第61話
璃里依の規則正しい寝息が聞こえている。
璃里依のベッドの横に布団を敷いて横になったのはいいが、一向に眠気は訪れない。
昼間の出来事がまざまざと脳裏をよぎる。
傷付いた瞳、責め立てる声音、寂しいとも怒りともとれる苦しげな表情。
浮かんでくるのは、傷付いた祐一の表情。
私もその表情のように顔を歪める。
それを慰めるようにアレックの街灯に照らされ浮かび上がる真剣な表情とプロポーズ。
アレックは、私がこうなることを予測してプロポーズをしてくれたんじゃないだろうか。
夜、眠れないほど私が苦しむことを予測して。私の気持ちを少しでも苦しみから逸らす為に。
きっとそうなんだろう。
私は本当にアレックが好きだ。心の奥深くにその想いが根付いてしまっている。今更その想いを引き抜くことは、誰にも出来ない。
ガサッと物が動く音にハッとする。
ベッドの上を見たが、璃里依が動いた気配はなく、相変わらず規則正しい寝息が聞こえるだけだ。
璃里依でないとするならば……。
私は隣の部屋と隔てている壁を凝視し、覚悟を決めると璃里依を起こさないようにそっと部屋を出た。
閉ざされたドアの前に立ち、私は大きく深呼吸した。勿論、それも音をたてずにだ。
控えめにノックをして、中の気配を窺う。
ドアの向こうからは一瞬の戸惑い、悟り、諦め、覚悟のような感情が感じられる。
ドアの向こうにいるその人は、ドアを開けることを怖がっているのだと私には分かった。
それでも中から動く気配がして、その後たっぷりと時間をかけてからドアは開かれた。
みんなが間違うほどに私と彼女の顔は似ている。恐らくマリィーシアが学校に行ってもまさか別人だとは誰も思わないだろう。
たとえ言葉を交わしたとしても、クラスメイト達は私を遠ざけていたのでその違いに分かるはずはない。元を知らないのだから。
「夜遅くごめんね。話をしてもいい?」
マリィーシアはかつて私が袖を通していたパジャマを身にまとっていた。
はい、と息を吹き掛けてしまえばすぐに霧散してしまいそうなはかなげな声を出し、私を中に招き入れた。私のかつての部屋はそのままの形を保ってそこにあった。
私のお気に入りの絵画がボンと部屋の中で唯一自己主張している。その絵はふらりと暇潰しで入った名前も知らない画家の個展で見つけて、衝動的に買ってしまったものだ。
月の光を一身に受けた一匹の竜がこちらを見つめている。
馬鹿みたいな話だが、この絵を初めて見たとき、この竜は私を見ていると思ったのだ。今見れば、この絵の竜はリューキのお母さんに似ている。
今も、竜はこちらを見つめている。その竜に私は確実に励まされていた。
「率直に聞くね。私は、戻って来ないほうが良かったんだよね?」
ビクッとマリィーシアの肩が震えた。
俯いていた彼女が顔を上げて私を見つめた。
何かを伝えたいと思っている。でも、怖くて言葉が出てこない。
その瞳はそう訴えかけていた。
「ゆっくりでいいよ。だから、あなたの気持ちを隠さず聞かせて。焦らなくていいから」
こんなふうに待つことには慣れていた。
幼い頃の璃里依もいつもこんな感じだったのだから。
マリィーシアに向けていた視線を敢えて逸らした。見られていると萎縮してよけい喋れなくなることは、経験上よく知っていた。
見知った自分の部屋であるのに、ほんの数ヶ月の間に私を受け入れてはくれなくなったように見える。 私を受け入れてくれているのは、竜の絵だけだった。
「あの……」
「うん?」
わざとゆっくり返事をして、マリィーシアへ視線を戻した。けれど、見つめすぎてしまわないように細心の注意を払った。
「私は……祐一さんが好きで……」
「うん」
「驚かないんですね」
「マリィーシアさんが好きになってもおかしくないと思う。いい男だもんね」
そう、祐一は良い男すぎるくらい良い男なのだ。
「それでもマリィさんはアレクセイ様が好きなんですね?」
「うん。好き。自分でも馬鹿みたいだって思うくらい好き。マリィーシアさんと突然入れ替わってから、アレックはずっと私の傍にいてくれたの。あなたの代わりとしてでしかなかったんだけどね。最初はちょっと怖い人なのかなって思ったけど、実際は違った。いつも私を支えてくれてた。辛いときも悲しいときも楽しいときもね。私には祐一がいるから好きになったらいけないってブレーキをかけていた。だけど、駄目だった。ブレーキをかけなきゃって思ってる時点でもう既に好きだったんだよね。いつからかなんて分からない。もしかしたら一目惚れなのかもしれない。この気持ちはもう変えられない」
誰かを傷つけてまで誰かを好きになるなんて思いもしなかった。
「祐一さんは……マリィさんが大好きなんです」
寂しそうに力のない声は、自虐的ともとれるそんな言葉を口にした。
「私も祐一を大好きだった……」
「じゃあっ」
「けどっ。……けどね、それ以上にアレックが好きなの。もっともっと強い気持ちでアレックを想ってるの」
嘘は吐かない。
そう決めてこの部屋に来た。私の気持ちもマリィーシアに分かって貰いたかった。
「じゃあ、どうして戻って来たんですか?」
責めるような声。少しだけマリィーシアに力が出て来たように思う。
祐一への想いがマリィーシアを強くさせているのかもしれない。
「謝りたかった。祐一にもあなたにも。今考えればそれは私のエゴだったって思う。自己満足だったのかもしれない。謝りたいっていう私の我が儘のせいで、二人を余計傷つけてしまったね。ごめんなさい。それに、聞きたかった。マリィーシアさんが今、どんな想いでいるか。以前あなたと話した時、あなたはカリビアナ王国に帰りたいんじゃないかって思った。今はどうしたいと思っているのか聞きたかった」
「聞いて、私が戻りたいって言ったらマリィさんはそうしたんですか? そうしたら、私はアレクセイ様の妻になるんですよ? それでも、私の意見を受け入れるつもりだったんですか?」
そう、受け入れるつもりだったんだよ。
いや、違う。受け入れたのとは違う。そうすべきだと思っていたんだ。それがマリィーシアの人生を狂わせてしまったかもしれない私の義務だと。
「そうするつもりだった。マリィーシアが帰りたいというなら、私はここに残ろうと。でも……」
「私はあなたが憎いです。祐一さんの心もアレクセイ様の心も、ここにいるお父さんとお母さんの心も、向こうにいるお父さんとお母さんの心も全部あなたのもの。私のことを愛してくれてる人なんて誰もいない」
もはや俯いて言葉を噛み殺しているマリィーシアはここにはいない。
自分の思いのたけを一生懸命に私に伝えようとしている。
感情の昂りと共に流れ出した涙がポタポタと滴り落ちていく。
私は堪らずマリィーシアを抱き締めた。
「そんなことないよ。絶対にそんなことない。愛されてない人間なんていないんだよ。証拠を見せてあげる」
抱き締めていた体を放すと、マリィーシアの目の前に掌を見せた。
「見ててね」
マリィーシアは何が起こるのか分からず、首を傾げて、それでも私の言葉に従い私の掌を見ていた。
私がゆっくりと目を閉じて、再び目を開いた瞬間に掌にパッと封筒が現れた。
「えっ」