第126話
戦争のない日本で育った私にとって、戦場は未知の世界だった。
写真でなら、映像でなら見たことはあるが、実際に目にする機会はなかった。
これからまさにそこへ向かおうとしているのに、恐れはなかった。
下手をすれば命を落とすことだってあるのにだ。
いや、私は分かっていないのだ。命を落とすことが、人の命を取り合うことがどんなものであるのか。
そういう経験がないから、私はこうして気丈にしていられるのだろう。
「マリィ。気を付けなさい。もうすぐ戦場に入るわ」
もうすでに人々の怒声や悲鳴が私の耳に届いていた。基本的に武器は刀、槍などを使い、馬に乗って敵陣へ突っ込んでいく。銃や大砲、爆弾などは使用していないようだった。
遠くから見えていた黒煙は、どうやら馬が駆けたあとにたてる土埃だったのだ。
「アレックを探さなきゃっ」
アレックはどこにいる?
もし、アレックが怒りに支配されているなら、私が無事であることを知らせたい。
アレックが聞いた情報は嘘なのだと、これは無駄な戦いなのだと。
上空を迂回しながら、アレックを探すが、土埃と人が入り乱れていることで、なかなかうまく探せない。
そこかしこに目を見開いたまま横たわる兵士たちが見える。
こんな無意味な戦いで、命を落としてしまうなんて。
もう語り始めることのない兵士たちから目が放せなくなった。
彼らは私のせいで……。
光の住人がいるからこんなことが起きた。
アリィは、こんな経験をしたから、隠れるように暮らしたんだ。自分が人を救いも死なせもすることを知ってしまったから。
人を救うことだけで生きていくことがどれだけ難しいかを知ってしまったから。
「マリィっ。あそこにっ」
お母さんの指差す先にずっと会いたかったあの人の姿があった。
こちらにはまるで気付いている様子もない。
アレックは、馬に乗っていない。敵陣めざして走っていた。
「アレック。アレックっ。アレックっ」
懸命に愛しい人の名を呼ぶが、馬の駆ける音やいななき声、人々の雄叫び、刀が激しくぶつかり合う甲高い音、それらが私の声をことごとく掻き消していく。
アレックが一人の男と対峙した。その男は、アレックよりも横にも縦にも大きい、いかにも馬鹿力だろうと思われるがたいをしていた。
大きく重さも十分にあろうと思われる斧のようなものを、その場で振り回し、それを一気に振り下ろした。だが、アレックはそれをすんなりと避けると次の瞬間には男の懐に入り、腹に刀を刺していた。男は、あまりの速さに己が刺されたことにすら気付いていないようだ。
アレックはその男から離れ、前に進むと、その男はばたりと倒れた。
「す、スゴい……」
アレックが戦う姿を見たのは初めてだ。
アレックの体は鍛えぬかれた見事な体をしている。私の窺い知らぬところでトレーニングを欠かさずしているだろうことは、分かっていたが、アレックがここまで強いとは思わなかった。
カリビアナが平和であり、武力を好まない風潮がアレックの強さの露見を逃していたのだ。
「そうね。アレックは強いとは聞いていたけれど、私も想像以上で驚いたわ」
強いと聞いていたということは、案外知られた事実なのかもしれない。
「どうしよう、お母さん。声が届かないよ」
「もう、何を言っているの。心を読ませなさい」
「ああ、そっか」
ブレスレットを外しているのだから、心で会話することが出来るんだった。
「アレック、アレック。私の声を聞いて。私は今、アレックの頭上にいる」
アレックの心に届くようにそう言った。
アレックはふと上を見ると、リューキに乗る私を見て、表情を和らげた。
だが、すぐに刀が向かってきたため、それを跳ね返した。
『無事だったのか、マリィ。良かった、本当に』
アレックの心の声が聞こえる。やっと繋がったことが嬉しくて、目頭が熱くなった。
「私も、みんなも大丈夫。アレック、聞いて。カリビアナにはトラメフィアの刺客が何人かいて、馬鹿国王の命令で嘘の情報を流したの。アレックが私が捕まったと聞いたとき、私はまだ捕まっていなかった。下手すりゃまだ馬鹿国王と会ってすらいなかったのかも。とにかく、情報は嘘だった。それに、私は今無事で自由の身なの。この戦いは無駄なものなのよ。お願い止めさせて」
私が話している間にもアレックの前には何人もの敵兵が消えては現れる。
矢継ぎ早に現れるものだから、私の声が届かない(聞いている余裕がない)のではないかと不安になった。
『マリィ。声はきちんと聞いている。お前の声を聞き漏らすような俺ではない。だが、もはやもうこの戦いは止まらない。止められない』
「そんな……」
『この世界では、戦いを一度始めたらどちらかの大将の首を取るまで続けられる。一旦引くなど男のプライドが許さない。それをする国も者もいない。暗黙のルールだな』
そうまでして戦わなければならないのか?
この無意味な戦いに、なぜ命をかける?
男のプライド?
そんなもののために命を危険にさらすのか?
「馬鹿げているよ、そんなの……。男のプライドのために国民を命の危険にさらすと言うの?」
『戦場に来た以上は、国民も死ぬ覚悟をして来ている。みな、引けと言っても引かないだろう』
そんな……。
アレックがもう戦いを止めると言っても、戦いは止まらないということなのか。
「お願いっ。みんな止まって。この戦いは無意味なの。もう、誰も傷付かないで、死なないでっ」
私の声に誰一人として、手を止めるものはいない。聞く耳を持たない。もはや、彼らには戦う理由などどうでもいいことなのだ。始まってしまった戦いに勝つ。それしか頭にないのだ。
「どうして、聞こえないの」
光の住人が聞いて呆れる。何も出来ないじゃないか。今、目の前で何人もの人間が血を流し倒れていく姿を見ているのに、私は手をこまねいているだけだ。
歯痒くて仕方ない。
人を救えない力なら、持っている意味がないじゃないか。
トラメフィア軍の方が兵の数で圧倒している。平和な国で生まれた彼らが戦いで死んでいく。
戦いなど知らずに生きていてほしかった。
「マリィ。諦めては駄目よ。あなたならだっ……」
ヒュンという音が耳をかすめたと思うと、お母さんが胸を押さえて竜の背に倒れた。
胸を押さえたお母さんの指の間から、弓矢がのぞいている。
「お母さんっ」
近くに弓矢を使っている兵士はいない。
一体どこから弓が放たれたのか分からない。それらしき人物を捜し出すことは出来そうにない。
お母さんの弓は心臓をズレてはいるが、ドクドクと大量の血が流れている。
「マ…リィ。あっなたな…ら大丈夫……。わっ、私の子だもの」
お母さんを救うには、とにかく早くこの戦いを止めなければならない。
弓矢が再び飛んでくるかもしれない恐怖を感じる。けれど、リューキの背の上に立ち上がった私に迷いはなかった。
お母さんが倒れた今、この戦いを救えるのは私一人だ。
不思議とすべきことが分かっているかのように、自分の意志とは無関係に体が動く。私の中の光の住人の血が動かしているのか、それとも祖先であるアリィが私の体を動かしているのか。
ゆっくりと目を閉じた。叫び声が今まで怖いくらいに聞こえていたのに、不思議なことに無音の状態の中にいた。
再びゆっくりと目を開けた。