第104話
人魚の話をお母さんに聞いてから暫くたったある日。
「お姉ちゃん。もう、私、戻らないと……」
楽しかった夏休みが終わるのだ。
楽しかった。璃里衣がいることが当たり前になってしまって、不思議な気がする。璃里衣が戻らないといけないことすら忘れていたほどだった。
「そっか。寂しくなるね」
不覚にも泣いてしまいそうだ。涙を出しそうな私を隣にいたアレックが慰めるように頭を撫でてくれる。
それが、逆に涙腺を刺激して、結局涙が一筋流れてしまった。
「仕方ないな、お前は。妹に笑われるぞ? ほら、俺たちは席を外しているから、たまには姉妹水入らずで話したいこともあるだろう」
アレックが私達を気遣って、みんなを引きつれて部屋を出ていった。
いきなり静かになった部屋の中で、変に気恥ずかしさを感じ、璃里衣と顔を見合わせて苦笑した。
でも、こんなふうに二人きりになるのは、本当に久しぶりだ。
「へへっ。なんかこうやって水入らずって照れ臭いね」
「うん。そうだね。お姉ちゃん、私をここに連れてきてくれてありがとう」
二人でベランダに出て並んで座って、庭園を見ていた。
綺麗な花が咲いているその庭園が、温かく見えた。
「私も来てくれて嬉しかったよ」
この先、こんなふうに璃里衣がここに訪ねてきてくれるかは分からない。もしかしたら、これが最初で最後かもしれない。
「お姉ちゃん。心配しなくても、私、何回でも遊びに来るよ。だから、泣かないでよ」
言われて初めて自分が泣いていることに気付いた。
「泣いてないよ」
璃里衣に気付かれないようにこっそりと涙を拭う。
まあ、今更なんだけど。
「そう? それならそれで良いけどね」
二人の時間は日本の私達の部屋を思い出させる。
眠れない夜、璃里衣が枕を抱えて部屋に遊びにくる。たいてい、私と璃里衣が眠れない夜は同じで、私が眠れないなと思っていると必ずやって来るのだ。
私達は枕を並べて、十年後の自分達がどうなっているかをよく話していた。その時々で考えてる内容は違っていた。それが私達の成長なんだと思う。
ある時は歌手になっていると言い、ある時は教師、ある時はスポーツ選手、ある時は保育士と職種も様々だった。
そして、話し疲れた私達は丸くなって眠りにつくのだ。
「昔みたいに一緒のベッドに寝るなんてないんだろうけどさ。それだけが姉妹じゃないよね」
「そうだよ。今度は私の恋の悩みをお姉ちゃんに聞いてもらうからね」
驚いて璃里衣を見る。
いまだかつて璃里衣の口から恋だの愛だのという言葉が出て来たことはない。
その点で、少し気を揉んでいた。
「えっ、璃里衣。好きな男の子いるの?」
「いたよ。今はどうかな。もう止めようかなって思ってる。だって、絶対報われないもの。お姉ちゃんにだけは言えない気持ちだったんだよね」
私だけには言えない気持ちってまさか……。
「祐一……なの?」
だから、私に恋の話をしてくれなかったの?
