13粒目
これは。
この口から漏れる黒い靄。
これは勝手に引き剥がしていいものか、そうでないのか。
それに。
不可思議なことは他にも多い。
馬車に乗る姿からしても、普段は乗り慣れない、見よう見まねで走ってきただけであることは、ありありと解り。
山を越えられたことすら、運がいいどころか、実際我の男含め、他者の助けで何とか越えている頼りなさと無謀さ。
聞きたいことは多々あれど。
まずは何より。
口を開きかけるも。
こちらの怪訝さを鋭く感じ取ったのか、ぐるりと眼球を1回転させた後。
「馬に無理をさせ過ぎたのかもしれませせせせせせせせん」
のん。
「せ」が少々多いの。
本人は唇の両端を上げ、ニコニコしているのがまた不気味である。
「の、こやつはお山の上でもこうだったのの?」
男を見れば。
「いや、どちらかと言うと、無口な位だった」
無口?
こんなに滑らかに話し始めたのはここに着いてからだと。
(のぅ……)
我は男の抱っこから下ろして貰い。
「の」
「はい?」
「お主は、二重人格か何かかの」
素知らぬふりをして訊ねれば。
「二重、人格?」
男に問うてもらうつもりが、男に首を傾げて問われた。
「1つの身体の中に2人分の人格が入っていることの」
「……怖い話だな」
こちらではあまり聞かない症例な様子。
改めて男に訊ねてもらうと。
「二重人格なんて言葉を初めて聞きましたうわそれはとっても興味深い話ですねでも私の場合はちょっと違うみたいでむしろ先の人格を押さえ込むのと記憶を飲み込むので忙しくてでも私は今もこうして馴染ませているんですけど難しくて」
息継ぎの1つもなく、よく息が続くものである。
「なら、お主自身には、今もお主の中にいる“黒い靄”は見えているのの?」
なにやら続く言葉を遮って問えば。
「……てっ?」
眼鏡女の笑みは不自然な位に固まり、我を、じっと見下ろしてくる。
その、開かれた瞳孔で。
「お主。お主はどこかしらで、“黒い靄”を見たり、もしくは触れたりしたであろうの」
今、自身で自覚もなしに白状しているように。
我は身体の力を抜き、そのじっと我を見下ろしてくる娘の目を、眼鏡の奥の瞳を見つめ返せば、更に見開かれる大きな丸い瞳。
そう。
今のこの眼鏡女は、“我の言葉”が通じる。
薄茶色の瞳。
その奥、今は呑まれている本来の眼鏡女自身の。
核なる部分を意識して問い掛ければ。
「んんんんんみみみみ見まし見ま見ま見ましたたたたたけどわざとじゃいんですよむしろ吸い込まれたのはこっちで私は自分がどうなりたいかなんてなんてなんてなんて違うんですあの時に確かに吸い込みたいけど私があああああの時にあの時にあの時に口にしたたたたのは駄目でやっぱりやっぱりやっぱりあるあるあるあるからからあるから」
眼鏡女は、中の黒い靄は、もはや早口を越えた、機械音声の早送りの様な声で捲し立てて来た。
(ののん)
我の男の動きは早く、眼鏡女の異常さに気づくなり我の身体を胸に抱えながら身を引き。
狸擬きは、
「フーンッ!」
なんと、果敢にも男に抱かれた我の前に4つ足で立つと、大きく毛を膨らませている。
(おやの)
なんとも頼もしいではないか。
狼男は、人里の生活が浅いため、これが、この事象が、
“どれだけ異常な事態”
なのかの判断に迷い、若干戸惑う様子を見せていたけれど。
男と狸擬きの反応に、
「これはどうやら良くないことだ」
と察しはしたらしい。
男の隣で、いつでも抜けるように、腰に付けたナイフの鞘を握っている。
「……」
機械音声も壊れたレコードも、どちらの単語も、この世界では通じない。
今も機械的に同じ言葉を繰り返す眼鏡娘は、それでも瞳孔の開きっぱなしの瞳で、我と再び目を合わせれば。
ひゅっと息を吸い込み唇を身体を震わせながら、その場に膝を付くように座り込んだ。
操り人形が、糸を切られでもした様に。
『……この人間は、何かおかしな病気や、異常があるのか?』
狸擬きだけでなく、今もナイフの鞘に手を掛けたままの狼男の尻尾も、大きく膨らんでいる。
「そうの。こやつはの、山の長も見ていた黒い靄に、身体を乗っ取られておるの」
我の言葉に、我を抱く男も身体をギクリと強張らせる。
「乗っ取られてる?」
「そうの」
まこと稀有な症例の1つであろうの。
「お主」
男の胸の中から、我は問う。
「ここまで来るまで、お主は1人ではなかったろうの」
少なくとも、隣の国までは、同行者がいたはずである。
