第90話
空を見上げると、心が癒される。
その壮大さに抱かれているような気がするからだろうか。大地を背にしているゆえ、自分自身も自然に帰った気がするからだろうか。
どちらにせよ、この短い時間でも、アレックを癒してくれているのは間違いない。
その偉大さに感謝した。
「毒殺か……」
アレックが小さく呟いた。私はそれには答えなかった。私に答えを求めているとは、思えなかったからだ。
「まさか、自分の母親が毒殺されてるなんて思わなかったな」
それはそうだろう。アルさんの代からは、そういった生臭い争いはなかったわけだから。ましてやアレックは、実の母親が病気で亡くなったときかされていたのだから。
「不思議だな。よく分からないんだ。悲しいのか、苦しいのか、何とも感じていない気もする。自分がどう感じているのか、分からない」
「気が動転してるんだよ。落ち着いたら、また違ってくるんだと思う」
今はまだ聞かされた情報量が多いので、整理し切れていないのだ。
だから、まだ呆然としている状態なのだ。
私も、自分が両親だと思ってきた人が、全く血の繋がりがないのだと聞かされた時には、まず呆然としたものだ。あまりの出来事に、脳が受け入れることを拒否するのかもしれない。
「なんにせよ、お前が隣にいることを感謝する」
視線は、空に向けたまま、繋がれた手に力を込めて、アレックは言った。
そう思ってくれただけで、私は嬉しい。私に何が出来なくても、ただ隣にいることは出来る。その事を認めて貰った気がして誇らしかった。
「アレックの役に立てたなら嬉しい」
「そんな可愛いこと言ったら、キスしたくなるだろ」
「すれば?」
「するぞ?」
「どうぞ?」
体を起こしながら交わされる、ムードもへったくれもない会話に思わず吹き出してしまった。
「なに、お前笑ってんだ?」
「だって、アレック。私達、どう考えたって今からキスするって感じの会話じゃないんだもん。色気なさすぎっ」
クスクス笑い続ける私につられたのか、アレックもしまいには、笑い始めた。
こんな時だけど、笑うって凄いことだなってつくづく思った。
笑うことが健康に繋がるとか、聞いたことがあるけど、それも分かる気がする。好きな人とどんな小さなことにでも、笑うことが出来れば心が元気になる。心が元気な時って、病気も吹き飛ばしちゃう。
私は、アレックの笑顔を見れたことが嬉しくて、笑いながら泣いた。途中で泣いてるのか笑っているのか、分からなくなりながら。
「なんでお前は泣いてんだ?」
「分かんない。そういうアレックだって涙出そうだよ?」
可笑しかった。何が可笑しいのかも分からないけれど、とにかく笑えた。そう、それこそ腹を抱えるほどに。
それなのに、泣いていた。泣き笑いってあるんだなって、どこか冷静な私が考えていた。
「ひどい顔だな」
「アレックだって」
「でも、愛しい……」
アレックは、私の唇を笑いごと呑み込んだ。
今まで響いていた二人の笑い声がパタリと止んで、突然の静寂が訪れた。
そのキスは、激しくて、苦しくて、切なくて、でもどこか温かくて、優しくて、愛しくて、そして塩っぱかった。
私の頬にこぼれ落ちる雫は、私の涙かアレックの涙か、もはや判断できなかった。
濡れた頬に緩やかな風がなぞり、ひんやりと頬を冷やしていく。
「塩っぱいな?」
「うん。涙と……鼻水も入ってるかもしれないね」
「全く。俺達って色気ないな」
確かに。
二人の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。アレックの今の顔は、決して格好良いとは言えない。けれど、どこか光って見えた。鼻水がテカってたわけじゃないよ?
