第88話
私が目を覚ましたのは、もう昼も近い時間だった。
視線をずらすと、アレックがじっくりと私を観察していた。
「いつから見てるの?」
「さあ、どうだったかな」
この口調じゃ、長いこと見ていたに違いない。
「アレックは寝なかったの?」
「俺は寝なくても平気だ。マリィにたっぷりエネルギーを貰ったからな」
あれからアレックに散々無理をさせられ、私は気を失うように眠りについた。それでも、まだ体がだるい。
そんな私とは対照的に、アレックの表情は健やかで、精気に満ちているように見える。
「何でそんなに生き生きとしてんのよ、この差は何なの?」
「そんなにキツいなら今日は俺がずっと抱いていてやる」
アレックが言った『抱く』は、抱き抱えて運ぶって意味合いしかないのだけれど、私はその言葉に必要以上に反応してしまった。
あからさまな態度を取ったことに、後悔するよりも早く、アレックの瞳が妖しく光った。
「お前の望みとあらば、一日中、抱いてやるぞ」
ニヤニヤとイヤな笑い方をするアレックに拳を突き付けた。
「そんなんしたら私、壊れちゃうよ。まだその……体が慣れてないもん」
「じゃあ、体が慣れたらいいのか?」
いいえ、そういうわけでは……。
お願いだから挙げ足を取らないで。
「そういう問題じゃない。……ねぇ、アレック。真面目な話をしてもいい?」
私は上半身を起こすと、私の隣で横になっているアレックを見下ろした。
「今だって真面目に話してるぞ」
「そうかもしれないけど、もっと真面目な話」
アレックも起き上がる。上半身に何も身につけておらず、その美しい筋肉美に見惚れてしまう。細いのに、きちんとつくとこついてるのだ。しかも、腹筋が割れてる。
ついうっかりまじまじと観察してしまったことを恥じて、顔を逸らした。
「何だ?」
顔を覗き込まれて、再び肉体美が視線の中に入ってくる。
「話すけど、その前に上、何か着てくれない?」
「いいぞ。好きなだけ見て」
ちくしょう。見ていたこと、バレていたか。
私のことをよく見てるというか。そりゃ、見ていてくれるのは、この上なく嬉しいことなんだけど、見てほしくないところまで見られてしまうのはちょっと……。お願いだから、私に逃げ道を用意しておいて欲しい。
「もう、アレックも変態」
「もって何だ? あのド変態野郎と一緒にするな」
アレックは、本気でアルさんのことを変態だと信じ切っている。
確かに変わったところがある人だけれど、私はもう知ってしまった、アルさんは本当の変態ではないのだ。
「話し進まないから、もうその話はおしまい。あのね、今朝アルさんからアレックの本当のお母さん、アニスさんのことを聞いたの」
アレックの表情が瞬時に真剣なものに変わっていく。
たった今までの空気がまるで嘘のように、重苦しい空気が二人を包む。
あまりの息苦しさに、それを払拭しようと咳払いをした。
「アルさんは、私からアレックに伝えて欲しいって言っていたけれど、本当にそれでいいのかな? 私はね、きちんとアルさんから聞いたほうがいいんじゃないかって思うの。アレックは、どう思う?」
頼まれたけど、その頼み事を必ずしも守ろうとは考えていなかった。
アルさんには申し訳ないと思うけど、こういう類のものは、又聞きするようなものじゃない。
アルさん本人が直接話すべきであり、誤解を解くべきなのだ。
「実の母上のこと?」
「うん。自分の母親がどんな人で、アルさんとソフィアさんにとってどんな存在だったのか。そして、その死の背景と理由。アレックは、きちんと聞くべきだと思う。私ではなく、アルさんから」
自分の母親がどんな人だったのか、アレックは知らない。
ソフィアさんが、自分の本当の母親じゃないことを知ったアレックが心を閉ざしてしまったため、アニスさんのことを話せなくなってしまった。
