第107話
大好きな庭園で、お気に入りのベンチに座り、癒しを与えてくれる池を見ているはずなのに、心は少しも晴れなかった。
アレックが私の前から姿を現さなくなって、3日、いや1週間? それとも1ヶ月? 時間の感覚が分からない。もしかしたら、1日もたっていなかったかもしれない。
いずれにしろ、私にはとても長い時間に感じられた。
最近は、必ず私の傍にエレーナとブレさんがいてくれる。それから、ジョゼフとお馴染みの侍女たち。
腫れ物を触るように、痛々しいものでも見るように私に接する。私が、彼らを心配させないように笑顔で過ごせればいいのだけれど、今の私には笑い方が分からない。周りに気を配ることすら出来ない。そんな自分が情けなくて、そんな自分が腑甲斐なくて、息が詰まった。
だから、こっそりと逃げてきたのだ。
一人になりたかった。一人で、誰かの心配そうな瞳が注がれないところで、ただただ思う存分ぼうっとしていたかった。
「……水の中に帰ろうか」
日光が反射してキラキラと瞬く水面を眺めて、一人呟いた。
私の体は水の中でも生活が出来る。誰も、私を捕まえることは出来ないだろう。誰かが追ってきても、逃げ続ければいい。彼らには長い時間息を持続させることは出来ないのだから。
「海に行こうか……」
人魚は本当にいるだろうか。人間の血の方が多いであろう私を、受け入れてくれるだろうか。
逃げることばかりが頭を掠めていく。
パッと思い立って、城の裏手に向かい歩いた。
その姿を見て、私は息を呑んだ。
私が暫く来ない間にこんなにも立派に成長していたなんて。
それは、私を見つけると嬉しそうに近付いてきた。
『マリィ。マリィが会いに来てくれないから、僕、淋しかったんだ』
ほんの少し目を離した隙――アレックと会わなくなってからだから、はっきりとどのくらいとは言いきれないが――に、立派な大人の竜に成長していた。
「リューキ、ごめんね。淋しい思いさせて。こんなに大きくなって……」
もう私の手のひらには納まり切らない。抱っこすることもままならない。ほぼ、リューキのお母さんと同じくらいの大きさになっていた。
「リューキ、凄く格好良いよ」
表情が変わることはないが、嬉しそうにしているのが手に取るように分かった。
『マリィ。背中に乗って。僕、マリィと飛びたい』
願ってもない申し出だった。
とうとう自分の夢が叶うのかと思うと、久しぶりにワクワクが込み上げてきた。
久しぶりに感じる熱い想いに、めまいがしそうだった。
「うん。乗るっ。乗りたいっ」
リューキが目だけで微笑んだ。随分大人っぽくなったリューキを見て、あまりに私が放ったらかしにしてしまっていたことを申し訳なく思った。
私は、自分がスカートであることを無視して、リューキの背中に跨った。
不幸中の幸いだが、今の私には怒ってくれるアレックがいない。
泣きそうになりながら笑った。もう、嬉しいんだか悲しいんだか分からない。このまま感情が麻痺してしまうかもしれない。
それっていいことなのかな?
感情が麻痺したら心が死んでしまったのと同じことなんじゃないのか。心が死んでしまったら、生きている意味があるんだろうか。
麻痺してしまえばいい、楽になりたいと思っている自分と、それだけはいけない、まだまだ頑張れる筈だと思っている自分とが、シーソーゲームしている。
希望への光が、縋り付けるものが私にはない。
リューキがばさりと羽を広げ、ふわりと浮上した。
少しずつ少しずつ地上が離れていく。大きく見えていた城が遠く小さくなっていく。
ちょうどその時、ジョゼフが慌てたように裏庭に出てきた。最近では当たり前になってしまっているが、そこにアレックの姿はない。
アレックがジョゼフに私を捜させたの? それとも、アレックは何も知らないの?
