第3話
「綺麗ねぇ」
綺麗だと言っている当人もまた美しく、春色の花々や小川の湖面の輝きにも引けを取っていない。
王妃はこの世の者とは思えぬ程に美しく、庭園の花々や生き物たちもその存在に落ち着きなく騒めいているように見えた。
「はい、とっても」
「あら、わたくしのことじゃなくて、庭園のことよ」
ついうっかりと王妃に見惚れてしまっていた私を見て、王妃はクスクスと笑っていた。
笑い方までエレガント。私には一生かかっても無理そうだ。早々に諦めの窮地に陥る。
「はいっ。王妃様も庭園もどちらもとても綺麗ですっ」
「今日のマリィーシアはいつもよりお喋りね。いつもの貴方じゃないみたい。ふふふっ、本当は別人だったりして……」
……えぇっ。まさかばれた?
びくりと肩を強張らせ、王妃の美しい表情を伺う。
「なんて、そんなことあるわけないわね」
クスクスと笑う王妃が本当は何もかも知っているんじゃないかと、そんな心配が脳裏を過ぎった。
もし、私が偽者だってばれたなら、その時は一体どうなるのだろうか? もしかして、牢屋に入れられて……。
牢屋かぁ、一度入ってみたい気がする。現実の世界でそんなことになってしまったら、色んな人に迷惑がかかってしまうし、きっと母はそんな私を見て涙にくれるだろうけど、ここでなら誰に迷惑をかけるわけでもないのだ。一度入ってみるのもいい経験になるかもしれない。
「どうかして?」
「いいえ。あまりに天気が良いので寝そべって空を眺めたら最高だろうなって思ったんです」
王妃に問い掛けられて、咄嗟に出た言葉は、まさに私の心の本音であって、日本にいる時だったら間違いなくやっていただろう。
だが、仮にも貴族の娘のふりをしているこの私が発言するには相応しくないものだった。
「あら奇遇ね。わたくしもそう思っていたの。でも、叱られてしまうわね」
ぱちんとウィンクして、少女のような表情を浮かべる王妃を目を真ん丸くして凝視した。
「わたくしこれでも幼い頃はやんちゃだったのよ? 木登りだって得意だったんですもの」
意外な事実に、真ん丸にしていた目をさらに見開く。
「あら、意外だったかしら? わたくしは外で駆け回って遊ぶのが大好きで、よくお母様に叱られたものだわ」
王妃の駆け回る姿はどうフル回転して想像しようとしても、一向に浮かんでこなかった。
「本当は、こんなドレスも動きにくくて好きではないのよ。これは、二人だけの秘密ね。王に知られたら叱られてしまうかもしれないわ」
言っていることや考えていることが、私と似ている。容姿には雲泥の差があるものの、同種の匂いをぷんぷんと感じる。
「私もです。こうやって外に出ると、ワクワクして走りだしたくてウズウズしちゃうんです。ドレスを脱ぎ捨てて……王妃様、叱られる覚悟……あります?」
「え?」
戸惑い顔の王妃の手をむんずと掴むと、私はその手を引いて走りだした。
叱られたっていい。私は今したいと思ったことをする。それが、私の信条。勿論犯罪や人を傷つけることはしないと決めているけど、思うままに流れるままに私は生きて行く。
引っ張っていた手がふっと軽くなった。横を見れば、王妃がにかっと笑って私の横にぴったりとついてきていた。
この時初めて王妃の本来の表情を見た気がした。おっとりとすまして、美しい微笑をたたえた表情の王妃はそれはそれで美しいが、たった今、王妃が見せた表情は、どんな表情より輝いて見えた。特に、王妃の瞳は純粋な子供のように澄んだ輝きを放っていた。
私と王妃は侍女の制止を振り切って、庭園の中を探索して回った。
まるで子供に戻ったようにはしゃぐ私達を、侍女達は止めることは出来なかった。
「ねぇ、王妃様。小川には何がいると思う?」
「シルビアよ。わたくしはシルビアというの。あなたにはそう呼んでほしいわ」
「うん。シルビアっ、私のことは真理衣って呼んで」
「マリィ。あなたがこの城に来てくれて、私、嬉しいわ。あなたが私の妹になるのね」
小川の真ん中にある岩に飛び乗る最中だった私には、最後の言葉は風に誘われ、耳に入ることはなかった。
「私もっ」
笑顔を向けるためにシルビアを見た途端に、バランスを崩して小川の中に落っこちてしまった。
とても浅いその小川は、まだ浸かるには少しばかり冷たかった。
「まぁっ、マリィ! 大丈夫なの?」
「へへっ、平気っ」
自分の失敗をばっちりと見られたことが照れ臭くて、照れ笑いを浮かべながらそう言った。
そんな私の顔を見るなりシルビアは吹き出した。
「えっ、何?」
「だって、マリィ。全身びっしょり。そんなに派手に落ちた人初めて見るわ」
私もこんなにダイナミックに川に落ちたのは、初めてだ。
私は小川の水を掬い、シルビアにかけた。
きゃっという可愛らしい声を上げたシルビアに、にやりと笑って見せた。
シルビアも川岸に下りてきて、私と同じように水をかけてきた。ヒートアップしていく水掛け合戦に、侍女らが戸惑いと呆れを込めた溜め息を溢していたのを私達は知る由もなかった。
「貴方達がついていながらなんですの、この有様は」
大目玉を食らったのは、私達ではなく侍女達の方だった。女官長の容赦のない説教が彼女らの頭に降り注がれていく。侍女たちがどんどん小さく縮こまって行くように見えたのは、決して気のせいではなかったように思う。
「あの、いけないのは私なんです。私が勝手にしたことなんです。二人を叱らないでください。ごめんなさい」
女官長の容赦のない説教をこれ以上聞いていることが出来ずに、話に割り入ってそう言った。
女官長は眼鏡を持ち上げ、私をマジマジと眺めると、コホンと一つ咳払いをした。
「マリィーシア様。私などに頭を下げる必要はございませんわ。それから、今回の件は、お二人にも言っておかなければなりませんね。ご自分の立場を十分理解して、王族らしい振る舞いをして頂きます。マリィーシア様。あなた様はこちらにきたばかりだということは十分承知しておりますが、王子の妃らしい振る舞いを心掛けて頂けますようお願い致します」
……お局様。
彼女の第一印象はその一言につきた。
と、あれ?
「妃?」
「何をトボケたことを仰っているのですか。あなたは第5王子アレクセイ様の妃になる為に入城したのですよ。もしや、お忘れではございませんわよね?」
「いえっ、十分承知しております」
初めて知ったよ。マリィーシアは昨日の王子の婚約者、あれ、もう結婚したのかな? 解んないけど、あの人がマリィーシアの夫なんだ。
でも、私ってどうなるんだろう。マリィーシアがいなくなって、私が現れた。それって、私とマリィーシアが入れ替わったって考えることが出来るんじゃないか。もしそうであるのなら、私がここにいるってことは、マリィーシアは日本にいるということにならないか。で、あるのなら祐一の前にマリィーシアが現れた時、もしかしたら二人は入れ替わったことに気付かづにキス……したかもしれない。いや、待て待て。必ずしもマリィーシアが日本に行ったとは限らないのだ。もしかしたら、この王城のなかのどこかに隠れているっということも考えうるのだ。
「すみません。私ちょっと頭痛がするので、失礼します」
女官長とシルビアに頭を下げるとその場を後にした。私の後に侍女が付いてくるのが気配で解った。