我の言葉がどう伝わったのか。
「あああああああなた黒い黒い黒い黒い黒い黒い髪素敵素敵素敵素敵ねすてすてすててててて」
返事は聞けず、今はどこも見ていない瞳であるのに、我の髪色を褒められた。
べたりと地面に座り込んだ眼鏡女の腕はぶらりと下がり、口から放たれる黒い靄は濃く。
(……少しばかり、良くないの)
狸擬きの毛はますます膨れ、そのうち宙に浮くのではないか。
「の、我は大丈夫の」
男の胸の中で小さく身を捩れば、男は渋々腕の力を弛め。
「平気の」
渋い顔をする男の頬を撫でてから、我は、大きく膨れたままの狸擬きと共に、眼鏡女の前に立つ。
「……の」
「……」
目は合わない。
「お主は、何者の」
眼鏡女の冷たい頬を両手で包み、至近距離で眼鏡女の目を見つれば。
「わわわわわたしはただ身体が欲しいんですよ身体が身体が身体が身体が肉体肉体肉肉肉肉の身体がですけど私は賢いから木の実に絡んでいたらこれが食べた食べた食べた食べた食べた食べべべべべ」
「……では再度訊ねるの。お主の同行者は、どうしたのの」
顔を寄せ、吐息を、眼鏡女の口許に吹き掛けるように問い掛ければ。
「凄い凄い凄い凄い凄い凄いなにこれなにこれなにこれなにこれ吸われる吸われる吸われる吸われる消えるの消えるの消えるのいやだいやだいやだいやだいやだいやだ」
「我の言葉を聞くの。こやつ自身の同行者は、どうしたのの?」
語気を強めれば、
「街に街に街に街に街に街に街に折角折角折角ここまでここまでここまでここまでここまでここまでここまで」
眼鏡の奥の瞳から涙が溢れて来た。
(本来のこやつの同行者は、街に置いて来たのかの)
こやつにどうにかされた、などではない様子。
ただこやつが馬車を奪い、ここまで1人で来たと見て間違いないか。
黒い靄が、眼鏡女の目を通して見た馬車の操縦の記憶のみで。
(大したものであるの)
いや、元々の眼鏡女が優秀であるのかもしれない。
「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ消えたくない消えたくない消えたくない消えたくない」
消えたくないとな。
「人様の身体を無断で拝借し好き勝手し、嫌も何もないであろうの」
我の呼吸に合わせ、黒い靄が我の中に吸われては霧散していく。
「うううううううううう」
それにしてもである。
「……お主は、また随分と、感情があるの」
そう。
そう、まるで。
「……の、お主、元は人かの」
唇が触れる距離で、男と狼男には聞こえぬ様に、こそりと問うてみれば。
「知らない知らない知らない知らない知らない知らないいいいいいのがいるいるいるいる中に中に中に中に中に中に中に視える全て全て全て全ては過去の」
「?」
「知らない世界が広が」
眼鏡女は意味をなさない言葉を唐突に止め。
「……ぁぁぁあああぁぁぁ……」
眼鏡女の身体の力が抜けて行くのを感じ。
(ふぬ?)
どうやら、黒い靄は眼鏡女の身体から取り除かれた様子。
(ふぬふぬ)
どうにも我はとかく優秀であり、見事、黒い靄だけを吸い出せた模様。
何も聞けずじまいだけれど。
あの饒舌っぷりに対して、根性はからっきしであった。
我の呼吸だけで消滅するとは。
(ふん……)
『主様、お疲れ様でございます』
徐々に膨らみが普段に戻りつつある狸擬きには労られた。
「ふぬ。……のんっ?」
意識を失った眼鏡娘がぐたりとこちらに倒れ込んできた。
「フンッ!?」
狸擬きがぐいと割って入り、やってきた男と狼男が慌てて眼鏡女を支えてくれ、背後の敷物の上に寝かせれば。
『この人間の女は、大丈夫、なのか……?』
敷物の上でもぐたりと弛緩し、動かない。
そうの。
「黒い靄は、抜けたようだけれどの」
胸に耳を寄せれば、心臓も動いているし、ただ気を失っているだけ。
さりげなく匂いを辿れど、失禁などもしておらぬ様子。
「旅の途中で、たちの悪いものに、身体を乗っ取られた様の」
黒い靄と、悪い意味で相性が良かったのであろう。
性に奔放なシスターと、自称母親を名乗る頭蓋骨を持っていた娘を思い出す。
あれは、頭蓋骨から我に直接乗り換えようとするお粗末にも程がある「何か」だったけれど、この眼鏡女の中にいた何かは、すぐさま我を脅威だと気付き、抵抗をしていた。
魔女の村でも、召喚術で無理矢理こちらの世界に出てきた何かも、少女たちの身体に乗り移るのが目的であったのか。
では。
黒い靄たちは、
(人の身体を欲しがっているのの……?)
