第76話
私の後ろからは常に馬が駆けて来る音が追いかけて来ている。
少しスピードを上げれば、それを瞬時に捕えてスピードを合わせるため、後ろとの距離が広がることはない。
一人小さく微笑んだ。
アレックが後ろからついてきている気配は、私を安心させる。
私が少し無茶をしてしまっても、アレックがフォローしてくれるのが分かっているので心置きなく楽しむことが出来るのだ。
結局、私は一人で馬に乗っている。エレーナと二人で乗ることを主張したが、二人乗りをしたことのない私では危険があると、アレックとジョゼフ二人がかりで説得された。
最終的にジョゼフがエレーナを乗せて、私とアレックのあとについてくることで話がついた。
最初、アレックがエレーナを乗せる話も出ていたが、私が暴走した時のことを考えると、アレックは身軽な方がいいだろうと、私の意見は完全に無視して、アレックとジョゼフが勝手に決めてしまった。
今になっては、そうしてもらって良かったと思っている。エレーナを前に乗せていたら、思うようには動けなかっただろうから。無茶をしてエレーナを怖がらせてしまうことになっていただろうから。
アレックが私の隣に並んだ。
「マリィ。あまり突っ走るな。ジョゼフがついてこれなくなる」
スピードを下げて後方を窺うと、ジョゼフとエレーナは遥か遠くに辛うじて見えていた。
「あ、本当だ。……ちょうど良い具合の木があるし、ここで一息いれようか?」
「ああ、そうだな。それがいい」
アレックは馬をそこで止めると、後方にいるジョゼフに手を振ってここで止まると合図した。
それに対して、ジョゼフも手を振り返し了解した旨を表した。
「二人が来るまでにお茶の用意しておこう」
馬を木の枝に結ぶと木陰にシートを敷いた。
「マリィ」
「ん?」
呼ばれて振り向くと、不意打ちで唇を奪われた。
「ちょっ。止めてよ。二人に見られちゃうでしょ?」
「あいつらはあんなに遠くにいるんだ。分からないだろ」
確かに二人の姿は遠くに見えるけれど、向こうからこちらが見えないわけではないのだ。
「見えるかもしれないでしょ?」
「お前が昨日、キスも許さなかったのが悪いんだ」
そんなこと言われたって……。
何となく、本当に何となく、お父さんの気配がどこかから感じる気がしたんだ。
被害妄想かもしれない。私の気のせいかもしれない。
けれど、もし本当にお父さんが私達を覗いていたら?
あのお父さんにやらないという保証はない。
「それはお父さんがいるような気がして……」
「いたかもしれないな。否定は出来ない。でも、それはキスを拒否する理由にはならない」
なるでしょうよ。
私は人前で堂々とイチャイチャするタイプの人間じゃないのだ。
誰かに見られるのは恥ずかしい。
だって、キスって本当に相手のことが好きで、相手を信じていて、気を許してるわけで、そんな気の緩みきった表情を他人に見られるなんて、私には耐えられない。
アレックとキスしている時の自分の表情を想像しただけで、恥ずかしくて悶絶してしまいそうだ。
「だって、キスしている時の表情を見られるんだよ? スッゴい恥ずかしい顔してるに決まっているもの。そんな表情、アレック意外の人に見せられないよ」
キスしている時の表情なんて鏡で見たことなんてないから分からないけど、きっととろんとろんな顔になっていると思う。
アレック意外の人とキスしたことないから確実なことは言えないけど、アレックはキスが上手だと思う。
いつもそのキスに翻弄されている。
「俺のキスに酔ってる顔とかな」
「むっ。そうだよ、悪い?」
「悪いわけない。そうだな、マリィのそんな顔誰にも見せられないな」
アレックはおもむろに立ち上がると、私の腕を力強く引き上げた。
アレックの胸に額を強くぶつけた私は、憮然と顔を上げた。
顔を上げた先には、アレックの顔が待っていて、文句を言う前に唇は塞がれていた。
