、楕円の少し固めのパン。
(ぬんぬん♪)
ご機嫌にビールを流し込む狸擬き。
物静かな旅人が1人、離れた席で食事をしている。
夕刻から降り出した、しとしとした雨は丸一日続き。
宿屋のじじに、村の集会所に誘われ、狼男と狸擬きが子供たちの相手をしている。
我と男は、隣の部屋で、村の女たちの編む、村の名産のカゴ細工の内職を手伝いながら。
「修道院、ですか」
「先の崖の下にね、建ってるの。少し遠回りになるんだけど、立ち寄ってあげて下さいな」
雨の神に支えている者たちだと。
雨の神。
(水の神とはまた別かの)
他の修道院と違い、その修道院は、例外を除き、中の人との対面はないのだと。
(のの、少しばかり変わっておるの)
建物の修繕など、のっぴらきならない時は。
「仮面?」
「えぇ、仮面を着けた方が対応するんだそうです」
少しばかりでなく、随分と変わっておる。
敷地の中では、少人数の修道女たちが自給自足の生活をしており。
男子禁制。
神に支えたいと女たちが自らやってくるのか、子が捨て置かれるのかと思うけれど。
この世界、子は数が少なく貴重であるし、ならば孕み用の男が、暗黙の了解とやらでやって来たりするのであろうか。
もしくは、こそりこそりと、旅人を招き入れるのか。
客人とのやりとりは、建物の壁の一部が抉られ、そこには小さな木の回転扉があり、物資や金品を置くと、土台ごと回転し、中で回収される。
こちらから欲しいものがあれば、メモを添えるけれど、なければ価値が同等の品物が、主に修道院で作られる焼き菓子なとが回転台に置かれて出てくると。
村人は定期的に顔を出し、お使いだったり仕事があれば請け負うと。
その代わりに、
「この辺り一帯、長年大きな不幸もなく、気候にも恵まれているのよ」
ほうほう。
名ばかりではないと。
雨がやんだ翌日。
狸擬きと狼男が子供たちに引き留められながら、村を出る。
簡易な地図を貰えたけれど、修道院までの道は分かりやすく分岐があり、緩い下り坂を進んでいくと。
「お……」
崖とは言え、だいぶ敷地は広そうで。
広そうだと予測しか出来ないのは、石の壁が長く高く聳えているからで。
村で聞いた回転扉とやらは、
「フーン」
あそこですねと狸擬きが前足を上げ。
「のの」
我が何とか出入りできる程度の大きさの、上が弓形の木の板が嵌め込まれている。
下の板に物を置くと、木の回転扉がくるりと動き、反対側からの物品が置かれる様子。
「フーン」
向こう側に何かしらの気配と狸擬き。
「ええと」
男が、何を置けばいいかと逡巡する。
修道院に貴金属や装飾品は向かないであろう。
ならばと、村から預かった植物の種の入った小袋と共に、こちらからは蜂蜜やバターを置いてみると。
回転扉がくるりと動き。
「のの?」
けれど、板に乗って出てきたのは、何やら凝った鍵が1本。
「フーン?」
目新しい食べ物を期待していた狸擬きは眉間に毛を寄せ。
「……なんだ?」
男も戸惑ってる。
扉は動かない。
ただ、向こう側に、気配はある。
(ふぬん)
「の、馬車をここに置かせて貰っていいか訊ねるの」
男が扉に声を掛けると、扉が動いた。
走り書きの様な字だけれど、
『お預かりさせてください』
言葉は丁寧である。
紙は微かに湿っている。
崖を囲むように建つ年季の入った石の塀は、
(おかしな力は感じぬの)
ただ、石の塀は苔も黒ずみも多い。
「あぁ、ここか」
半分くらい回り込んだ北側に、男の背より低い木の扉。
『ド、ドキドキするな』
「くふふ、そうの」
扉の奥は、またすぐに扉。
天井は屋根はなく空が見える。
鍵はなく、木の引戸。
(水の匂い)
引戸の奥は。
「のの?」
古い聖堂。
奉られているのもは、ない。
清掃も細やかな修復もなされているけれど、長年、使われている様子もなく。
建物の内部へ繋がる向かいの扉の前に、
「……」
いつの間にか、小柄なシスターが1人、影薄く佇んでいた。
頭から黒いベールを被り、顔が見えない。
『……っ!?』
狼男がギクッと身体を強張らせている。
シスターはこちらが気付いたことに気付くと、背後の扉を薄く開き、奥へ消えてしまう。
我等は聖堂を突っ切り、木の扉のノブを男が引くと、
「……」
シスターが、長い廊下の壁の蝋燭に1つ1つ火を灯していた。
マッチ棒で。
(ふぬ)
こちらも埃こそないけれど、普段は使われている様子はない。
奥の大きな観音扉をシスターが両手で開くと、
「のの」
いきなりテラスと思われる場所に出た。
『おお……』
崖の端の一部は、大きな森と山々が一望出来、
「絶景だな」
「の」
大きなテーブルに椅子が6脚。
こちらは日頃から利用されている場所らしい。
シスターが2人に増えて、別の扉からやってきた。
どちらも黒いベールを被り、顔が見えない。
白い手袋の先は、濡れている。
2人はテーブルの前に並ぶと、
『お呼びだてしてしまい』
『それにお応えくださり』
『ありがとう』
『ございます』
2人で言葉を操る様子。
仄かに、水音の混じる声。
『どうぞ』
『こちらに』
我は男の膝の上。
男は、どうやら警戒している様子。
『私達は、雨の神からの』
『慈悲を頂いております」
雨の神。
水の神とはまた違うのであろうか。
男伝に訊ねると、シスターたちは顔を見合わせから、
『問いに問いで返すことをお許しください』
