第69話
ゆったりとした気分で湯に入り、旅の疲れがゆっくりと解れていくのが分かる。
この世界でまさか露天風呂に入れるとは思ってもいなかった。
私達が本日の宿と選んだ町は、まるで温泉街というような賑わいある街だった。
このカリビアナ王国唯一の温泉街で、もともと王国では温泉がなかったのだが、ある時温水が湧き出たことから、始まったという。
この町だけを見る分には日本にいるような気分だ。
すっかりと疲れを落して戻った私を待っていたのは、豪勢な料理ではなく、アレックとジョゼフのお説教だった。
温泉に浸かって今日あったことも忘れ去ってくれたら、という私の願いは儚く消えた。
「マリィ。俺が言いたいことは分かってるな?」
腕を組んで胸を反らして見下ろすアレックの視線が突き刺さってくるようだ。
「脱走はしないっていう誓いは、守ったよ」
脱走はしなかった。
爆走しただけだ。
「俺を殺す気か」
ジェットコースターに弱いアレックは、爆走中の馬車もダメージが大きかったようで、私がアレックの 無事を確認しようと扉を開けたら、気を失って倒れていた。
「アレックああいうの苦手だもんね。まさか、気を失ってるとは思ってなかったけど……。本当、ごめんね」
「あれは、頭を打って気を失っただけだ」
どうやらその件には触れてほしくなかったご様子。
「まだ、殿下の頭にたんこぶが出来ただけで済んだから良かったものの、大規模な事故にでもなっていたらと思うと……。分かっているんですか? そもそもあなたというお方は……」
ジョゼフのお説教が始まってしまった。
ジョゼフのそれは、始まると長く、ねちっこい。
途中から毎回毎回同じ台詞を繰り返すのだ。その説教文句は女官長のものと非常に酷似していると私は思っている。
恐らく、そう思っているのは私だけじゃないはず。
ただ、決定的に違うのは、女官長は基本誰にでも説教を始めるが、ジョゼフの場合、私にしか説教をしないということだ。ジョゼフが他の誰かに説教をしているのを見たことはないし、誰かを説教している姿を見た者も説教されたという経験を持つ者も今のところいないようだ。
なんで私だけ……。
その理由はアレックが以前、こっそりと私に教えてくれた。
「ジョゼフは本当に私が好きなんだね。嬉しいよ。ありがとう。でも、私にはアレックがいるから……」
今まで雄弁に話していたジョゼフがパクパクと口を開けては閉めしている。
「それはそういう意味の好きではありませんっ。殿下もっ、何余計なこと吹き込んでいるんですかっ」
ジョゼフの顔が真っ赤に染まっている。貴重なジョゼフの赤面写真を、日本から持ってきたカメラで撮っておきたい。
が、怖くて出来ない。
「今日のところはこのくらいにしておきますが、きちんと反省して下さいよ」
「うん。反省してます。ジョゼフ、ごめんね」
そういって微笑みかけると、つられたように笑顔を見せてくれた。
ああ、シャッターチャンスなのにっ。
「よし、腹が減っただろ。今日はご馳走だと聞くぞ」
「やった、ご馳走。早く食べようよ。お腹減って死にそうだよ」
漸く説教タイムが終わったことに心底ホッとしていた。
お腹がいっぱいで満足以上で、口から食べたものが出て来そうになりながら、部屋に戻ると布団が敷かれていた。
これじゃ、まんま日本じゃん。なんで?
考えられるのは、日本に行ったことがある人がこの町を築いたとか?
あとは、この町自体が日本から来ちゃったとか?
まあ、さすがにそれはないかな。
「なんでそんなところで突っ立ってるんだ? ほら」
アレックの声に我に返ると、差し出された手に身を任せた。
「あの、アレック。重くない?」
アレックのお腹の上に私が乗っかっているこの状態。
アレックの手を引く加減が強くて倒れこんだためにこうなってしまったのだけれど、今、突然誰かが部屋に入って来たら、私がアレックを襲っているのだと勘違いされてしまうだろう。
「いいや」
「いやいや重いでしょ。今すぐ下りるから」
私が身体を持ち上げると、アレックに腕を捕まれ拒まれた。
「俺が怖いか?」
私は、ふるふると頭を横に振った。
アレックを怖いわけがない。
怖いなんて思うはずがないのだ。
怖いのはこの先に待ち受けているであろう未知の領域のこと。恋愛をサボってきた私には、その先の情報がまるでないから何が起こるか分からないのだ。
その先に待ち受けているものは、本当に怖いものなのか。
「アレックが怖いんじゃないの。私、初めてだから、どうしたらいいのか分からない」
アレックの手が私の顔の輪郭をなぞる。
アレックの瞳を見ていられなくって瞳をギュッとつぶった。
アレックの瞳があまりにも艶やかだったから。
その瞳をずっと見ていたら、酔ってしまいそうな気がして……。
私の抑えきれない思いが暴走して、アレックを襲ってしまいそうな気がして。
「マリィ。目を開けて、俺を見て」
いい言い訳も見付からず、観念して目を開けた。
その瞬間に腕を引かれ、唇が触れ合った。
私の瞳は、全てを映し出していた。
アレックの長いまつげも、そっと閉じられた瞼も。男性にしておくには勿体ないくらいの美肌も。近づいてくる唇も。
そして、唇が触れ合った瞬間、アレックは、目を開けた。
その瞳は、私を射ぬくように強く、甘く、艶めいていた。
「今夜、マリィの全てが欲しい。いいか?」
唇が微かに触れ合う距離で、私の瞳を放さず、アレックはそう言い放った。
答えはもう出会った頃から決まっていた。
きっと、あの日出会ったあの瞬間から、私の答えは心の中にあった。
「……いいよ」
私の全てを知ってほしい。アレックの全てを知りたい。
私の知らない私を教えてほしい。
アレックの知らないアレックを教えてあげたい。
二人の知らない二人を見つけよう。
二人でしか出来ない何かを感じよう。
二人で分け合う喜びを見つけよう。
「マリィ。愛してる。前にお前に言われたことがあったな。生涯で一人、俺だけに向ける言葉だと。お前に誓おう。俺もまた生涯でお前だけに贈る。愛してるよ、マリィ」
私の瞳から雫が落ち、アレックの頬に落ちた。
アレックは、その雫を大事そうに掬ってなめた後、こう訊ねた。
「何故に泣く?」
「嬉しくて? 苦しくて? 切なくて? 愛しくて? 自分でもよく分からない。心が震えてる」
心が震えてる。
アレックを想うと、愛しくて、愛しくて、苦しいくらいに心が震える。
誰かを想って泣いたり、誰かを想って苦しかったり、誰かを想って切なかったり、誰かを想って楽しかったり、誰かを想って嬉しかったり。
その誰かはいつでもアレックだった。
誰でもない、アレックだったのだ。
「怖いけど、もう怖くないよ。アレックとなら、何も怖くない」
アレックの唇に愛の蕾を与えた。
二人、同じ気持ちで触れ合えば、それは大きな花になる。
花が散ってしまっても、新たな蕾をどちらともなく与えれば、それはたちまち花を咲かせる。
色んな色の花が咲いていく。
咲き乱れる様も美。散りゆく様も美。
二人の間に咲かない花はない。
私は、その花の香りに酔いしれる。
二人の夜に花の香りが立ちこめていた。