第35話
「マリィ。君はここに残ることに決めたんだね?」
私たちがルドルフとシルビアの部屋を訪ねると、そこにギルドもいた。
「うん。ごめんなさい。私、ここにいたいの。誘ってくれてありがとう」
「返事は薄々解っていたさ。殿下から奪えると思ったんだけど、考えが甘かったようだ。旅先から手紙を出してもいいかな?」
「勿論。ギルドが仕入れた国々の冒険談楽しみにしている」
私たちはギルドを見送った。私が一度は旅立とうとしたあの場所で。
ギルドは始終笑顔だった。別れには涙がつきものだと思っていたが、ギルドとの別れはとても明るいものだった。ギルドは別れ慣れしているのかもしれない。
ギルドの姿が見えなくなると、頭の上で大きく振っていた手を下ろした。
「兄上、申し訳ない」
アレックが言った。
「ギルドには悪いが俺にとっては面白いものが見れて満足している。あんなお前を見たのは初めてだったな」
寧ろ喜んでいるように感じた。ルドルフにからかわれたアレックは、頬を赤く染めながら不機嫌そうに顔を背けた。
「良かった、マリィはここにいてくれるのね。ギルドなら大丈夫。ほんとは一人旅の方が好きなんだから。ね?」
シルビアがこれっぽちもあくびれた様子がないことに、苦笑を漏らした。だが、そのシルビアの態度が私の気持ちを軽減してくれたことに間違いはない。
「……ってことなんだけど」
ギルドが旅立った数日後、夕食後の穏やかな時間、向かい合って座るアレックの表情は徐々に難しいものへと変化していった。
アレックの後方の壁ぎわには、ジョゼフと三人の侍女達が控えている。ジョゼフも難しい顔で腕を組んでいる。侍女達は、不安そうな表情を浮かべていた。
私はこの場を借りて今まで仕入れた情報――おばあさんに言われたこと、城内で見つけた今は誰も使ってはいないと思われる埃だらけの書斎、そこで見つけた日記帳、マリィーシアとの交信そしてマリィーシアが残した意味深な言葉――を、洗い浚い吐き出した。
「全てを知ってしまった……か」
「うん。私、あの後も何度か交信できないか試してみたけど駄目だった」
その言葉の通り、あの書斎から持ってきた鏡を使用して何度かアリィーシアに呼びかけてみたのだが、その呼びかけに応えることは一度もなかった。
マリィーシアと交信するには何か条件があるんじゃないかと最近思っていたりする。例えば、あの書斎じゃないとだめだとか、昼間じゃないと駄目だとか(あの後私が試したのはいずれも夜だった)、私の心とマリィーシアの心がそれぞれ話したいと思った時じゃないと駄目だとか。考え出すと可能性は幾通りも考えられた。
向かい側で座るアレックは首をひねって黙り込んでしまった。
「アレック?」
「ああ、いや何でもない」
アレックには、今の話の中に気になる点があったように見えた。
それでも、私に何も言わないのは、それが悪いことだからか? アレックの難しい表情を見ると、何故か不安が膨れ上がりそうになった。
「ということは、少なくとも暫らくはマリィ様はこちらにいるってことですよね?」
「マーシャ、喜ぶのは不謹慎よ」
マーシャの無邪気な喜びの声をシェリーはぴしゃりとたしなめた。
「マーシャもシェリーも気にしないで。マーシャの言うとおり私は暫らくはここにいる。何も解らないから、無茶に動くのも危険だろうしね。だから、これからもよろしくね」
「はいっ。これからも頑張りますっ」
マーシャの怒鳴るような元気の言い声に、くすっと笑った。
「一度、俺もマリィーシアと話がしたい。ちょっと気になる点もあるしな……」
やっぱり気になるところがあったんだ……。
「いや、お前が心配するようなことじゃないから安心していいぞ」
