第85話
うっすらと明けてきた日が私とアルさんの顔に光をあてる。
アレックにそっくりなアルさんの横顔にドキリとしてしまった。
アルさんはとても若い。アルさんだけじゃなく、お母さんもソフィアさんも大分若い。この世界の老いる速度は日本よりもゆっくりなんじゃないか。
そんなどうでもいいことを考えていた。
「大事なことを忘れてしまっていたんだ」
アルさんは、自嘲気味に笑った。
「13年前、君に頼まれたことがあったんだ」
小さな君は、こっそりと私の所に来ると、始終大事そうに抱いていたぬいぐるみを私に差し出した。
突然のことにキョトンとしている私に、
「もし、アレックに悲しいことがあったら、これをあげて」
と、言った。
大事なぬいぐるみだったんだろうね、目には涙がたまっていて、今にもこぼれ落ちそうだった。
「大事なものなんだろ? 良いのかい?」
そう私が尋ねると、君は服の袖で乱暴に目を擦ると、にっこりと微笑んだ。
「あのね、このぬいぐるみは私の一番の宝物だったの。でもね、私の一番はアレックになったんだよ。私とアレックは、すぐに会えないからこの子を私の代わりに置いていくの。きっとこの子が私の代わりにアレックを守ってくれるよ」
君の目には、何かが見えていたんじゃないかって今になったら思うよ。
この先、自分がこの世界から離れる運命にあることも、自分が離れている間にアレクセイが抱える悲しみのことも、全てを。
私は、君に預かったそのぬいぐるみの存在をすっかりと忘れていたんだ。
そんな自分を呪いたくなるのを必死で堪えて、私はそのぬいぐるみを探した。
どこにしまっていたかも忘れてしまっていたから、それはもう血眼になって探したよ。
漸く見付けたぬいぐるみを抱き抱えて、私はアレクセイの元に走った。
今にでも、アレクセイが死んでしまうんじゃないかって、なぜかそう思ったんだ。
蹲るアレクセイにぬいぐるみを差し出した。
その時の私は、あまりに走ったものだから、息絶え絶えで、言葉を紡ぐことすらかなわなかった。
ただ、私はアレクセイを見ていた。
ゆっくりと顔を上げるアレクセイ。その目に光はなく、死んでいた。その色を失った瞳が、色を取り戻していく様を私は息を詰めて見ていた。
アレクセイの瞳からは、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
静かに落ちていくさまを私は呆然と見ていた。
アレクセイは、真実を知った時でさえ涙を流すことはなかったんだ。
ああ、もうアレクセイは大丈夫だとこの時思った。やっと感情が戻ってきたアレクセイを見ていたら、私まで涙が出てきてしまった。
「アレクセイ。分かるんだな? このぬいぐるみが誰のものなのか……」
「……分かる。マリィ」
久しぶりに聞いたアレクセイの声は、擦れていた。
アレクセイは、そのぬいぐるみを愛しむように、細い目で見つめた。
「そうだ。アレクセイに何か辛いことがあったら、渡してほしいと頼まれていた。このぬいぐるみがマリィの代わりなんだと、マリィの代わりにお前を守ってくれると。アレクセイ、そんな姿をマリィに見せられるのか?」
「父上。俺は、もう死んでもいいかと思ってた。でも、俺やっぱり死ねない。マリィともう一度会いたいんだ。……会いたいんだ」
覚えていてくれたんだ。アレックは、私のことを忘れずにいてくれた。
「アレクセイは、君にいつかもう一度会うために悲しみを乗り越えてきたんだよ。君に会っても恥ずかしくないようにね」
ずっとずっと私のことを想ってくれていたのに、私は何も覚えていないなんて……。
「だから、マリィはアレクセイの命の恩人なんだよ」
何にもしてないのに……。
気持ちが高ぶったのか、涙が込み上げてくる。
悔しい。何も覚えていないことが。本当に辛いときに一緒にいてあげられなかったことが。
「ド変態野郎っ」
突然の怒声に驚いて顔を上げた。
「なに、俺の大事なマリィ泣かせてんだっ」
バルコニーから寝癖がついたままのアレックが、アルさんに罵声を浴びせていた。
「やあ、アレクセイ。おはよう」
爽やかで涼しげなアルさんの挨拶が、さらにアレックの逆鱗に触れたようだ。
「それ以上近付いたら、許さないからな。マリィ、待ってろ。すぐ助けに行く」
一際大きな声を張り上げてアレックが怒鳴り散らすと、姿を消した。
このままここにいたら、アルさんの身が危険だ。
「私、もう行きますね」
立ち上がって、アルさんに笑いかけた。
「マリィ。アレクセイに、母親のこと、君から伝えてやってくれないか?」
走りだした私の背中にアルさんの言葉がぶつかった。
「え、でも……」
振り返った私は、返答に困った。
私が話すべきことなの?
私から話しちゃっていいの?
「頼むよ」
アルさんの困ったような表情に、私は拒否することは出来なかった。
曖昧に頷いて、再び走りだした。
玄関を開けようとした瞬間に扉が内側から開き、飛び出してきたアレックの胸に鼻をぶつけた。
「痛っ」
「マリィ。大丈夫か? あの男に何かされなかったか?」
「そっちは問題ないけど、鼻がヤバイかも」
身体中を点検される中、鼻を押さえて訴えた。
「ああ、悪かった。……起きたらお前がいなくて心配したんだぞ」
鼻を押さえていた手を外し、異常がないと分かると、これ以上ないほどに優しく、けれどそれ以上に強く私を引き寄せ、胸の中におさめた。
「心配かけてごめんね。早く起きちゃったから、散歩してきたんだ。そしたらアルさんに会って、お話してたんだ。あっ、アレックが心配するような変なことは一つもなかったよ」
アレックの胸の中で一生懸命口を動かした。
「少し黙れ」
顎に手をかけ、私の顔を上げると唇を塞いだ。
私は、一人こっそりとベッドを抜け出したことを後悔していた。確かにその時間は、アルさんに色んな話を聞けて有意義なものだった。けれど、アレックにこんな想いをさせるべきじゃなかった。
だって、アレックが震えてる……。
「アレック。私がどこかに行っちゃうって思ってるの?」
アレックは、私とシアが再び入れ替わってしまうんじゃないかと、恐れていたことがあった。
「突然消えたりなんかしないよ。アレック。私はね、アレックに守られてるって思ってるから、好きなことが出来るんだよ。私は、アレックの傍じゃないと安心できないんだよ」
アレックの不安を取り除くにはどうしたらいい?
毎日、一緒にいても不安は消えてくれないの?
「違う。今はそんな不安をいつも抱いてるわけじゃない。今日は、たまたまイヤな夢を見た。お前がいなくなる夢だ」
アレックが、まるで小さな子供のように見えた。
「私達の未来を予言してあげるね。私とアレックは、これからもずっと一緒です。私達の間には女の子が産まれるでしょう。私達親子は周囲がうらやむほどに幸せに暮らして行きます。ずっと、ずっとね」
口から出任せを言ったわけではなかった。
そんな映像が目の前に広がったのだ。少し大人になった私とアレック。私達の間には小さな女の子がいた。そして、その女の子は徐々に成長していく。私達を取り巻く雰囲気はいつも幸せに満ちていた。女の子が嫁いでいった後は、私とアレックの二人になった。けれど、そこに悲しみは一つもない。幸福感だけが満たされていた。年老いてもそれだけは、消えることはなかった。
「お前の予言なら信じられるな」
アレックのいつもの笑顔が戻って、それだけで私は幸せな気持ちになった。
「でしょ?」