第32話
私の熱が完全に下がったのは、それから三日後のことだった。
「マリィ。まだ具合が悪い?」
ぼうっとしていた私にギルドが声をかけた。
「ううん。大丈夫」
私が熱を出してから毎日お見舞いに来てくれ、これまでしてきた旅の話を聞かせてくれる。
それは部屋から一歩も出させてもらえない私には、とっておきの息抜きになっていた。あの日から旅に一緒に行こうとは一言も口に出さない。それは私にプレッシャーを与えない為のギルドの優しさなんだろう。
私の中では行くか行かないかはもう決めていた。私は、この城を離れてギルドと共に旅に出ようと思っている。私は、アレックが大好きでアレックの傍にいたいと思ってはいるが、私の気持ちも存在自体も迷惑になる。だから、決めたのだ。
「マリィ。明後日の朝に発とうと思っている。返事は当日の朝でいい。君にとってはとても大きな決断だと思う。よく考えて」
ギルドが帰りぎわに今まで一度も触れなかったことにとうとう触れた。
明後日。
それがタイムリミット。私がアレックと一緒にいられるのは、あと少し。別れる覚悟は決めたものの、胸を引き裂かれんばかりに痛んだ。
その日の午後、私はシルビアの部屋を訪ねた。約束はしていなかったが、シルビアは快く招き入れてくれた。
「マリィ。良かったわ、心配したのよ」
「心配かけてごめんね。もうすっかり良くなったよ」
シルビアの侍女が紅茶と美味しそうなお茶菓子を出してくれた。
「……あのね、シルビア。私、ギルドについて旅に行こうと思うの」
そう言うと、カップを持っていた手を止め、私の目を凝視した。
「冗談でしょう?」
苦笑いを浮かべながら頭を横に振った。冗談を言う為にわざわざシルビアの部屋まで押し掛けたりしない。シルビアとてそれは承知のこと。
「あなたはアレックのことが好きなんだと思っていましたのに。私の勘違いではないでしょう?」
言わなくてもシルビアにはばれていたか。
諦めたように苦笑を漏らす。
「知ってたんだ?」
今さら嘘を吐く必要もない。
「恋をしている人は目が違いますもの。あなたたち二人を見ていれば解るわ」
「そっか」
あからさまに態度で示したつもりはないのに、解る人には解ってしまうようだ。
「シルビア。私ね、これ以上アレックに迷惑かけたくないんだ。重荷だって思われたくない。手を患わせたくない。それにね、怖いの。このまま傍にいればどんどん気持ちは膨らんで日本に帰れなくなりそうで」
「日本に帰らずここに残るっていう選択肢はないの?」
「……」
言葉に詰まって俯いた。
鏡のなかのマリィーシアが残した意味深な台詞。『全てを知ってしまった以上私がそちらに帰ることは出来ません』
マリィーシアがそう言ったとしても、おばあさんが入れ替わるのは死に行くもんだと言ったとしても、やはり帰らなければという気持ちは拭えない。
「その気持ちはアレクセイ様には……」
「言わない。言えないよ」
「何故? 今この城を出るということはアレクセイ様とはもう会えないかもしれないってことなのよ」
「うん。解ってる」
いや、私は何も解っちゃいない。
確かにこの城を出るということは、よく考えて決めた。だが、自分がアレックと離れたらどんな気持ちになるのかということには目を背けていた。考えないように見ないようにそこに蓋をしていた。
一度蓋をしてしまったら怖くて開けられなくなってしまった。
本当は解っている。何よりもアレックと離れることが怖い。
「マリィ。気持ちは伝えてからこの城を出なさい。これは王妃命令です。……なんて、権力をふりかざしてしまったけれど、マリィには後悔して欲しくないの。正直、あなたたち二人を見ていると苛々します。お互いが相手のことばかり考えて、自分の気持ち押し殺して……不器用ね」
呆れたようにそう言うが、シルビアの表情は慈愛に満ちあふれていた。
アレックには何も言わずに別れた方がいいと思っていた。別れ際に一方的な気持ちを押し付けられても、アレックに迷惑がかかるだけだ。
だが、今、シルビアの言葉に気持ちが揺れていた。別れる前に言わなければ、恐らく、いや確実に私は後悔することになる。
「マリィ。あなたは、私といる時アレクセイ様の話ばかりしているのに気付いていた?」
そんなつもりは毛頭ない。
「アレクセイ様の為に何かしたいとか。アレクセイ様に迷惑をかけてしまった。アレクセイ様が疲れているから元気づけたい。アレクセイ様に呆れられてしまった。マリィがアレクセイ様の話をしない時はなかった。マリィはいつもアレクセイ様を中心に世界が回っているようだった。最後くらい自分の為の行動をしてもいいのじゃないかしら?」
アレックを中心に世界が回っている。
そんなつもりはない……とは言いきれない。
初めてだったんだ。眠れないほど誰かを好きになったこと。
佑一のことは確かに好きだった。でも、今考えれば友達の延長線上の気持ちだったように思える。佑一が私以外の誰かと付き合っても佑一が幸せなら祝福出来る。アレックにはそれが出来ない。他の誰かがアレックの隣にいるなんて想像したくもない。
「よく考えてみる」
内心の動揺や葛藤は隠して、小さく笑った。
そして、いとまを告げると席を立って扉へ向かう。
「マリィ。私と離れることも寂しいと思ってくれた?」
「当たり前だよ。シルビアは私の親友でありお姉さんでもあるんだから」
振り返ると必死に涙を堪えて微笑んでいるシルビアがいた。
「そう」
シルビアの瞳からとうとう涙が零れ落ちた。
シルビアはその涙を素早く拭うと、綺麗な笑顔を向けた。
シルビアがあんなに我慢しているのに、私が泣くわけにはいかない。私も自分の中で最高と思える笑顔を送り、部屋を出た。
部屋を出た途端にシルビアの泣き声が聞こえてきた。それ以上聞いてはおれず、足速にその場を後にした。
「アレック。私、決めたよ。明日ギルドと一緒にここを出る」
アレックの顔が見れない。
今どんな顔をしている? お荷物が片付いてホッとした顔? 少しは私がいなくなることを寂しいって思ってくれる? そんなこと思うわけないよね。
「アレックには沢山迷惑かけてごめんね。私みたいなじゃじゃ馬、見捨てないでくれてありがとう」
私は膝の上でギュッと握られている自分の拳を見つめていた。
「私……」
アレックが好きだなんて言えないよ、シルビア。王妃命令に逆らってしまってごめんなさい。
「最後に一つ我が儘言ってもいい?」
漸く私は顔を上げた。
アレックは無表情でただ私を見ていた。その表情にはアレックが私がここを出ることについてどう思っているのか解らなかった。
「何だ?」
「今日、一緒に寝てほしい。手をつないで寝てほしい」
「いいぞ。お安い御用だ」
アレックは目を細めて私の頭を撫でた。
この城での最後の夜、私はアレックの手の温もりを感じながら眠った。アレックの温もりに包まれながら見た夢はとても幸せな夢だった。
アレックと私とそして小さな女の子、その女の子は私達の娘なんだろう、私達は城の庭園で手をつないで散歩しているのだ。その女の子は顔はアレックに似てとっても愛らしく、だが私に似たのか色んなものに興味を持ちあちこちと行きたがった。私とアレックは仕方ないな、と言いながらも少しもそんな風には思っていない。幸せで幸せで胸が一杯になった。
朝目覚めた時、私は泣いていた。あまりの幸せな私達の姿に、あるはずのない未来に涙した。