スッと怒りが引いていく。怒りで血が上りそうになっていた頭は、今度は違う意味で血が上り始めた。
「ここならあいつらにも見えないだろ?」
私の額に自分の額を押し付けて、悪戯に微笑んだ。
その笑顔に魅入られて、言葉も返せず、その瞳を見ていた。
「そんな可愛い顔で見るな。止まらなくなる」
顔中に優しいキスを何度も落とす。
くすぐったくて、クスクスと笑いが漏れる。
「アレック、もうすぐ二人とも来るよ」
アレックのキスがより深く、激しくなり始めた頃、私はアレックを現実に引き戻そうとそう言った。
これ以上の行為は色々とヤバいんじゃないかと焦り始めていた。
「まだ大丈夫だ」
耳元で低いトーンで言われて、背中をゾクゾクッとしたものが走った。
「まだ、許してやらない」
首もとをゆっくりと指がなぞり、胸元に指が這う。
アレックの頭が沈んだと思ったら、ちくりと痛みが走った。
「あっ、アレック」
一度、二度、三度とその一瞬の痛みを感じるたびに、変な気分になってくる。
「アレック。もう、これ以上は、やめっ」
私の言葉を打ち消すように唇を塞ぐ。
「やめてなんかやらない」
「いえ、いい加減やめていただかないと、こちらが困ります」
「きゃっ」
ジョゼフの冷静かつ呆れた声が一瞬で現実の世界へと引き戻す。
「ジョゼフか。もっとゆっくりでも良かったんだぞ」
アレックの小さな舌打ちを聞いてしまった。
そんなあからさまにイヤがらなくても……。
「これでも十分ゆっくり来たつもりなんですが……。もう、一回りして来ましょうか?」
「ちょっ、ジョゼフ。冗談は止してよ。とにかくお茶にしようよ、ね、アレック」
憮然とするアレックを覗き込んで、微笑みかける。
いつもならここで笑い返してくれるのに、今日はふいと目を逸らされてしまった。
怒ってる?
「アレック?」
「今、理性と戦ってるんだ。そんな笑顔見せるな。お前をこの場に押し倒してしまいそうだ」
怒っているわけではないようだ。
自らの理性と戦っていると言うアレックにどうしてあげることも出来ずにいた。
「マリィ。あなた、これをかけておくといいと思うわ」
私の隣りにそっと寄って来たエレーナに手渡されたのはストール。
「えっ、でもこれかけたら暑いよ」
「馬鹿ね。……見えてるのよ、胸元の……それ」
エレーナは、私の耳元に手を添えて小声でそう教えてくれた。
「ええっ」
胸元を見れば、鬱血した箇所が見て取れる。
ああっ、あの何度もチクリと感じたあれは、こういうことだったんだ。胸元に残るそれが存在感を主張しているように見える。
エレーナから有り難くストールを借りると、胸元の問題の箇所はどうにか隠れた。
「ありがと」
「お兄様があんなに大胆だなんて思いもしなかったわ」
私だってこんなところで、キスマークをつけられるなんて思ってもいなかった。アレックがあんなに理性のきかない人だなんて思わなかった。そして、それを止められず流され、翻弄されてしまった私も同罪。
「でも、アレックはわりかしどこでもキスしたがるから。アレックってホントキス魔だよね」
今日は本当にいきすぎてしまった感が否めないが、普段からあらゆるところでキスを求められることは、間違いない事実だ。
「お兄様がキス魔だなんて初めて聞いたわ。お兄様が女の人にいれあげているのを見たことはなかったし、人前でイチャイチャするのも見たことなかったし、あんなに独占欲の強いお兄様を見たのも初めてだわ。あなた一体お兄様に何をしたの?」
変なことしてないでしょうね、というような疑いの眼差しに私が何故晒されなければならないのか。
アレックに助け船を求めようと視線で窺ってみるが、未だに理性と戦っている模様。ジョゼフは馬に水を与えている所。
エレーナの眼差しが突き刺さったままの私は、この状況をどうにか自分で打破するしかなさそうだ。