本当に、格好良いって思ったんだ。そんなくしゃくしゃの顔を。
「私、相当アレックが好きみたい。そんな顔してるのに、格好良く見えるよ」
「俺も。こんなぐしゃぐしゃな顔して泣いてるのに、お前が可愛くて仕方ない」
アレックは、塩っぱいな、と言いながら、私の涙を舐めていく。さすがに鼻水は舐めとらないが。
「あのさ、いつになったら話し掛けていいのか分からないんだけど……」
アレックが私の涙を丁度舐め取り終わった時、その声は、申し訳なさそうに、それでいて少々憮然とした調子でかけられた。
「なっ、璃里衣っ。いつからそこに?」
このド恥ずかしい状況を一体いつから見られていたのだ?
イヤ、もうどこからとか関係なく、穴があったら入ってしまいたい。どう考えたって、イチャイチャシーンは、ばっちり見られてしまっているんだから……。
身内にラブシーンを見られるほど、恥ずかしいことはない。
って、なんでアレックは、この状況なのに私から放れようとしないのか。
私の頬に口づけなんかしてくれている。
そりゃ、嬉しいよ? だけど、時と場所を考えようよ。
「アレック。璃里衣が見てるから」
「?」
アレックのきょとんと小首を傾げた態度が何とも可愛らしくて、ついうっとり……、って違うわいっ。
「恥ずかしいから止めて」
「何が恥ずかしいことがある?」
涼しい表情がこ憎たらしい。
「いい? 例えばよ、アルさんやソフィアさんの前でこんなところを見られるのはイヤじゃない?」
ここまで言えば、さすがのアレックでも分かってくれるはず。
「それはイヤだな。あの変態野郎の前でそんなことしたら、妄想のネタにされかねない」
論点がズレてる。ええ、明らかに。それに、アルさんが変態じゃないことは、さっきもう話したはずなのに……。
「ああっ、お姉ちゃん。もう、私に気にせずイチャこいてていいから。ただ、アルさんが三時のティータイムをみんなでって言うから呼びに来ただけ。キリがいいところで、来てくれればいいと思うよ」
それだけ言うと、右手をひらひらと揺らしながら、私達に背を向けて去っていく。
こんな場面を見ても動じないのは、日本のお父さんとお母さんのイチャイチャシーンを見慣れているからだろう。お父さんとお母さんは、人前でイチャついたりしないタイプの人達だ。だが、私達姉妹が寝静まった後は、濃厚ラブラブタイムに変わるのだ。2階にトイレがないので、尿意を催し階下に降りた際にその現場に出くわすことがあった。私達姉妹の暗黙の了解、見てみぬフリをするべしということ。そのため、娘たちには見られていないと思っている。
「やっぱり私は、恥ずかしいな。人に見られるのは。アレックとキスしてる時の私の顔ってどんなだろう。自分で確認できないから、余計恥ずかしいんだと思う」
きっと、アレックが好きで好きで仕方ありませんって感じの表情を浮かべてるんだ。キスをしてる時が、一番正直な表情をしているんじゃないかなって思えるから、見られるのはアレックだけじゃないとイヤなんだ。
「……そうか。俺とキスしている時のあの顔を他の奴に見せるのは、確かに許しがたい。分かった。これからは、場所をわきまえることにする」
そんな風に言われると、自分の表情が一体どんななのか、気になって仕方ないのだが、アレックにそれを尋ねた場合のことを考えると、無闇に質問してはこちらに危険が降り掛かりそうだ。
なんにせよ、その結論にいたってくれたことにホッと胸を撫で下ろした。
でも、何でだろう。前にも一度同じような会話をしたことがあるような気がしてならない。あの時も、アレックは私の言い分に納得してくれたような気がするのだが。ということは、二度あることは三度あるってな状況に陥らないとも限らないということを覚悟しておいた方がよさそうだ。
「じゃあ、ティータイムだよ。みんなんとこ行こう」
先に立ち上がると、アレックの手を引いた。
アレックの表情がここに来たときとは違い、すっきりしたものになっている。だからもう、みんなの前に出ても大丈夫。