第82話
夕暮れどき、美しい赤い夕日が少しずつ地平線へと沈んで行こうとしていた。
徐々に訪れようとする闇に追い掛けられるように、日が沈む。
その光景を無言で眺めていた。
日が沈んでしまえば、待っているのは闇の世界。日本では、夜でも街灯や一般家庭から漏れる明かり、店のネオンなどで十二分に明るい。
この近辺には、街灯は一つもない。草原が延々と続いているのだから、当たり前か。草原のど真ん中を突っ切る唯一の道にも、当然ながら街灯はない。
この国の人間は、夜は出歩かない。旅人も夕刻になるとさっさと宿を決めて部屋の中に引っ込んでしまう。そんな理由から、田舎町には街灯は一つもない。王都にいけば、街灯はあるが。
「お姉ちゃん、急に真っ暗になったっ」
私にしがみ付いて悲鳴のような叫び声をあげる璃里衣。
そんな暗闇の中から突然ゆらりと光が現れた。
「ひっ、火の玉っ」
お化けの類は苦手ではないが、突然の事に驚いていた。しかし、こうまで先に叫び声を上げられてしまうと、叫ぶタイミングを失ってしまう。無言のまま、アレックの手に必死にしがみ付いた。
頭上から、フッと笑いを溢す気配を感じたのは、気のせいじゃないはずだ。
「あら? マリィじゃない声が聞こえるわ」
その声は、私の耳に最近馴染んだものだったので、一気に緊張を解いた。
「お母さんっ」
炎の見える方向に声をかけた。
「マリィ。よく頑張ったわね」
その炎が私達の姿を浮かび上がらせ、さらにお母さんの笑顔とジョゼフの無表情が浮かび上がった。
「うん」
直接誉められたことが嬉しくて、それと同じくらい恥ずかしくて俯いた。
「さあ、家の中に入りましょう。みんな、待っているわ」
お母さんとジョゼフの灯りに足元を照らされ、玄関まで歩き、ドアを開けるとそこには、私達を待っていた面々が出迎えてくれていた。
「よく無事で帰ったな。話はマディ殿から全て聞かせてもらったよ」
お母さんに視線を投げ掛けると、頷いた。
ここにいるのは、家族なんだから私達が光の住人であることは、遅かれ早かれ知らせることになっていたのだから、構わない。
誰一人として、その事実を知って態度を豹変する者がいなかったことに、少なからずホッとしていた。
「ん? この可愛らしいお嬢さんはどなたかな? ああ、どうか、どうかお願いだ。君のパっ」
私とアレックは同じタイミングで、ド変態の口を塞いだ。
「もごごっ。アレクセイ。マリィ。何をするんだ」
「お父様。この子は、私の大事な妹なんです。妙なことを言いやがりましたら、ただじゃ済みませんよ」
自分の一番低い声を絞りだして、ド変態に耳打ちした。
「それじゃ、君のパっ」
「父上。俺の愛しい人に何を言おうとしているんですか? 島流しにしますよ? いいんですね」
アレックが低く怪しげな声で呟けば、目に涙をためながら逃げ出すと、アレックのお母さんに泣き付いた。
「もう、あなたがいけないのよ。悪ふざけが過ぎるの。反省しなさい。マリィもアレクセイもそんなに怒らないでやってね。それで、その方は?」
アレックのお母さんは、ド変態に抱き付かれたまま、ずりずりとこちらまでやって来た。
表情一つ変えずに。
ド変態が腰からぶら下がっている状態なのに、重くないんだろうか……。
「私の妹で、璃里衣です。突然連れて来てしまってごめんなさい」
「いいえ、いいのよ。こんなに可愛らしいお客様は大歓迎なのよ。はじめまして、璃里衣。私は、アレクセイの母でソフィアよ。ソフィアと呼んで頂戴ね」
「あれっ。そう言えば私、お母様のもお父様のも名前聞いてませんでしたっ」
そう、ド変態の奇行であやふやになって、まともに自己紹介もしていなかった。
「あら、そうだった? 私は、ソフィア。ダーリンは、アルフレッドよ。ダーリンのことはアルと呼んでくれればいいわ。アレクセイ。あなたもそう呼んでちょうだいね。父上、母上なんて呼ばれると折角の恋人気分が台無しになってしまうわ」