にっこりと微笑まれて、その男性とも思えないほどの美しさに息を呑んだ。
「マリィ?」
その笑顔に魅せられてぽうっとしていた私は、アレックに呼びかけられて漸く我を取り戻した。
「ううんっ。何でもないっ。大丈夫、大丈夫。ははっ」
アレックの背後にいる四人が私を見て、生暖かい笑顔を向けている。
あの四人には、私がアレックに見惚れていたことがバレていたようだ。そりゃそうか。きっと思いっきりだらしない表情をしていたに違いない。
「う、うん。それでは、私共はこれで失礼します。私共はお邪魔虫の様ですので……」
咳払いを一つした後、わざとらしく畏まってジョゼフが言う。
絶対わざとだっ。絶対わざとっ。私がだらしない顔してたから、嫌がらせのつもりでっ。だいたいっ、いつもより退室するのが早いじゃんかっ。
心の中でどぐついて、ジョゼフを睨み付ける。その視線をさらりとかわしてジョゼフがにこりと微笑む。
普段笑わないくせに、こんな時に笑うなんてっ。
「ああ、そうだな。俺も早くマリィと二人になりたかったことだ。心遣い感謝するぞ、ジョゼフ」
私の内心の憤慨など知る由もないアレックは、それはもう清々しいほどにすっぱりと言いきった。
その言葉に、侍女達三人がきゃあっと小さな歓声を上げる。アレックの言葉にどんな意味を読み取ったのか、マーシャなど首まで真っ赤にしている。
いやいや、マーシャ。今のは完全にアレックの冗談ですからっ。
とは言うものの、マーシャ以上に赤くなっているのは火を見るよりも明らかだ。
四人がにかにか笑いながら出て行く様子を、明日は三人に色々問い詰められるんだろうななんて、うんざりした気分で見ていた。
「お前、俺が言った言葉、冗談だと思ってるだろう?」
「当たり前。あんなこと言って、あの三人を喜ばせるだけなのに……」
それに、冗談だと解っていても言われたこちらがこっぱずかしい。
「冗談じゃないぞ。真実だ。俺は早くお前と二人きりになりたかった。それを楽しみに今日一日仕事をこなしたんだからな。ご褒美をくれ」
「ご褒美?」
「そうだ、ご褒美だ」
ニヤニヤと笑うアレックの顔を一瞬ぶん殴りたくなったが、それでも好きな男に早く二人になりたかったと言われて嬉しくない女はいない。口元が緩んでしまうのは、私の責任ではない筈だ。
「何がご所望?」
「そうだな……キス。じゃなきゃ……キス。でもやっぱり……キス」
「もうっ、キスがしたいのねっ」
「違う。したいんじゃなくて、お前にして欲しいんだ」
この人は、なんて恥かしいことを私に望むんだろう。
「私がキスしたら、アレックは嬉しいの?」
「ああ、嬉しくて死ぬかもしれないな」
「じゃあしない。死なれたら困るもの」
そう言って席を立って逃げ出そうとした。が、アレックに腕を取られて、強く引かれた。あっという間にアレックの腕の中に追いやられた私は、顔を上げることが出来ずにアレックの胸に埋めた。
だって、恥かしい。キスをするだけでも恥かしいのに、私からするってなるとこっぱずかしいってレベルじゃない。まさに恥か死にする。
でも、アレックが嬉しいと思ってくれるなら、私が恥ずかしいのくらい我慢する。
「目、瞑ってて」
胸に顔を埋めたまま、小さい声でそう言った。
「仰せのままに、お姫様」
「瞑った?」
ああ、という返答を聞いて私は覚悟を決めて、顔を上げる。
瞳を閉じたアレックの顔は、眠り姫の如く美しく、その表情をずっと見ていたいと願ってしまうほどだ。
ゆっくりとアレックの顔が近付いて、あと数センチというところ、私も瞳を閉じようと思ったその矢先、アレックの瞳と視線があった。
嘘っ、瞑っててっていったのに。
抗議したくてももう遅く、私の唇は吸い込まれるようにキスを落とした。