第109話
侍女や侍従たちを振り切って、私は漸くしんと静まり返った廊下を一人歩いていく。かつんかつんと自分の靴音だけが反響している。
アレックは客間にいる。あの子と一緒に。
不思議な高揚感があるのだが、どこかに水を打ったように静かな部分があった。冷静でないのに、どこかで恐ろしいほどに冷静だった。
階段を上る私をどこか第三者として見ているようだ。
客間の一つの前に立ち止まると、小さく息を吐き、扉を二度叩いた。
ノックをすることなんて、いまだかつてしたことがなかった。少し新鮮な気がした。
「ジョゼフか? マリィの姿は見つか……」
ドアを開けながら、部屋の中にいる人物に聞こえないように小さな声でそう言ったが、話しかけた相手がジョゼフでないのに驚いたように目を瞠って口をつぐむ。
私は無言で微笑むと、アレックの腕を擦り抜けて部屋の中へと足を踏み入れた。
「アレクセイ。またジョゼフなの?」
本を読んでいたあの子が甘ったるく甘えた声で顔を上げ、私の姿を見て驚いて本を落としていた。
そして、一気に顔が強張った。
「こんな時間にごめんなさい。でも、いい加減アレックを返してもらおうと思って……。もう、気が済んだでしょ? 恋人気分は味わえた?」
「何を言って……。アレクセイは、あなたを捨てると言ってくれたわ。私と共にここを離れて生きていくと言ってくれたわ」
一つため息をついた。
「全てあなたが言わせたこと。違った? もう、こんな茶番は止めましょう」
ノエルは俯いていた。膝についた手が小刻みに震えている。
「あなたがっ。あなたが、光の住人だってこと、言い回ってもいいの? そんなことになれば、普通には暮らしてはいけないわっ。アレクセイにだって迷惑がかかるのよっ。あなたがいるよりも、私といたほうが幸せになるに決まってるわっ」
そういうことか。驚きは全くなかった。大体の予測は出来ていた。
この子が、どこまでの情報通なのかは知らないが、その情報を利用して、アレックを手に入れようとした。何か手はないかと考えている時に、この情報を手に入れたのか。それとも、情報を手に入れたので行動を起こしたのか。
後者であるなら、少し注意する必要がある。思ったよりも広まっているのなら、この子のようにそれを利用しようと考える人が出てくる可能性がある。
「それを決めるのはアレックであって、あなたじゃない。それにそんな脅しは私には通用しない。バラしたかったら、バラせばいいよ?」
私には確信があった。だから、こんなことも言い切れたのだ。
「アレック。ちょっとこっち来て」
アレックは、ぼうっとしていたが、言われたとおりに私の横に来た。
久しぶり感じるアレックの隣にいる温かさに、少し涙が出そうになった。
しかし、今は泣いている時ではない。アレックを睨み付けた。
「私がどんな想いで待ってたか知ってる? アレックは、何か考えがあってしていたことだったかもしれない。私に話さないことを選んだけど、それは間違いだった。腹の虫がどうしても治まらないの。アレック、一発殴らせてっ」
言った後、私はアレックの頬に拳を入れた。平手打ちなんかで私の気持ちはおさまらない。
二発でも三発でも殴り倒したかった。それほどに、私は怒りを抱えていたのだ。
ほぉっと大きく息を吐いて怒りを静めた。
「ノエル。あんたにこんなやり方似合わないよ。それは自分が一番分かってんでしょ? 私は、あんたが嫌いだよ。私とは多分合わないんだと思う。だけどね、どこかで嫌いに成り切れないところがあるんだ。それは、あんたがそんな顔が出来る人間だからだよ」
うなだれて肩を落としていたノエルは、この世の終わりというような顔で私を見上げた。
私がドアに姿を現した時から、ノエルの表情は高圧感のない酷く怯えたものだった。
「後悔するくらいなら、こんなことしたら駄目なんだよ。あんたに悪人になることは出来ない」
私がノエルにバラしてもいいと言い切ったのは、この子にそんなことは出来ないと確信していたからだ。
自分も悪になりきれない。この女の子を私は、ドン底まで落とすことは出来ない。それが、良いことであるのかは、分からないが。
「分かるよ。人を好きになる気持ちは一緒だからね。辛い気持ちも分かる。でも、好きなら相手の幸せを願えるようになろう」
ノエルの頭に手を乗せて、優しく撫でた。
この子に優しい気持ちが届けばいい。
不思議と出来の悪い妹を持ったような気がした。嫌いだって気持ちが薄らいで、この子がどんな子なのか知りたくなった。
「今日は私が一緒に寝てあげる。どう?」
子供の顔に戻っていた。今まで見ていた顔は、この子の本当の顔ではなかったのだと初めて気付いた。
こんなに幼い子供みたいな顔。きっと、ずっと誰かに甘えたかったんだと思う。
「いいの?」
「いいよ。ってことで、アレックは出ていってね」
「マッ、マリィ。そのっ、すまない。本当に……」
「出ていってね」
確実にあたふたしてしまっているアレックに、王族の威厳は見られない。
「マリィ……」
「私は、今怒ってるの。分かるでしょう? これ以上アレックといたら顔がぼこぼこになるほど殴っちゃいそうなんだよ。話は明日するから、今日は休ませて」
アレックを怒ることで、ノエルを嫌いにならずにすんだのかもしれない。
最初、あの時私がノエルを苦手だと思ったのは、ヤキモチだ。
あんなに過剰に落ち込んだのは、璃里衣が帰ってしまったことと、お母さんが国の行事でこちらに遊びに来られないことなどが、一気に重なってしまったからかもしれない。
とぼとぼと部屋から出ていく背中に声をかけた。
「アレック、おやすみ」
アレックが振り替える前に、奥の部屋へと姿を消した。
少ししてから、パタンとドアが閉まる音がした。
「さあ、寝ようか」
「いいの? 私、あんな酷いことしようとしたのに……」
今ここで不安そうに私を見上げている女の子と、初めてあった女の子が同一人物だとは思えない。
「まだ、私に酷いことしようって考えてる?」
ふるふると頭を振る。
私もこの子のこと、ちゃんと見れていなかったんだな。
「じゃあ、いいじゃない。でもね、これだけははっきり言っておくね。私は、どんなことがあってもアレックを譲るつもりも身を引くつもりもない。それだけの覚悟をしてアレックの隣りにいるの」
ただ、本気でアレックが私と離れようとするのなら、その時はそれに従ってもいいと思っている。今回の場合、そんな想いをアレックから感じられなかったから、離れる必要はないと思った。
「……ごめんなさい」
「いいのよ。若い時は多少の無茶だってやっちゃうもんなんだから」
大して歳も変わらないのに、そんなことを言われたところで説得力のかけらもないだろうに、ノエルは嬉しそうに微笑んだ。
「私……。アレクセイのこと、幼い頃からとても好きだった。憧れだったの。だけど、無理矢理一緒にいてもらって、同じ部屋にいるのにいつでも心は全く別の場所にいるって気付かされた。最初は強引でも、一緒にいれば私のこと見てくれるってそう思って……。あの、マリィが思っているようなことは、何にもなかったの」
私が思っているようなことって……。
「うん。分かってるよ。アレックが私以外の女の子にそんなことしないって分かってるから。それより、一つ聞いておきたいことがあるんだけど。あなたを……、やっぱりいいわ。寝ましょう」
私は、ノエルをベッドの中に引き摺り込んだ。
私が本当にノエルに聞きたかったこと。それは、
「あなたをそそのかしたのは誰?」