ジョゼフに聞いてしまいたい。全てを。だが、怖くて聞けない。口を開こうとすると、喉がひからびたようになって、痛みさえ感じて、結局口をつぐんでしまうのだ。
ジョゼフは何かを叫んでいる。けれど、もうその声さえ届かないところまで浮上していた。
「もう、このままどこか遠くまで飛んでいってしまおうか」
小さな呟きは風に攫われて、リューキの耳には届かない。
今の私は、逃げることばかり考えている。
もう、限界なのかもしれない。アレックを信じることすら難しくなってきている。
不安で仕方がない。
アレックは、本当は私に飽きてあの子を好きになってしまったんじゃないか……。
私は、大きく頭を振った。せっかく夢が叶っているという時に、塞いでばかりでどうするんだ。
「凄いねっ、リューキ。凄い気持ち良い」
努めて明るい声で叫んだ。
町が見える。米粒大の人々が動いているのが見える。
眼下に広がるそれらが、まるで作り物のような気がして心許ない。もしかしたら、この世界は作り物だったんじゃないか。城にいる人々は、本当はろう人形なんじゃないか。そんな妄想を描いてしまった。
「リューキっ。遠くまで行こうか。うんと遠くまでっ」
『マリィ。そんなことをしたら、日暮れまでに戻れない』
「戻っても心配してくれる人はいない。ううん、いるけど一番心配して欲しい人はしてくれないから……」
リューキなりになにか感じるものがあったんだろう。
何も言わず、スピードを上げた。私を遠くまで連れていってくれることにしたようだ。
リューキの背中に頬を寄せ、小声で呟いた。
「ありがとう」
と。
この世界はどこまで続いているんだろう。地球のように丸いんだろうか。
リューキも長く飛ぶのは初めてなのだ。
無理なお願いをしてしまったな。
リューキは私を思って飛んでくれているんだ。今は、今だけは、全てを忘れて楽しもう。楽しまなきゃ駄目だ。
「リューキ。私、海が見たいっ。リューキは、海を見たことがないんだよね。私もこの世界ではまだ見たことがないけど、池のもっともっと大きいものだよ。そこまで連れていってくれる? 何処にあるのかも分からないんだけど……。どうしても、海が見たいの」
本当に海の中に帰ろうなんて思っているわけではない。そう出来たら、本当にいいのかもしれない。けれど、自分は耐えられるのか? アレックのいない世界を。ほんの少しの間(恐らく)会えなかっただけで、これだけ憔悴しきっている自分が、本当にアレックのいない深海の世界へ飛び込んだなら、どんな結末を迎えることになるのか。想像することも出来ない。
アレックだけじゃない。この世界で出逢った人々は、私にとってかけがえのない存在になっていた。彼らと別れることを考えただけで、息がつまるほどに胸が苦しくなった。
私は少し考え過ぎなのかもしれない。特に、悪い方へ悪い方へと思考が持っていかれている。
頭の中でごちゃごちゃと考えているうちに、私は眠気を感じ始めていた。ここ最近、殆ど眠ることが出来なかった。きっとリューキの背中がとても暖かくて、安心できるからなのだろう。
だが、背中の上で眠ってしまったら、振り落とされてしまう。この状態で眠りに着くことは、自殺行為に等しい。
そうは分かっていても、私の瞼は重く、その重力に逆らうことは難しかった。
『マリィっ。海っていうのは、あれのことじゃないかな? とっても大きな池があるよっ』
リューキの叫び声で閉じかけた瞼が一気に見開かれた。
前方を確認すれば、壮大な海が視界全面を埋め尽くしていた。
「うん。そう、あれが海だよっ。リューキ、あそこに降りてくれる?」
返事の代わりにリューキの体が斜めに傾き、急降下し始めた。そこらへんのジェットコースターより迫力満点で、興奮の余り笑いが零れた。
声を出して笑うのは、実に久しぶりのことだった。
砂浜に足をつけ、海を眺めると感じたことのない懐かしさに襲われた。言葉を出すことも出来ず、その海を見続けていた。
いつも読んで頂いて、有難うございます。
諸事情により、明日から来週いっぱいくらいまで更新をお休みしたいと思います。
読んで頂いている方々には、御迷惑をお掛けしますが、再来週より気合を入れて再開させていただく予定でおりますので、宜しくお願いします。