第52話
ものものしい空気というのはこんな空気を言うんだろうか。
私は暢気にそんなことを考えていた。
現実逃避ともいうんだけれど……。
この空気から逃れたいと本気で思っていた。
斜め前に座るマリィーシアのお父さんと隣に座るアレックの表情はひどく難しいものだった。私の真正面に座るマリィーシアのお母さんは私を落ち着かせようと微笑んで見せた。
「ねぇ、もう少し和やかにお話しましょうよ」
無邪気とも思えるお母さんの態度にお父さんは優しい笑みを向けた。
「マディ。和やかな雰囲気で話せるような話じゃないんだよ。君も分かっているだろ?」
拗ねたように口を尖らせたが、諦めたように頷いた。
今、お父さんはなんと呼んだ?
お母さんのことを『マディ』と呼ばなかったか?
王城の長い間使われていない書斎で見つけた色褪せた日記帳。王城で暮らしていた研究者が出会った光の住人が確かその名前だった筈だ。
パッとアレックを見た。私が振り向くのを待っていたように私を見つめる瞳がそこにあった。
アレックは小さく頷いた。
その頷きにはどんな意味があるのだろうか。
マリィーシアのお母さんがあのマディだという意味なのか、不思議に思っても当然だと私の動揺をおもんばかってのものなのか、それとも全く別の意味なのか。
私の頭は混乱していた。
「何から話せばいいだろうか……」
しばしの沈黙を破ったのはお父さんだった。
「十二年前にあった出来事から話して頂けますか?」
アレックの言葉にお父さんは深く頷いた。
「そうだね。始まりは十二年前だからね」
十二年前といったら私はまだ五歳の頃。
「私達の娘、マリィーシアは活発で好奇心が人一倍強く、周りの皆を魅了する愛らしい笑顔を持つそれは可愛いらしい女の子だった。活発なだけあって私達は毎日のように振り回されたよ。だが、それを苦に思ったことは一度もなかった。それは私だけでなく、妻もその他周りにいる人々も同じ気持であっただろうと思う」
私が聞いたマリィーシアとは印象がまるで違っていた。
そんな活発な少女だとは聞いていない。幼なじみであるハンナでさえ、そんな風には言っていなかった。
「ある日、マリィーシアが行方不明になったことがあったんだ。大人しくしているような子ではなかったからね、そういう騒動は度々あったんだが、比較的すぐに見つかることが多かった。だがその日は違った。マリィーシアの姿は中々見つからなかったんだ。マリィーシアには侍女が必ずついていたんだが、その日、その侍女は私達にこう語ったんだ。『目の前で突然パッと姿を消した』と。俄かには信じられないだろう? 私達もその侍女が自分のミスを隠すために嘘を吐いているんだと思ったんだよ。その日私達の必死の捜索もむなしくマリィーシアは帰って来なかった」
これは……。
本当にマリィーシアにあった出来事なんだろうか。
「その翌日、マリィーシアは発見された。そう誰もが思っただろう。庭の隅で蹲って泣いていた少女には私達の記憶が一つも残されていなかった。自分がいる場所が何処であるのかも、言葉を話すことも出来なかった。そして少女はおどおどした瞳で笑うことがなかった。誰もがマリィーシアが事件に巻き込まれ、恐怖のあまり全ての記憶を失い、喋ることも笑うことも出来なくなってしまったと結論づけた」
その話を不思議な思いで聞いていた。
日本の両親が話してくれた私が五歳の頃に起こった事件。それを今、思い出していた。
「多くの人がマリィーシアは記憶喪失なのだと言おうと私達には分かっていた。その少女が私達のマリィーシアでないことを。確かに少女はマリィーシアにそっくりだった。だが、何もかもが違った。それにマディは光の住人だからね、分かるんだよ」
さらりとお母さんが光の住人であることを暴露した。
驚きはしない。もう、分かっていた。
「私達は占い師のばあさんに相談しに行ったんだ。少女は何処から来た子で、私達の娘は何処へ行ってしまったのか。ばあさんなら分かるだろうと思ったんだよ」
少しずつ少しずつ全てが繋がっていく。
そんな風に感じていた。
テーブルの下、膝の上で強く握り締めていたこぶしをアレックの大きくて優しい手が包んでくれる。
「ばあさんはこう言ったんだ。『あんた達の娘はとても遠い所にいる。だが、必ず再び戻って来る。戻って来るまでその娘を育てなさい』と。私達はばあさんの言葉を信じて少女を育てることにしたんだ。私はその少女に聞いたんだ。君の名前はとね。言葉は通じないから身振り手振りでね。少女は『マリィ』と答えた。偶然とは思えなくてね、私達はその子を本当の娘のように育てて来たんだ」
お父さんは私を見つめると、目を細めて微笑んだ。
「十二年、私達は待った。そして漸く会えた。マリィ、君は私達の娘マリィーシアだ」
全てのつじつまが合った。
日本のお母さんが私に話してくれたことがある。
私が五歳の時、私は三十代の男に誘拐されたことがあった。
犯人はすぐに見つかったが、私の姿はなかった。取り調べで犯人は、ちょうどさっきお父さんが話してくれた侍女が言ったことと同じことを言ったのだ。
突然パッと目の前から姿を消した。
結局私は犯人の部屋とは全く別の場所で発見された。
その時、私は記憶をなくしており、言葉を話すことも出来なかったという。
私は十二年前、マリィーシアと入れ替わってしまった。入れ替わったまま月日は流れ、再び私達は入れ替わった。
おばあさんが私のお母さんは光の住人だと言っていた意味が漸く分かった。日本のお母さんがこっちの世界に来たことがあるんじゃない。私がここの住人だったということだ。おばあさんがよく知っているといった私のお母さんは、今目の前にいるこの人なんだ。
マリィーシアが私に言った、知ってしまった事実とはこのことだったんだ。つまり、本当の両親が近くにいるのにこちらに戻ることは出来ないということだ。
マリィーシアがすぐに事実を知ることになったのは、早い段階で両親と会ったからなんだ。
考えてみればとても簡単なことだ。ヒントは色んな所にあった。
私と日本の両親、そして璃里衣は性格がまるで違う。両親は優しく温かいけれどとても大人しいタイプの人たちだった。璃里衣もまた引っ込み思案で大人しい女の子だった。
私だけが違った。
本当に私はこのうちの子供なんだろうかと、考えたことはあった。だが、まさか本当に血の繋がりのなかったとは思いもしなかった。
日本の環境や人間関係が合わなかったのは、潜在的にこの世界に慣れ親しんでいたからかもしれない。
いつもこの広大な大地で走り回っていたであろう私。日本では信じられないことや物を目にしてきた私にとって現実的過ぎる日本は、物足りないものだったのだ。
疑うことも出来たかも知れない。そんなことがあるわけないと突っぱねることも出来た。
でも、すとんと私の胸の中で何もかもが腑に落ちたのだ。
「私のお父さんとお母さんなの?」
「そうだよ、マリィ」
その優しい響きをどこかで聞いたことがあるような気がした。
恐らく何度も呼ばれていたのだろう。
正面に並ぶ私の本当の両親の瞳には今にも零れ落ちそうな大粒の涙が浮かんでいる。
だが、その表情はとても穏やかで幸せそうなものだった。