「……」
記憶を辿れば。
いつかの、そう、遠い遠い黒い城の黒い靄は、人に乗り移る様子はなかった。
(黒い靄も、それぞれなのかの)
個性というものであるか。
『……こういう場合は、どうするのが“正しい”になる?』
狼男が、男に問うている。
「そうだな。この彼女には、連れ、仲間がいるらしいから、目を覚ますまで少し待つべきかな」
男も、これはあまりない珍しい出来事だと狼男に伝えている。
「とんだピクニックであるの」
そうだ、ピクニックで思い出した。
狼男と、兎とリスを狩ったののと冷蔵箱を開けて見せると、
「お、上手だな」
解体を褒められたけれど。
「そっちは狼男が捌いた兎の」
「……」
我が不器用なのか、狼男が器用なのか。
これは宿の方に卸そうかと男が不自然に話を逸らし、我が頬を膨らませた時。
「フーン」
狸擬きが山の方を振り返り、
「のの?」
山道の方から、パタパタと鳥が飛んできた。
足に金具を付けた、人間の元で働く小鳥。
小鳥がこちらに気付いて飛んでくると、続いて、
「ああっ……いた、いましたよ!」
「まさか、こんな所まで来ていたとは……っ」
若い男と、ループタイが洒落た老人が、借り馬車と思われる簡易な馬車で現れた。
「あなた方が、彼女を保護してくれたのですか?」
保護。
成り行きであるけれど。
血相を変えてやってきた2人は、言うまでもなく眼鏡女の連れらしい。
倒れている姿を見ても、慌てるのではなく、寧ろ安堵の気配すら読み取れ。
(……のの?)
話を聞こうにも、空は雲行きが怪しい。
「天気はどうかの」
狸擬きに訊ねれば。
「フンフン」
雨は多少降りますが長くは続きませんと狸予報。
ならば、娘を担いで村まで向かうより、ひとまず天幕を建てて話を聞いた方が良さそうだと、荷台から取り出した大きな天幕を広げ、まだ目覚めない眼鏡女を中に運び。
珈琲と紅茶を淹れれば、パタパタと雨粒が落ちてくる音。
男の淹れた珈琲に、砂糖をたっぷり落とし、
「ああ、とても美味しい」
と目尻を下げて喜ぶ初老の男は。
「自分は山向こうの国の大学で、生徒たちに勉強を教える傍ら研究をしている者です。こちらの彼は助手で、あなた方が保護してくださった彼女も、助手兼研究者なのです」
同行した大学の仲間はもう3人おり、もう1人は雇った冒険者だと。
冒険者ともう1人は、自分達が走って来た道を戻るように彼女を探しに行き、残りの2人は、街で待機していると。
その彼等たちには、先刻飛んできた鳥を再び飛ばし、眼鏡娘が見つかった報告をしている。
この教授率いる一行は、自分達の国から隣の国までは確かに距離はあるけれど、道程はそう難解ではないのだと、地図を広げて教えてくれた。
我の男曰く、教授たちは我等がやってきた隣の国の少しの訛りを含めた言葉を話している様子。
その教授たちの住まう土地は、こちらよりも寒い国で、春を待ち、兼ねてから約束していた隣の国まで訪れている最中。
今も意識を失ったままの彼女が、もう半日もしないうちに、あの国に辿り着くという時。
「彼女はムードメーカーであり、好奇心旺盛な所も魅力でもあるんですが、
『秋になる実のはずなのに、なんで今実ってるの?』
と、道なりに実っていた果実を不用意に食べた辺りだと思います」
時期外れの果実であるか。
とてもお喋りな彼女が、珍しく黙っていたと思ったら、発声練習の様な声を出したり、好奇心を越えた、まるで初めて世界を見るような目でキョロキョロとそこら中を見て、一瞬にして記憶をなくしたのかと疑う様な、態度も言動も色々とおかしくなり。
長旅で疲れたのか、そんな彼女の様子を窺いつつ、何とかこちらの国に到着し。
予定では大学へ、我等の馴染みないお嬢様大学の方へ向かう予定ではあったけれど、仲間の1人が正常には思えず、一先ず見掛けた厩舎に馬を預け、休憩をしようとした一瞬の隙に、彼女は荷馬車ごと消えてしまったのだと。
大騒ぎになったであろう。
しかも、あの娘の悲劇の残穢がまだ残っている国で。
そしてこの教授一行も、到着したばかりの国で、仲間が一番荷を積んだ馬車で消える騒動。
不幸中の幸いなのは、道が限りなく少なく、小さな村へ向かうならともかく、馬車が通る道は、この山を越える道くらいしかなかったこと。
二手に別れ、この2人は馬車を借りて休みなく山道を走ってきたと。
