第96話
池を見渡せるベストポイントにあるお気に入りのベンチに座り、空を見上げた。
真っ青な空に大きな入道雲が覆いかぶさろうとしている。
今日は夕立が来るかもしれないな。
私の部屋では今ごろ、女だけのお茶会で賑わっているだろう。恐らく、昨夜のマーシャの怖がりっぷりを参加しなかったハンナに面白可笑しく話して聞かせているのだろう。
部屋から一人こっそりと抜け出してきたのにはわけがある。
ブレさんと約束したのだ。アレックの小さな頃の話を聞かせてくれると。
その約束の相手は今のところはまだ来ていないようだ。
アレックには内緒にしている。ブレさんにヤキモチを妬くのも面倒臭いし、話したとしてもブレさんから聞きだす話の内容を知ったら、いい顔をしないだろうと思うのだ。
このベンチ、アレックの仕事部屋からは死角になっているのだ。だから、アレックは私はお茶会に参加していると思っているだろう。
……それにしても暑い。
夏真っ盛りの日本に比べれば、大したことないのだろうが、日差しをずっと浴びているのはしんどい。
ああ、目の前に水がある。水浴びしたいな……。
カリビアナには海がなければプールもない。どこで涼めというのか。
池しかないじゃないか。
幸いにもここはアレック部屋からは死角。さらに待ち人はこない。
死角バンザイ。
私は長いスカートをぎりぎりまでたくし上げ、おっこちないようにかたく縛った。靴を脱ぎ捨てて、ゆっくりと足を沈めていく。
こんなこともあろうかと、前々から長い棒を使って深さを計っておいたのだ。この辺りなら大した深さはないはずなのだ。
「ああ、冷たくて気持ち良い」
なんでもっと早くやらなかったのかと、自分を呪うほどに良い感じだった。
池の水は、底がはっきりと見えるほどに透き通っていて美しい。
この透明度なら、泳ぐことも問題なく出来るだろう。その際にネックになるのはやはりアレックだろう。
アレックは、私が水着を着ることをよしとするだろうか。……無理だ。どう考えても無理だ。
アレックを池の中に誘い込んで、この素晴らしさを体感させた後で説得してみてはどうだろうか。
そんなことを考えていたせいで、思いの外深いところまで歩いて来てしまった。
スカートにも下着にも水が染み込んで来ている。
こうなってしまったら、もう少し濡れたも、大分濡れたも変わりなく叱られるのみ。
私は思い切って、頭まで潜った。その際、誰かの声が私を呼んでいたような気がする。
ここは死角。アレックのはずはない。気のせいだったのかな。
ぼんやりとそんなことを考えていたが、その考えも早々に立ち消えてしまった。それというのも、池のなかのなんと美しい事か、私はその水中の世界に魅入られて他の事などどうでもよくなってしまったのだ。
池ってこんなに水が綺麗なものなんだろうか。
私が日本で見た池のイメージはあまり美しくなく、底が泥のせいか水までも茶色っぽい感じがした。池の中に入りたいとは、さすがの私でも思わないほどだった。
見たこともないカラフルで小ぶりな魚が小さな群れを作って私の目の前を横切っていく。
まるで海みたいだ。それも南国の海。
魚達は私を警戒することもなく、不思議そうに近づいてくる。この池に人が入ることなんて一度もなかったはずだ。始めてみる大きな生き物に興味津々なのかもしれない。
小さな魚がパクパクと私の腕をつついている。それが何だかこそばゆくて仕方ない。笑ってしまうと、息が漏れて呼吸がままならなくなるので何とか堪えていた。もう少し魚達の好きなようにさせてあげたい。
きっとこの魚達の状態は、ワクワクを見つけたときの私と同じものなんだと思うから。それを邪魔したくはなかった。
そんな風に小さな魚達と戯れていると、背後から何かが近づいてくる気配を感じた。水の動きから考えて、とても大きな魚だと思われる。
まさか、池にサメはいないよね?