言えるわけないよね。私の為に自分の内に溜め込んでいたんだね。
「まあね。でも、シアも祐一が好きみたいだし、祐一は未だに誰かさんのこと引き摺ってるしね。私の出番はないかな」
痛いところをぐさりと遣られました。
祐一には、今も尚申し訳ないと思っている。
だから、せめて祐一の幸せを願っている。
「頑張らないの? 諦めちゃうの? まだ、祐一は誰のものでもないんでしょ? 勿体ないよ、その気持ちが。それに、気持ちって止めたって言ってすぐに止められるものじゃないでしょ?」
「でも……。辛いよ、お姉ちゃん。お姉ちゃんと同じ顔をした人が祐一の隣にいるんだよ? いつ付き合い出してもおかしくないもん。シアの気持ちなんて祐一は知ってるんだろうし」
璃里衣ってこんな顔するんだ。
それは、恋に悩む女の顔だった。
「祐一は私の顔が好きだったのかな? ちょっと違う気がする。今ももし私の面影を追っているなら、シアが隣にいることは祐一にとっては辛いことかもしれないよ。私、必ずシアと付き合い始めるとは思えないんだけど……」
祐一の気持ちを私が今分析することは、かなりしんどい仕事だった。祐一が今、傷付いていると思うと胸が重くなる。
だけど、妹のことが可愛らしくて仕方ないのだ。
「祐一が今、シアのことどう思っているか分からないけど、少し頑張ってみようかな。シアとライバルになっちゃうけど、後悔したくない。お姉ちゃんとアレックさん見てたら羨ましくなった。私もあんな風になりたいなって思ったんだ」
シア、ごめんね。
祐一とのこと応援しようと思っていたけれど、私には出来ないみたい。
私は璃里衣が可愛くて仕方ないんだ。璃里衣を応援したい。
璃里衣の恋が上手くいっても、いかなくても、頑張ったねって誉めて上げたい。
「璃里衣、私に言われなくてもそうするんだろうけど……、頑張ってね。応援してる」
「お姉ちゃん、シアを応援してるんじゃなかったの?」
「へへっ。だって、やっぱり璃里衣が可愛いんだもん。だから、秘密ね」
璃里衣には幸せになって欲しい。祐一にも幸せになって欲しい。そして、勿論シアにも幸せになって欲しいと願っている。
けれど、どう頑張ったって璃里衣に一番幸せになって欲しいと思うのは、姉だからなんだと思う。12年間も寝食を共にしていたんだから、多少贔屓しても仕方ないよね。
この三人の関係が今後どう変わって行くのかは分からないけれど、もう少し未来に思い返した時に、ああいい恋したなって思えるような恋をして欲しいと思う。
「そっか……。璃里衣が祐一をね……。考えてもみなかったよ。私、知らない間に璃里衣を傷つけてたんだね。ごめんね、私って鈍いんだね」
「謝らなくてもいいんだよ。だって、私はずっと二人のこと憧れてたんだから。その延長線上にその気持があったんだと思うんだ。でも、お姉ちゃんが入れ替わって項垂れてる祐一を見ていたら、なんだか居てもたってもいられなかった。シアが日本に慣れていないから、祐一が面倒みてあげていたんだけど、時折見せる横顔が切なそうだった。シアがお姉ちゃんに似ているからってやっぱりお姉ちゃんじゃないんだよね。それを目の当たりにして愕然としている、そんな表情だったよ。悔しかったな。お姉ちゃんのことは大好きだけど、祐一をこんな顔にするなんてって思ったら、ちょっとだけお姉ちゃんのことが憎らしくなったりもした」
最後の言葉にぐさりと胸を刺された思いだった。
仕方ないとは思う。祐一を想う璃里衣やシアには、恨まれても当然だと思う。私だって好きな人を傷つけられたら黙っていられないし、憎たらしいって思うもの。
「そんな顔しないでよ、お姉ちゃん。もう、そんな風には思ってないからさ。逆にチャンス到来ってことなんだから感謝しなきゃいけないんだよ。手ごわそうなライバルはいるし、私はまだ中学生で、祐一にとっては私なんて妹的な存在でさ、眼中にないのかもしれないけど、やっぱり諦めたくはないかなって思う。結構しつこいんだよ、私。多分、お姉ちゃんが祐一を家に連れて来た時から好きなんだから」
私が祐一を家に連れて来たのは、大分前のことだと思う。
まだ、私に祐一が好きだという恋愛感情は持っていなかったように思う。そう考えると、璃里衣は私よりも前に祐一を好きになっていたのかもしれない。
「私、決めたっ。全面的に璃里衣を応援するっ。シアには申し訳ないけど、璃里衣の恋が成就することを願ってる。相談ならいつでも聞くから。私が出来ることなら何でもするから言ってねっ」
「うん。ありがとう。マディさんに貰った手鏡使って相談に乗って貰うつもりでいるよ」
お母さんから手渡された手鏡があれば、いつだって顔を見ながら話が出来る。テレビ電話よりも画像がいいから、本当に近くにいるような感じがする。
距離は遠いかもしれないけれど、今までよりも妹との距離はとても近くなる。璃里衣だけじゃない、日本のお父さんやお母さん、シアとも気軽にお喋りできるようになるのだ。
そうだ、寂しくなんてないんだ。
心が離れなければ、物理的な距離が広がっても寂しくなんてない。