よく見れば教授だけでなく、若い男もだいぶ消耗している。
眼鏡女も、まだ目覚めそうにないし、小雨ながらも雨も続いている。
であれば。
「おやつでも作るかの」
「フーン♪」
賛成でありますと狸擬き。
「何がよいかの」
温いものの方が良いだろうけれど。
「フーン」
わたくしめはホットケーキが食べたいですと狸擬き。
「そうの」
では、
「今日は卵白を泡立てたものにするかの」
「フン?」
アホみたいに力があるものが、我を含めもう1人もいる。
人の男3人が話している間、我と狼男と狸擬きで、
「高速でぐるくるの」
「ぐるぐるか」
「ぐるぐるの」
「フンフンフン」
こんもり泡立てた卵白を生地に混ぜ合わせ。
『……ううん、あの粉や卵が、こんな風になるのは、何度見ても驚く』
「の、不思議なものであるの」
いつもより小振りで高さの出たホットケーキを焼いては、木皿に移し、バターとジャムやら蜂蜜を垂らしてやれば。
「おお……っ」
「いい香りですね」
喜んで食べてくれる。
『ふわふわだな、凄く美味い』
「フーン♪」
いつものも美味しいですが、これは口の中で溶ける様、また美味でありますとご機嫌狸。
続けて生地を焼いていると、賑やかな声のせいか匂いのお陰か、
「んん……?」
眼鏡娘が目を覚ました。
手探りで眼鏡を探し、若い男が持っていた眼鏡を差し出すと、
「あ、すみません。何かすごーくいい香りがしますね。あ、あれ?ここどこです?」
眼鏡を掛け、半身を起こし、え?え?あれ?と戸惑う眼鏡娘は。
教授が問えば、木の実を頬張った辺りから、記憶はほとんどないと。
そして記憶のない間の自身の話を聞かせられれば、
「ひっひぇっ!?私はなんてことを、も、も、申し訳ないですっ!!」
胸の前で両手を絡めて頭を下げ、
「記憶がないとはいえ、見知らぬ旅人さんたちも大変にご迷惑をおかけしました!すみませんそしてありがとうございます非常にお世話になりましたっ!」
早口はどうやらこの眼鏡女の仕様らしい。
食欲はあるようで、湯気に眼鏡を曇らせながら口一杯にホットケーキを頬張る眼鏡女は、
「んふふ?これ美味しいですねぇ!すごく柔らかいどうやって作るのかは後で聞くとして、今はええと私の記憶、記憶ですよね、まずは記憶……」
口をもごもごしながらぶつぶつ呟き、皆を見回し。
「……んん?」
ふと我と目が合うと、咀嚼すら止め。
(……ぬ?)
「……あ、なんでしょうかこれは私の知らない記憶があります。空を鳥に似たものが飛んでる」
「……?」
皆、揃って首を傾げる中。
(のの?)
「低音の轟音、視界で認識できる高さから予測すると物凄く大きな質量のある塊が空を飛んでる……」
(おやの)
どうやら。
あの黒い靄は、我が取り込む間際、我の記憶に干渉した。
それを、この娘が記憶として残している。
空に飛ぶもの。
旅客機辺りであろうか。
(ぬぬん)
あまりに見たものを記憶しているようなら、何とかしなくてはと思ったけれど、
「鳥……?」
しばしぼんやりした眼鏡娘は、けれど手に持ったホットケーキを思い出したのか、木皿に流れた蜂蜜にホットケーキを擦り付けながら口に放り込む。
「とても興味深い話ですね、他に何か覚えていることは?」
教授の問いに、
「んぐ」
咀嚼しつつ首を傾げていたけれど。
「すみません他は何も」
かぶりを振り、なんかやたらと空腹なんですよねと珈琲を一気に飲み干し。
「では、さっき言った巨大な鳥のことを、もう少し詳しく聞かせてくれ」
と、興味深げな同期の青年の質問には。
「へ?鳥?私、そんなこと言いました……?」
干渉した記憶は、あっさり霧散した様子。
「え?」
「?」
その表情、言葉、瞳、動き、全てを観察するも、眼鏡女から、嘘は感じられない。
どうやら。
(平気そうであるの)
それより。
「これから山を越えて戻るのは、やめておいた方がいいかと」
男が、我の口にホットケーキを運びながら、少しの懸念を含んだ顔で口を開いた。
「あぁ……」
「確かに、そうですね」
雨こそあっさりと止んだものの。
もう午後も、昼より夕刻の方に近い陽の傾き。
村は、よその国との行き来が多いため、鳥便屋も存在している。
休憩も兼ね、この時間ならば鳥も飛ばせるからと村へ向かい、教授たちも村で1泊することになった。