日本の世界の常識はこの世界の常識とは違うと分かってはいるが、まさか池にサメなんかはいないはず。
こんな時になって、アレックが私を池に入らせなかったのは、サメが、サメじゃなくても凶暴で殺戮性のある生き物が住んでいるからだったとしたら……。
私って今、かなり危険なんじゃないの?
私は意を決して振り向いた。が、それよりも一拍早く体が水上に持ち上げられるのを感じた。
私の腰に感じたのは明らかに人の手だった。それもとても大きなもの。
「サメじゃない……?」
開口一番そう言った。
「はあ? なに言ってんだ。お前死ぬ気だったのか? 池に入るなんて正気の沙汰じゃない。とにかく上がれよ」
私と魚達のひと時を奪ったのは、サメではなくブレさんだった。
「ブレさんこそどうして池に入ってるの? ブレさんもあまりの暑さに耐えられなくて入ったんだね。うんうん、気持ちは分かるよ。一緒に怒られてあげるから、心配しなくていいよ」
そうか、ブレさんも案外アクティブ派だったんだ。じゃあ、一緒に冒険とか行ってくれるかな?
「馬鹿か、お前は。俺はお前が死ぬつもりで池に入ったんだと思って、それで……」
ああ、そうか。潜った時にかすかに聞えた声はブレさんのものだったんだ。ブレさんには私が自殺を図ったように見えたんだね。だから、急いで自分も池の中に飛び込んで、私を助けに来てくれたんだ。
「ブレさん、私を助けに来てくれたんだね。ありがとう」
「お前を助けたんじゃない。お前が死んだら、アレクセイが泣くからな」
「けどね、私、死ぬ気なんてこれっぽちもないんだよ。あまりに暑くって、目の前に池があるでしょ、我慢できなくって水浴びしちゃっただけなの。心配かけてごめんね。だから、もう手はなしても大丈夫だよ」
ブレさんの手はまだ私の腰にあり、支えてくれている。そうされなくても、この辺はまだまだ浅瀬で問題なく足をつくことが出来る。
「お前……」
絶句し、腰の手を放すブレさんをよそに私は、自分の手を水中に入れる。そしてそれを受け皿にして水をすくうと、ブレさんめがけてぶつけた。
「ほらっ、ブレさん気持ちいいでしょ?」
顔面にまともに水をかけられたブレさんは、鼻に水が入ったのか激しき咳き込んだ。私はそれを見て、可笑しさに腹を抱えて笑った。
ブレさんの頬に流れる雫は、水なのか咳き込んで苦しくて出てきた涙なのかは分からない。
漸く咳が治まると、今生の恨みとでもいいたそうな鋭い目で睨みつけてくる。これは、激しい反逆が来ると予想した私は、大慌てで逃げに転じた。しかしながら、水中では早く歩く事なんて不可能。あっさりとブレさんの手に捕まってしまった。
ブレさんは、私の首に腕を回して、軽く締めた。私が女であることを考慮した軽めの攻撃に、ブレさんの優しさを垣間見ることが出来る。
「ごめんっ。ごめんって。けど、水って本当に気持ちいいでしょ? ここの人たちってさ、こんなに暑いのに水に入ろうとしないよね。私が育ったところでは、夏には海に行ったり、プールに行ったりして水に体を浸して、体に溜まった熱を開放するんだよ。目の前にこんなに素敵な池があって、それなのに誰も入ろうとしないなんて勿体無いじゃない。そうは思わない?」
ブレさんの腕は緩められ、開放された。
顔だけブレさんの方に向け、見上げれば、ブレさんが不思議な瞳で私を見下ろしていた。言葉では説明できない不思議な瞳だった。その瞳の意味が一体何なのか、私には分からない。見たこともない何かがそこにはあった。
ブレさんはなにも言わなかった。
その代わりに、その瞳が近づいてきて、何で瞳が近づいてきているんだろうと不思議に思っているうちに私の唇は何かに塞がれていた。
それは、濡れていてひんやりと冷たかった。
それがブレさんの唇であることに気付くのに、そう時間はかからなかった。