第106話
私が目を覚ました時、左手にアレックのぬくもりは感じられなかった。アレックがいる気配も感じられない。
そのことが、私を重い気持ちにさせた。
アレックが仕事に戻ったことくらい考えなくても分かる。だけれど、今日は目が覚めた時にアレックがいてくれることを切に願っていた。
それは私の我儘でしかない。璃里衣が帰ってしまったことが、やはり寂しくて、その沈んだ気持ちが影響しているのかもしれない。
「大丈夫なの?」
突然話し掛けられて、飛び起きた。
寝室のドアのところに腕を組んでこちらを眺めているエレーナがいた。
「なんだ、エレーナ。驚かさないでよ」
「驚かせたつもりはないけど、驚いたなら謝るわ。ごめん。それで、体調はどうなの?」
エレーナと二人きりで話すなんていつぶりだろう。大分前だったような気がする。
いつだって私とアレックの周りには愛すべき人達がいて、エレーナと二人きりで話すことはあまりなかった。だから、凄く懐かしく、新鮮だった。
「心配して、ついててくれたの? ありがとう、エレーナ。私は大丈夫だから」
エレーナの優しさがとても嬉しかった。
私が微笑んだのを見て、エレーナは可愛らしい顔を歪めた。
「そんな顔して、大丈夫なわけないでしょ。普段泣き虫なくせして、痩せ我慢しないでよ。あんたの顔を見て、どれだけの人間が心配してると思ってんのよ」
エレーナは怒っていた。正直、何が彼女の逆鱗に触れたのか分からず、キョトンとエレーナを見ていた。
「何で私が王城に戻って来たか分かる?」
「私が面白かったから?」
確かそんなことをアルさんにいっていたような気がする。
エレーナは、自意識過剰だと怒るだろうか?
エレーナはつかつかと早い足取りでベッド脇まで来ると、突然私の頬をつねった。
「マリィが好きだったからよ。だって私は、あなたの妹でしょ?」
「私のことお姉さんだって思ってくれるの?」
「本当に分かってないんだから。小さい頃から私の一番はお兄様だったけれど、今はあなたなんだからね。それは、ブレット兄様も一緒なの。お兄様があなたを悲しませたら、ただじゃおかないわ」
懐いてくれたら嬉しいなんて思っていたけど、いつの間にこんなに懐いてくれていたんだろう。
どっちにしろ、エレーナの言葉は私の気持ちを浮上させたことに変わりない。
「それにね、リリィに頼まれてるの。何かあったらお姉ちゃんをよろしくって」
璃里衣がそんなことを……。
なんで、みんな私を喜ばせることばかり。みんな、なんて優しいんだろう。この世界に来てから、私は幸せなことばかりだ。
色んな人に私は守られている。
「ノエルが来たんだって?」
その名前を聞いただけで、頬が引きつるのが抑えられない。
ぎごちなく頷いた。
「私に隠す必要ないわよ。あの女が嫌いなんでしょ?」
「嫌いだなんて思ってるわけじゃなくて。だって、嫌うほど何かをされたわけでも、話をしたわけでもないもの」
「ああ、イライラするっ」
ええっ、私また勘に触ることを言ってしまっただろうか。
「あなたっていい子ちゃんすぎるのよ。誰にだってどうしても好きになれない人っているもんでしょ? それなのに、自分は人を嫌いにならないって本当に思ってる? 確かに人の良いところを見つけるのは上手いんだろうけど、絶対なんて有り得ないのよ」
戸惑っているのだ。
私は、本当に今まで人を嫌いと思ったことがないのだ。例え、いじめられても嫌いだと思えなかった。
これは、仕方ないことなんだと自分の中で納得している部分があった。自分が人と違うからいけないのだと。人の思考のメカニズムのようなものを分析すれば、彼女達の行動は実に単純で、微笑ましいものにさえ感じていた。
私は、決して彼らが嫌いじゃなかった。
だから、受け容れたくなかった。
自分が、誰かを嫌いだと思ったことを。
「私ね、本当に今まで誰かを嫌いだと思ったことなんてなかった。でも、あの子は……。全然、ワクワクしないの。知りたいと思えないの。一緒に何かしたいとか、一緒に何処に行こうとか全然思い浮かばないの。私の心も体もあの子を拒絶しているみたい。きちんと話したこともないのに……。何かされたわけじゃないのに」
「何言ってんの。お兄様に無理矢理キスしたんでしょ? 十分やなことされてるじゃない。あの子はね、本当に質が悪いのよ。お兄様を自分のものにするためには、どんな手段も使ってくる。あの子の、挑発になんか乗っちゃ駄目よ。向こうの思う壺よ。分かった?」
同じ王城に住んでいたのだから、エレーナがあの子のことを知っているのは当然だろう。今まで、話にも上って来なかったのは、あの子の話を誰もが避けて来たからなんだろうか。
幼馴染が来ることになっていると言った時のアレックの歪んだ顔を思い出すと、幼い頃に何かあったのかもしれないと思えた。そして、それは口にするのを嫌がるようなたぐいのもの。
「なんかエレーナって、妹って言うよりもどちらかというとお姉ちゃんみたいね」
エレーナは、言いたいことはずばりと言う気持ちのいい性格をしている。
今は何だか、その性格が頼もしくて仕方ない。エレーナのその性格に、私は今、救われている。
「何言ってんの、馬鹿ね」
そう言ったエレーナの頬は、ほんのりと桃色に輝いていた。
……可愛い。
そんなことを言ったら、きっともっと照れてしまうだろう。照れて怒りだすかもしれない。だから、心の中にしまっておくことにした。
その日の夕食にアレックは姿を現さなかった。
「ジョゼフ。アレック……やっぱりいいわ」
アレックの姿はないのにジョゼフがここにいることが不思議だ。そんなことは、今までに一度としてなかった。アレックの傍には必ずジョゼフがいる。それが必然だったのだ。
でも、分かってしまった。
アレックは、あの子といる。
けれど、私が心配だからジョゼフをこちらに留まらせたんだ。
あの子は、どんな手を使ってアレックを引き留めているんだろう。
食事の席には、エレーナとブレさんが同席してくれた。
誰もアレックのことを口に出すことはない。表面上はとても明るい笑顔を拵えているのに、その内面には複雑な表情を隠していた。
その夜もアレックは私の隣りにはいなかった。
アレックと偽の結婚をしてから今まで、アレックのいないベッドで寝た事なんてない。日本にいるときは別としてだ。アレックが隣りにいることが当たり前すぎて、今までこんな状況になる日が来るとは思わなかった。
アレック……。あなたは今、あの子の隣りで寝ているの?
そう考えただけで、涙が零れ落ちてしまった。目を瞑ってそれ以上の涙が落ちないようにした。
一人で眠る大きなベッドは、冷たくて氷みたいだった。
アレックには何か考えがある。私のことを考えてしていることだってことも分かっている。
でも、私のために誰かの隣りで寝るの? 私のために誰かに触れるの? 私のために誰かを抱くの?
考えただけで、心が壊れてしまいそうだった。
私はこの国に来て、初めて一人で月を見た。窓から見えるその月が、私を励まそうとひと際強く輝いた。
「ありがとう。でも、まだ大丈夫。私はアレックを信じているから……」
アレックは、あの時こうなることを予測していたんだろうと思う。
『どんなことがあっても俺がお前を嫌いになることはない』それは、私へのメッセージだったんだと思う。この先何があっても、俺を信じてくれ、と言って貰っているようなものだ。
信じるしかないのだ。どんなに苦しくても、信じて待つしかない。