第16話
唇に感じる感触は、今まで感じたことのない未知のものだった。
「マリィ?」
口を動かしてはみるものの言葉らしきものは音として出てこず、例え声が出たとして何を言うつもりなのかも解らず、アレックを見ていた。
伝える声も伝える言葉も失ったようにただ茫然と。
「……マリィ」
私を呼ぶアレックの声がとても遠くに聞こえた。アレックの唇はすぐ近くで動いているというのに。
……解らない。どういうこと?
私の唇に感じたあの感触は、きっとアレックの唇。
あれ? それって……
「きっ……キスっ!」
両手で唇を押さえて、頭の中で漸く整理がついた事実に私は動揺し、数十メートル後方に後退った。
「マリィ」
アレックが手を伸ばし、私の方へと一歩一歩近づいて来る。
両手を唇にあてたまま、頭を左右に激しく振った。頭がクラクラするほど激しく、何かを振り払うように。
「マリィ」
アレックの声はとても優しく、その表情は今にも泣きだしてしまいそうだった。
どうしてそんな顔……。
「マリィ」
アレックの手が私に触れようとしたその瞬間、私はその手を勢い良く振り払った。
アレックの傷ついた顔を視界に微かに入れながらも、その場から走り去った。
どんな風に走ったのかも解らない。気付けば自室の前まで来ていた。この広い城の中で、解るはずもない自室までの道を、動物の帰巣本能さながらの能力で辿り着いていた。
「少し疲れちゃったから少しだけ横になるね」
ハンナ達の顔も見ないで、それだけ言い置いて、寝所へと消えた。
ドレスのまま、しわになることにも構っていられず、ベッドに突っ伏した。
疲れてなんかいない。あんな簡単な儀式でまいるようなたまじゃない。
一人になりたかった。気持ちを落ち着かせなければならなかった。
キス……。
何故、アレックはあの時急にキスなんてしたのか。
いや、アレックは今は関係ない。
問題なのは私なんだ。
あのキスに全く不快を感じなかった、胸の昂揚さえ感じてしまった、この私に問題がある。
祐一を、マリィーシアを、裏切っているようで息苦しい。
「キス……」
そう呟いた時の胸の鼓動と頬の熱さは一体なんなんだろう。
初めてのキス。祐一とするはずだったキスをアレックとしてしまった。
悲しさや悔しさはない。
それが問題であるように私には思えるのだ。
だけど、私の胸がこんなにドキドキするのは、キスが初めてだったから。誰としたってドキドキするのは当たり前なんじゃないかって思う。それが例えば、そう、ジョゼフだったとしても。だから、このドキドキを気にすることはない。
してしまったことを今更とやかく言っても私のファーストキスは帰ってこないんだ。ならば、いっそあれは猫かなんかに舐められたって思うことにしよう。そうだよ。あれは私のファーストキスなんかじゃない。ファーストキスは好きな人とするものだもの。
「悩む必要なんてないのよっ」
そんな風に思い至ったら俄然元気が湧いてきた。
元々考えるタイプじゃないのに、馬鹿みたいに考え込んじゃうなんて私らしくないじゃん。
「そうと決まれば寝てられないじゃん。早いとこドレス脱がないと皺になっちゃう」
ただ、一つ気になることがあった。
一瞬目に入ったアレックの酷く傷ついた顔。
何故あんなにも悲しそうな顔をしていたのか。それが私には解らなかった。
「解んないなら直接聞けばいいんだよね」
私は弾みを付けて起き上がると、乱暴にドアを開いた。
「着替え手伝って貰ってもいい?」
「それは勿論ですが、お疲れだったのでは?」
「う〜ん。もう、元気になった。これからアレックの所に行ってくる」
ただならない様子で帰ってきたと思ったら、ほんの5分ほどで元気良く出て来た私に三人は面食らった様子だったが、何も聞かずに黙々と手を動かしてくれた。
何も聞かずにいてくれることは、今の私には有り難いことだった。
「お花が綺麗だよね。ここからの眺めが一番好き」
私が背後から声をかけると、アレックは素早く振り返り、信じられないものでも見るように私を見た。
「きっとまだここにいると思ったんだ」
アレックはさっきと同じ場所で庭園をぼんやりと見ていた。
「怒らないのか? 俺はお前にあんなことしたんだぞ」
「怒って欲しいの? あのね、アレック。キスは好きな人とするもんだよ。アレックにはマリィーシアがいるでしょ? 私とマリィーシアが似てるから間違えちゃったんだよね? マリィーシアには黙っていてあげるし、さっきのもなかったことにするからね」
「俺は謝らない。俺はお前とマリィーシアを間違えたわけでもない。黙ってる必要もなければ、なかったことにする必要もない」
少し怒ったようなアレックの真剣な眼差しが痛いくらいに私を射ぬく。
「どうして?」
「さあ、どうしてだろうな?」
そう言って微笑むアレックが一変してあまりに優しげで、可愛らしかったので私はその時点で全てを許してしまっていた。
大事なファーストキスを意味も解らず奪われたんだから、もっと怒っても良かったのかもしれない。だが、私にはそれが出来なかった。
アレックがどう思っているのか、私には皆目検討もつかない。
ただあの笑顔に見惚れて、何故あの時傷付いた表情を浮かべたのか、それを聞くことすら出来そうにもなかった。
「もう、好きな人にじゃなきゃキスしちゃ駄目だよ。解った?」
私はそれだけを言い残してその場を去ろうとした。この後、私には女官長からのダンスの最終チェックが控えている為、その場に長居をしている暇はなかったのだ。
「……好きな人にならいいのか?」
アレックの口から零れ落ちたその言葉は、ざあっと強い風に吹き攫われてしまった。
「ん? アレック何か言った?」
振り返って問う私に、いいや、と優しい笑顔で答えた。
この時、アレックが何と言ったのか、何を考えていたのか、それを私が知るのはもう少し先の話になる。
「マリィーシア様。何度言ったら解るのですか? 目線は上、足元ばかり気にしていてはいけません。目線は、パートナー、殿下の目を見つめるのです。いいですね?」
そう言われたのは、何回目だろうか。
アレックと別れて自室に戻った私を待ち構えていたのは、眉毛を釣り上げた女官長だった。
気付けば約束の時間よりも30分もオーバーしているではないか。
焦って謝ったが、女官長は何も言わずにダンスの最終レッスンへと入って行った。
正直、怒鳴られるよりも怒鳴られず何も言われないことの方が恐ろしい。無言で怒りを表している女官長の手を取って踊り出すものの、あまりに怖くて顔を上げられない。そして、注意を受けるという悪循環を先ほどから何度も続けられているわけだ。
現代日本人の私にとってダンスなんて踊ったこともなければ、そんなパーティーにすら出たことがないのだ。踊れないのは当たり前と言ったら当り前だろう。
本日夕方催されるパーティーの主役はアレックと私。そして、そのパーティーの一番最初にアレックと二人でダンスを披露しなければならないのだ。その為、婚姻の儀の日付が決まった時から、女官長にしごかれる毎日を送っていたのだが、大した進歩もないままこの日を迎えてしまったのだ。
先ほどのアレックの様子も気になるのだが、今目の前の難題をどうにかすることに私の頭は切り替わっていた。