『その“水の神”は、どのような土地でどのような立場に居られるのか、教えて頂けませんか?』
男が、水の街、海に囲まれた街の、人魚が水の神だと奉られていると答えれば。
シスターたちは再び顔を見合わせてから、
『とても興味深く楽しいお話を』
『ありがとうございます』
小さく頭を下げ。
『その水の神が、決して海の神でなく、
“守り神”
として存在するように』
『私達の雨の神は、
“民に恵みを与えうる神”
として慕われております』
と胸に手を当てる。
ふぬぬ。
シスターたちは、日々神に支えつつ、敬虔に、心身を研ぎ澄まし。
『……の、つもりではあるのですが』
『えぇ、えぇ、気持ちだけは』
もじもじと膝の上で指を合わせる2人のシスターは、
『その、私達は』
『お酒が……』
大好きでして……と言葉を重ねた。
(ほうほう)
身の置き所がなさそうに小さくなる姿は、とても、
「生身の人間らしさ」
が見え、親近感が湧く。
「我のいた土地では、シスターたちは水の変わりに葡萄酒を飲んでいた様な気がするのの」
曖昧な記憶だけれど。
『ま、まぁぁっ』
『そんな、夢の様な場所が存在するのですか……っ』
はぁぁ……と身悶えるシスターたちに、我を膝に乗せる男の緊張が解けて行くのを感じる。
酒好きと言えば、いつかの、あのろくでなしの黒子を思い出すけれど。
あれと比べるのは、さすがにシスターたちに失礼であるか。
「ええと、それで」
男が小さな咳払いをし。
『た、大変に』
『失礼いたしました』
我に返ったシスターたちは、
『珍しい旅人の方たちならば、珍しいお酒も積んでいるのではないかと』
『ほんの少しばかり、分けて頂けないかと』
胸の前で指を絡める。
男が、我の顎を指先でなぞる。
無言でどうすると問われ、
(そうの)
「では、先々で仕入れたものを幾つかと」
後は。
「いつか花を漬けた酒があったであろうの」
山の中。
明け方に咲く、香りの良い花を瓶に落とし、そこに、そこそこに質の良い酒を注いだ。
青狼のいた牧場村から、白い珈琲の街へ行く途中の、お山の中腹辺りであったか。
「いいのか?」
男が、少しでもなく驚く。
辺鄙な山奥の辺鄙な修道院。
立場があるとはいえ、ろくな謝礼も貰えぬであろう。
「お主が良ければの」
「俺は構わないけれど……」
「あとは、そうの、スミレの砂糖漬けも出して欲しいの」
「わかった」
シスターたちは、我等に付いて建物の外まで出てきた。
男が荷台の奥を探っている間、
『わたくしたちは』
『お礼に何をお渡し致しましょう』
2人のシスターは、珍しい酒にわくわくを隠さずに、小さく愛らしくはしゃぎながら問われたけれど。
「何もいらぬの」
『何も、ですか』
『でも、それでは』
シスターたちは、躊躇するように揃って頬に手を当てるため。
「お主等の仕事は祈ることであろうの」
『えぇ』
『それは勿論』
であれば。
「我等の旅路がより楽しくなるように、祈って欲しいの」
それだけでよい。
『……』
『……』
顔の見えないシスターたちは、三度顔を見合わせた後。
じっと我を見下ろすと。
その場に静かに膝を付き。
『この地を征する山々』
『その山に認められし山の主』
『水を司る神に認められし私たちは』
『とても近い存在』
『貴方様が今この世界に在るように』
『私達もここに存在を許され』
『永い時を』
『過ごすでしょう』
『雨の神に代わり』
『強き』
『尊き』
『心広き』
『心深き』
『貴女様へ』
『『限りなき祝福を』』
男が、布に包んだ瓶を木箱に詰め、荷台から飛び降りる。
狸擬きは、男の抱える酒瓶の詰められた木箱をじっと眺めているけれど、主の我の決定に、口は挟まない。
小さなすみれの砂糖漬けには、表情は分からずとも、2人とも華やいでいるのを感じる。
『また』
『次は』
『ご馳走を』
『用意しておきます』
『是非』
『是非』
『お帰りを』
『お待ちしております』
濡れた指先で、ビスケットが詰められた布袋を渡された。
馬車で道を進みつつ摘まめば。
「のの、なんの」
驚くほどに美味しい。
「フーン」
なかなかです、主様の作るビスケットに少しばかり劣る程度ですと狸擬き。
『何でも美味しいけれど、これはとても美味いな』
「うん、君の作るビスケットの方が美味しい」
我の男は、たまに大人げない。
「くふふ」
嬉しくはあるけれどの。
緩い曲がり角で崖の方を振り返った狼男に、
『彼女たちは、人なのか?』
聞かれた。
「そうの、元はの。それに、まだ半分は人であろうの」
『元は……』
あの者たちの言葉通り、
「あやつらは、神に祝福されし者たちの」
『それは、キミや、長の様なものか?』
ぬぬん。
「あの者たちは、もう少し人間側であるかの」
人が勝手に信仰し勝手に祈っていただけである。
けれど、その祈りを、あの地の雨の神が、受け止めた。
そんな雨の神を始め。
「受け身な神たちが多い中、お山は何やら自己主張が強めの」
そう呟いてから、ふと思い出す。
「いや、水の街に、人の女に惚れた水の神がいたの」
自己主張が強いのはお山だけではなかった。
『それは面白いな』
会えるのかと興味津々な狼男だけれど。
ふぬ。
「最近、少しばかり長い眠りに就いてしまったの」
『そうか……』
そう。
目覚めは、まだ遠い。




