第70話
にわとりの声で目を覚ました。
ふと、ここは日本だったかと錯覚しそうになった。
日本の家の近所に、にわとりを飼っている家があって、その鳴き声をよく聞いたものだった。そのにわとりは、昼夜構わず鳴くものだから、ご近所での評判はすこぶる悪かった。
起き上がると、袖を引かれた。
「アレック。起きてたの?」
「いや、今起きた」
アレックは、腕をのばして私の腕を引くと、胸の中に私を閉じ込めた。
「もう少しだけ、このままでいろ」
アレックの寝起きのかすれた声に、不思議と色っぽさを感じた。
いつもとは違う自分に生まれ変わったようで不思議な気分だ。
毎日見ているアレックなのに、昨日よりも百倍も格好良く見えた。
アレックを見たいのに、照れてしまって上手く視線を合わせられない。
「マリィ。顔を見せて」
アレックの胸に顔をうずめて、ふるふると横に振った。
「なぜ?」
「なんか恥ずかしい」
そう言うと、アレックは、力任せに私を引き剥がすと、私の顔をじっくりと覗き込んできた。
「恥ずかしいって言ってる」
否応なしに視線を合わされた私は、ブスッと不平を口にした。
私が唇を尖らせているのをキスの催促とでも思ったのか、素早く小さなキスをした。
「私は、怒ってんの」
「お前が可愛い顔をするのが悪いんだ」
可愛い顔をした覚えはない。どちらかといえば不細工な顔をしていただろうと思う。
「可愛くないし」
「お前はどんな顔をしても可愛いよ」
朝っぱらからよくもそんな歯の浮くような台詞が言えるものだ。
「はいはい。ありがと。もう起きないとみんなを待たせることになっちゃうよ」
「待たせておけ」
アレックは、私の唇を啄むように何度も何度もキスをした。
昨夜の情事をまざまざと思い出し、身体の芯まで熱を感じた。
「アレック。これ以上はもう……」
「分かってる。昨夜は大分無理をさせたからな」
ニヤリと人の悪い顔で笑った。
からかわれたのだと分かっていても素直に反応してしまう自分が憎い。
「キスだけだ。それくらい許してくれてもいいだろ?」
断る理由はない。むしろこちらからおねだりしてしまいたいくらいだ。
アレックとのキスは好き。
それだけで、幸せな気分になれるのだ。
「ホント、キス魔なんだから」
「でも、お前はそんな俺が好き……なんだろ?」
「好きだよ。文句ある?」
「文句なんてあるわけがない。もっと俺を好きになれ。俺なしでは生きていけないほどに」
「もう、なってるよ……」
もう、アレックなしの人生なんて私には考えられない。
私はもうアレックに溺れきっている。
「おはようございます。殿下。マリィ様」
まるで部屋の前で待ち構えていたように、部屋を出た途端にジョゼフに頭を下げられた。
もしかして、ここでずっと待っていたんじゃ。
まさか、私達の会話まるごと全部聞かれてたんじゃ。
冷や汗がたらりと背中をつたって落ちた。
「おはよう、ジョゼフ」
挨拶を返しながらジョゼフの様子を伺ってみるが、別段変わった様子は見られない。
大丈夫だったみたいだ。
「皆待っておりますので、ほどほどにしていただきたいですね、お楽しみは……」
全身が固く凍り付いていく。
めちゃくちゃ聞かれてたんじゃん。
どこか、ああ、どこか隠れるところはありませんか……。
「ほどほどにしたつもりだったんだがな。お前たちにはすまなかったな」
だから、どうしてあなたは平気なのですかっ。少しは恥ずかしがるってことをしたらどうなのですかっ。
あんなイチャこいてたところを聞かれたっていうのに。
「いいえ。仲が良いのは良いことです」
「ジョゼフの痴漢。エッチ。スケベ。変態っ。足臭っ」
「なっ。私はべつに好きで聞いたわけではっ。私は二人を起こそうと来たのに、入るに入れなかっただけです。人聞きの悪いこと言わないで下さい。それに、私の足は臭くありません、きちんと洗ってありますので」
それでもやっぱりわざわざここで待たなくても良かったのよ。
私は、しばしジョゼフと睨み合った。
「あ〜あ、ジョゼフと見つめあっても、全然ときめかないよ」
「奇遇ですね。私もです」
私とジョゼフの間に今まさしく火花が散っていた。
「私を好きなくせにっ」
「なっ、違いますっ」
ジョゼフの口の中から歯ぎしりする音が聞こえてくる。
そうとう悔しかったと見た。ざまあみろってんだ。
「ほら、おまえら。もう、止めるんだ。朝食を取って出発するぞ」
アレックのお父さんとお母さんが暮らしている所というのは、さらに馬車で半日くらい走ったところにあるという。
温泉街を出るとすぐに周りは何もない草原に姿を変えた。
右を見ても左を見ても草原。その草原の中を一本の道がどこまでも続いている。
そして、しばらく進んでいくと、草原の中に牛が何頭か見ることが出来るようになって来た。どうやらこの辺りは、酪農が盛んなようだ。
さすがにここまで来ると、馬車旅にも大分慣れてきていた。
「ねぇ、アレック。何して遊ぼうか?」
馬車の中でのカード遊びも、散々やってしまって今さらやりたいとは思えない。
「何もないぞ。大人しく座っていろ」
「だってそれじゃつまんないじゃん。じゃあさ、じゃあさ、アレックの家族の話を聞かせてよ」
今まで、意図的にアレックに深入りすることを避けていた為、アレック自身の話、家族の話は極力知らないように心掛けて来た。
だが、この世界で生きていく、アレックの隣りで生きていくと決めたからには、もっとアレックのことを知るべきなんじゃないかって思ったのだ。何よりも私が、もっとアレックを知りたいと思っている。
「別に変ったことはない。普通だ」
「そうかな。まず、お父さん。お母さんが大好きな為に王位まで捨ててしまうなんて普通じゃないと思うんだけど。日本には王様はいなかったから、この国の制度はよく分からないけど、国によっては、王位を継ぎたいが為に家族同士を秘密裏に殺し合ったり、おとしめあったりするんじゃないのかな? そんな家族もイヤだけど、アレックのお父さんはいい意味で普通じゃないと思うんだけどな」
私の知識なんて、物語で呼んだだけのにわか知識に過ぎない。けれど、大体王族というものは、王位を求めて血生臭い争いを繰り広げているんじゃないだろうか。程度の差こそあれ、自分のお父さんや兄弟に毒を盛るなんて日常茶飯事なんじゃなかろうか。
この世界では違うのかな……。
私のお父さんとお母さんも、グルドア王国の王族であるけれど、そんな暗いイメージは感じられなかった。お父さんはとてもおおらかな感じの人だったし、きっとそんな争い事はないんじゃないかなって思う。
そうそう、お父さんとお母さんは私達を城で見送った後、自分達もグルドア王国に帰国したと聞いている。
今回この旅に参加しているのは、私とアレック、ジョゼフと数人の近衛兵といった少人数だ。
私が光の住人であることは、暫くはアレックのお父さんお母さんには隠しておこうということで、リューキもお留守番となった。三人の侍女達には、リューキのお世話係として残って貰った。
女性は私だけかと思われただろうが、近衛兵の中に女性が一人いたので、特に問題はない。身の回りのことは基本すべて一人で出来るので、侍女が付いていなくても問題はない。何か問題があれば、その近衛兵が面倒みてくれることになっている。
「俺に言わせれば、父上は変態……だな」
アレックの声がぽとりと零れ落ちた。