今話したら、ソフィアさんを恨んでしまうんじゃないかと、危惧したからだ。
一度その機会を逃したことで、教えるタイミングを完全に見失ってしまったのだ。
話そうと思えば話せたし、聞こうと思えば聞けた。それが出来なかったのは、アルさんの言い分では、再び心を閉ざしてしまうことを恐れていたから、であり、アレックの言い分では、ただその事実を受け入れるだけの余裕がなかったから、である。時間が立てば経つほど、話し辛く、聞き辛くなっていったのだ。
「お前が傍にいてくれるなら……」
「アレックがそれを望むなら、私は喜んでそうするよ」
私をいつも支えてくれるアレックが望むなら、私は共にいようと思う。それで、アレックの心が少しでも休まるのなら。
アレックが幼かった頃は、あの竜の縫いぐるみがその役目を果たしていたけれど、今は私がいる。私がアレックの心の傷を癒してあげる。
重苦しい空気と言うのが今の雰囲気に一番適しているように思う。
正面に座るアルさんもソフィアさんも笑顔であるのにかかわらずだ。
私はアルさんに申し訳なく思い、視線があったところを見計らって小さく頭を下げたが、恐らくアルさんにはこうなることを予測していたのだろう、苦笑を浮かべ頭を横に振った。
アルさんは、重く深い溜息を一つすると、アレックを見つめ口を開いた。
その内容は、今朝私がアルさんに聞いた内容と同じものだったが、その要所要所でソフィアさんがつけたしをする形で口を挟んだ。
アレックはというと口を真一文字に閉じたまま、表情という表情を浮かべないままその話に聞き入っていた。アレックの左手は、私の右手を握っており、時折握る力が強くなることがある。それは、アニスさんが毒殺された件のところが一番強くなったのだが、表情はやはり崩すことはなかった。
アレックが自分の心と戦っている。そう感じた。
「アニスは本当に心の奇麗な女性だった。私がアルを好きだと思って、遠慮したり、私達のことを気遣ったり。自分のことよりもまず、私達が幸せになることが第一だった。誰よりも私達を思ってくれていた。私は、アニスに恋をしていたわ。この気持ちは、本当に恋だったのよ。アルを愛するよりも強く、私はアニスを欲していた。この気持ちを口にすれば、アニスが困ってしまうから、自分の心の中に封印していたけれど、アルには分かっていた。アルもアニスに恋をしていたから。私達は同時に初恋の人を奪われたの。私のせいで……。私がもっと侍女の動きを注意深く見ていれば、こんな事にはならなかった。私のせいで、私の、アルの、あなたの大事な人を奪ってしまった……。許される事ではないけれど、どうか言わせて。ごめんなさい」
美しい顔が涙で濡れていた。酷く乱れた表情なのに、私はそれを美しいと思った。
今でもソフィアさんはアニスさんに恋をしているんだ。そう思った。
「アレクセイはまだ赤ん坊だったからその騒ぎは知らなかっただろうが、あの頃のソフィアは荒れに荒れてね、その侍女に飛びかかって行った。本気で殺そうとしたんだよ。でも、私達は必死で止めた。そんなことをアニスが望んでいるわけがないんだからね。……アニスはね、知っていたんだよ。自分の食事に毒が盛られたことに。彼女に毒が盛られることは、度々あったんだ。だから、彼女は分かっていた。その皿から明らかに毒の匂いがしていることに。それでもそれを食べたのは、ソフィアを思ってのことだ。あの時、アニスはソフィアに気付かれないように私に言ったんだよ、口の動きだけでね、『ソフィアをよろしく。幸せになって。さよなら』。そして彼女は倒れ、二度と口を開かなくなった」
アニスさんが自ら死のうとするということは、やはりどこか裏で、それを仄めかしたものがいるように思えてならない。ソフィアさんが幸せになれないのは、アニスさんがいるからだ、と。
今となってはその全てを知ることは出来ないが。