第86話
私とアレックは、部屋に戻っていた。
アレックは、部屋に戻る道すがらも部屋に戻ってからも決して私を放そうとはしなかった。
寝癖のまま走りだしてしまうほどにイヤな夢をみたのだから、仕方のないことなんだろうか?
「あの、アレック。水が飲みにくいんだけど……」
私は、アレックの膝の上に座らされ、腰にはアレックの腕ががっちりと回されている。
そこまでしなくても、私は何処にも行く気はないのだけれど。
私の訴えをさらりと受け流して、アレックは、すまし顔だ。
「アレック。あのね、謝りたいことがあるの」
「何っ。やっぱりあいつに何かされたのか? そうなら正直に話せ。怒らないから」
嘘だ。
アレックの声は、固く冷やかに響いているし、そして何より腕の力が強まり、苦しいくらいだ。
「違う、違う。そうじゃなくて。私……小さい頃のこと全然覚えてなくて、アレックと会ったことがあることも……ごめんね」
恐る恐る顔だけ振り返れば、アレックは、目を瞠っていた。
「ド変態に聞いたのか?」
「うん。それでね、もしまだぬいぐるみを持っているなら、見せてほしいんだけど。……ごめん、さすがにもう捨てちゃったよね?」
アレックは、無言のまま私を隣の椅子に座らせると、立ち上がって寝室へと消えた。
私が忘れていたことに怒って、顔を見るのもイヤだと思われてしまったんだろうか。
想いは寝室へと向かっているのに、体は怖くて動いてくれない。
追いかけて謝りたいのに、怖くていけない。
しばらくその場で悶々と考えていると、アレックが姿を現した。
その手の中には、可愛らしい竜のぬいぐるみがあった。
ああ、私って小さな頃から竜が好きだったんだ……。
「ずっと持っててくれたの?」
「ああ、当たり前だ。ほら」
少し照れたように笑うアレックからそのぬいぐるみを受け取った。
その途端、私の意識はぬいぐるみに吸い込まれた。
眩しい光を感じて目を開けていることが出来ず、目を閉じていても感じる強い光を腕で遮った。
少しずつその光が弱まって行くのが分かった。完全にそれが納まるのを待って、少しずつ慎重に目を開いた。
それは、そう王城の庭園の中だった。
不思議なのは、その光景を私が見下ろしていることだった。言うなれば、幽体離脱をしてしまったような感じなのだ。
実体のない自分自身は、ふわりふわりと宙を浮くことが出来るようだ。
すぅっと意識を目的物へ向ければ、身体も動いてくれる。
楽しそうな笑い声が聞こえて、そちらに意識を向ける。
すぐに笑い声の正体が分かった。
今よりも少しだけ若いお父さんお母さん、アルさん、ソフィアさん。そして、小さな女の子がきゃっきゃっと騒ぎながら走り回っており、その女の子より少し年上と思われる男の子が追いかけている。
その女の子が私であり、男の子がアレックなのだろう。
おそらくこれは、アルさんが話してくれた時の映像なんだろう。
アレックと戯れる私は本当に楽しそうで、あの竜のぬいぐるみをしっかりと片手で抱いていた。もう一方の手でアレックの手を取ると、何かを見つけては駆け出したり、目を輝かせたり、笑ったりしていた。
今の私とまるで変わっていない。
もっと近くで見たい。
そう思った瞬間には、もう私は地面に立っていた。
すぐ近くには、小さな私とアレックがいて、見つかってしまうんじゃないかってヒヤヒヤした。
パッとチビマリィがこちらを向いたので、ぎくりとした。
チビマリィは、私を見つめているように見える。私がここにいることが、バレてしまってるんだろうか?
突然、チビマリィが微笑みかけた。思わず私も微笑みを返していた。
「マリィ? どうかしたか?」
チビアレックがチビマリィに尋ねた。
声変わり前の線の細い可愛い声に、身悶えしてしまいそうだ。
「ううん。何でもないよ」
チビマリィには、私は絶対に見えていただろう。それでも、チビアレックに何も言わなかった。私が私であることに気付いているからなのかも。
「本当に仲がいいわね、二人は」
ソフィアさんがチビな私達を見て、それは心底嬉しそうに目を細めていた。今は、大人の色気がむんむんなソフィアさんだが、この頃はまだ少し少女の部分が見え隠れしていて、そのアンバランスさが実に魅力的だった。
あれ、さっきいた筈のお母さんがいない……。
「マディ。ほら、そこは危険だから降りておいで」
お父さんが声をかけた先は、木の上、そこにお母さんが笑顔で見下ろしていた。
「だって、ここって眺めがいいのよ。あなたも来たら?」
「そんな所にいたら、マリィも真似しちゃうじゃないか」
「あら、いいじゃない。マリィも来る?」
普通、木登りをする親はいないだろうし、ましてや、子供(恐らくこの頃4歳くらいだろう)を木登りに誘う親なんてそうそういないだろう。
「登るっ」
目をキランキランさせたチビマリィが、小さな体では、腕を回すことも出来ない大きな木に果敢にチャレンジしている。
だが、流石に出来なくて(当たり前だ)、泣き出してしまった。
「大丈夫だよ、マリィ。今は出来なくても、もう少し大きくなれば出来るようになるからね。そうしたら俺も一緒に登るよ」
チビマリィを慰めたのは、チビアレックだった。完全にチビアレックに懐いてしまっているのか、チビアレックの声を聞いた途端に、泣きやんだ。
「うん。アレックと一緒に登る」
我ながら素直で良い子だと思う。
私は、日本で暮らしている時もよく木に登っていた。小さな頃から、ここに来るまでずっと。木の上にいると凄く落ち着いた気分になった。
この頃の思い出が私の心の中に、微かでも残っていたからだろうか。無意識にアレックの事を思い出していたのだろうか。
「マリィはアレクセイのことが好きなんだね?」
アルさんが言った。今のような変態な雰囲気は全くなく、とっても爽やかな青年に見える。
「うんっ。大好きっ。アレックも私のこと好きだよね?」
「うん。マリィが大好きだよ。だから、将来俺のお嫁さんになって欲しいんだ。マリィ、いつか俺と結婚して下さい」
私はチビマリィの後ろに立っていた。その言葉が、自分に投げかけられているように感じて、目の前がチカチカした。
「はい。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げたチビマリィは、顔を上げた後、チビアレックに飛び付き頬にキスをした。
くすぐったそうにケラケラと笑うチビアレック、クスクスと幸せそうに笑うチビマリィ。そして、その回りでは、その二人のやりとりを身悶えながら、見守っていた大人たち。
「なんて、可愛らしさだ。まるで天使のようだっ」
「ああ、こんな素晴らしいプロポーズを聞いたのは初めてだよっ」
「ねぇ、二人両想いなんだから、許婚でいいんじゃないの?」
「そうよ、この二人が結婚したら私達も家族になるんだわ。楽しそうじゃないっ。そうしましょう」
いともあっさりと二人の関係は決まった。
大人がそんなことを考えていることなど知る由もないチビッ子二人は、手を繋いで、ラブラブムード満点で公園の散策へと戻って行く。
そうか、私本当にアレックにプロポーズされていたんだ。
そう思った瞬間、何かに吸い込まれるように私の体はふわりと上空に上って行く。ちらりと、お母さんがこちらを見て、微笑んだ。
お母さんも気付いていたんだ。私がここにいること。
私はそっと目を閉じた。