私は、その内容に少々驚いたが、隣に立っていたアレックは絶句していた。
「いまさら、名前で呼べですか?」
「イヤなら、ソフィア姉さんと呼んでくれてもいいのよ」
ド変態、いや、アルさんもぶっ飛んでいると思っていたけれど、ソフィアさんも案外ぶっ飛んでいると思う。
「ソフィアさん、よろしくお願いします」
ソフィアさんの美しさに充てられて、真っ赤になってしまった璃里衣は、恥ずかしそうにそれだけなんとか口に出した。
「ふふっ。可愛いわね。閉じ込めてしまいたいくらいだわ」
冗談ではあると思うのだが、ソフィアさんのその目があまりに怪しく光っているのでぞくりと背筋が凍る思いがした。
「もう、困っているじゃないの。あんまりからかったら可愛そうよ、ソフィア」
お母さんがソフィアさんを嗜めた。その言い方があまりに親しげだったことに驚いていた。
「お母さん、ソフィアさんのこと知ってたの?」
「ええ。私とソフィアとアルと……は、幼なじみなのよ」
なぜか開けられたほんの僅かな間が少し気になった。その一瞬の間に寂しそうな表情を浮かべたのを見逃さなかった。
「そうだったんだ」
私の驚きっぷりを見て、お母さんは小さく微笑んだ。
「あなたが、璃里衣ね。あなたのお姉さんのお母さんです。マディよ。大事なお姉さんを取ってしまったみたいでごめんなさいね」
「平気です。どんなに状況が変わってもお姉ちゃんはお姉ちゃんですから」
うっかり泣きそうになった。そんなこと言うなんて、反則だ。
「そう。そう言ってくれると、私も嬉しいわ。それにしても、こんなに大勢人がいると、なんだかワクワクしてくるわね。今夜はみんなで何して遊ぶ?」
そんな少女のようにはしゃぐお母さんを見ていたアレックと璃里衣が、同時にこちらを見た。
「さすが、血が繋がってるだけあって思考回路が同じ」
ええ、否定は出来ません。
お母さんがたった今言ったのとそっくり同じことを、玄関を開けて、皆に出迎えられた時から考えていたのだから。
「マリィ。今夜、何しようか? どんな遊びがいい?」
きっとワクワクに支配された私もこんな目をしているに違いない。そして、間違いなく今まさにそんな目になっているんだろう。
「じゃあ、枕合戦なんてどうかな?」
「ええっ、なになに。それは?」
「あのね、まず二つのチームに分かれるの。一人一個枕を持ってチームごとに分かれる。スタートの合図で……」
夢中になって今夜開催されるであろう遊びについて話し合う私達親子。
そんな様子を並んでみていたのは、ソフィアさん、アレック、璃里衣。
「マディが二人いる」
「マリィが二人いる」
「お姉ちゃんが二人いる」
三人の声がハモッたのは言うまでもない。
その夜、実際に催された枕合戦は、実に楽しいイベントとなった。
ようは、雪合戦の枕バージョンを家の中でやってしまおうという企画なのだ。
使用人も家人も客人もそんな肩書を全て取っ払って行われたこのゲームに、みな子供に戻ったようにはしゃいでいた。
はしゃいでいたのは、私達親子だけではなかったのだ。久しぶりにお客が訪れて興奮気味の使用人たちも我を忘れて楽しんでいた。
「無事に戻って来れて良かったじゃない」
エレーナがススッと近付いて来て、こちらと視線を合わせずにぼそりと呟いた。
エレーナにも沢山心配かけてしまったみたいだ。
「ごめんね。心配かけて」
「馬鹿言ってんじゃないわ。誰があなたなんかのこと心配するもんですか」
「そう?」
「そっ、そうよ」
「そっか。でも、ありがとう」
エレーナが真っ赤な顔をして、こちらを睨みつけると、至近距離で枕を投げられ撃沈した。
ああ、キラキラした星が見える……。
遠くでアレックの慌てた声が聞こえた。