第100話
水の中は、冷たくどことなく落ち着く。いつまでも潜っていたいと思うし、それが可能な気がしてならない。
そう、自分が魚になったようにすいすいとどこまでも、疲れを知らずに。
不思議と息継ぎをしなくても苦しくはなかった。一体どれだけ水面に顔を出さずに泳ぎ続けているんだろう。もしかしたら、アレックが心配しているかもしれない。
そうは思うものの、魚達と群れをなして泳ぐのは楽しかった。魚達もまた同じように思っているのが分かる。
無条件に私を信じ、好意を抱いてくれている。
それが堪らなく嬉しい。仲間と認めてもらえたようなそんな感じ。
背後から腕を掴まれ、強制的に水面に引き摺り上げられた。
腕を掴んでいる人物が誰かなんて分かり切っている。
「大丈夫なのか、お前?」
「えっ、全然大丈夫だよ」
アレックの必死な形相に驚いた。アレックは、肩を大きく上下させ、呼吸を整えている。
「私よりアレックの方が大丈夫?」
「大丈夫なわけあるかっ。さすがに体力の限界だ。とにかく、一度上がるぞ」
今の状況がいまいち理解できなかった。何でこんなにアレックは必死なのか。
アレックに促されて、渋々上がると璃里衣とエレーナ、ブレさん、ジョゼフや三人の侍女までが私達を心配そうに見ていた。
何を一体そんなに心配げなのか、私だけが理解していなかった。
「マリィ様。お体に何か調子の悪いところはありませんか? 私達、それはもう心配で心配で……」
胸に手を当てて、無事の帰還を喜ぶような大袈裟な侍女たちに目を剥いた。
「ちょっと、待って。なんでそんなに心配する必要があるの? 私は泳いでいただけだよ?」
そう、アレックを漸く納得させて、特殊な水着(露出度が極めて低い)も作って貰って、漸く念願の池遊びが出来るようになった今日この日。私はただ気持ち良く泳いでいただけなのだ。
「ええ、しかし待てど暮らせどお顔を出してくださらないので……。私達、マリィ様に何かあったんじゃないかって。もう、一時間以上も潜っていたんですよ。心配して当たり前です」
シェリーが顔を歪めたままそう言った。
たっ、確かに……。一時間も水面に顔を出さなければ、心配するのは当たり前というもんだ。
それにしたって一時間って、なんで……。
確かに私は泳ぎが得意で、潜水も案外長く続けることが出来る。けれど、一時間も潜り続けたことはいまだかつてない。
そんなに潜っていたなんて、自分自身が信じられない。それどころか、それだけ長いこと水中にいたのに拘らず全く正常な状態をキープしているこの体が不思議でならない。
プールに長いことはいると皮膚がふやけてくるがその症状も全く見られない。まさしく入る前となんら変わらないのだ。
「そんなに長いこと息が続くなんて……」
「お姉ちゃんがなかなか出てこないから、アレックさんが一生懸命探してたんだよ」
アレックがあんなに息を切らしていたのは、私を探すために泳ぎ続けていたからなんだ。
アレックに申し訳なくて、目を合わせることが出来ない。
「私達にはね、その環境にあった体を瞬時に作ることが出来るの。順応性に優れているのね。特に水の中では、その力は謙虚に現われるわ。リッチー(マリィの父)は、私達の先祖は人魚なんじゃないかって本気で言ってるわ」
みんなの後ろから聞こえる声に、一斉に視線が注がれる。
「お母さんっ」
「ふふっ。また来ちゃった。あっちはつまらないんだもの。リッチーは仕事で忙しくて構ってくれないし、こっちには、マリィがいるしリリィとももっと話したかったしね」
クスクスと軽い笑みを零しながら、そう言った。
また、お父さんを置いて来ちゃったわけね。今ごろ拗ねてるんじゃなかろうか。そのうち愛想つかされてもしらないんだからね。
「来ちゃったんだ……。お父さん、置いて来たら寂しがるんじゃないの?」
「平気よ。一瞬で向こうには戻れるんだから。夜になったら向こうに戻って、朝になったらまたこっちに遊びに来ればいいのよ。それとも、マリィったら私が来るの嬉しくなかった?」
確かにお母さんならそんなこと容易く出来るのかもしれないけど、お母さんも一応グルドア王国の王妃様なわけだから、国にいた方がいいんじゃないでしょうか。
「そりゃ、嬉しいけど……」
「大丈夫よ。これを持って来たから」
お母さんが取り出したのは、手鏡だった。けれども、お母さんが取り出したその手鏡にはボタンのようなものが付いていた。
「このボタンを押すとね、リッチーが持っている手鏡が音を鳴らして知らせるの。リッチーが向こうでボタンを押すと鏡を通して会話が出来るようになっているの。一度やってみるわね」
そう言って、ボタンをぽちりと押すと、数秒もしないうちにその鏡にお父さんの顔が映し出された。
「マディ。君、またマリィのところに行ったんだね? 一人だけずるいじゃないか。私だってマリィに会いたいのに。それに、君が私の傍にいないのは耐えられないよ」
「リッチー。ごめんなさい。でも、あなた日中は仕事に追われて私を傍に寄せ付けないじゃないの。夜になったらそっちに戻るわね。あなたの隣りでないと私眠れないもの」
なんだろう、この甘ったるい光景は。見える筈もないハートが二人の間から飛び出ているような気がしてならない。
「お父さん、元気?」
「ああっ、マリィじゃないか。会いたかったよ。今度グルドア王国にも遊びにおいで。待ってるよ」
お父さんは、この間会った時と同じ優しい微笑みを見せてくれた。お父さんのあの笑顔を見ると、とても落ち着ける。
「それじゃあ、リッチー。また、夜にね」
あっさりと通話を切ると私を見てにっこりと笑った。
「お母さんっ。これっ、この手鏡。これと同じようなもの私にもくれないかな? 日本とカリビアナ王国にも一つずつ置ければなって思ってるんだけど……」
日本とカリビアナを繋ぐ電話のようなもの。そんなものがあればいいのにと前々から思っていたのだ。お母さんに聞いてみようと思っていたのだが、何かと忙しくて忘れてしまっていた。これは、まさしくテレビ電話みたいなもの。
「あらっ、そうね。それはいいかもしれないわね。そうしたら、あなたの日本のお母さんにも挨拶できるし、マリィーシアとも久しぶりに話すことが出来るしね。グルドア王国に何個かあるから、明日には持ってきてあげられるわ」
「本当っ。ありがとう、お母さん。璃里衣っ、これでいつでも連絡取れるようになるよ。テレビ電話みたいなもんだもんね。顔を見て話せるよ」
璃里衣が寂しい想いをしなくても済むようになる。勿論、傍にいて話すことのほうがいいに決まっているけれど、お互いにそれぞれの生活があるから。
「うんっ。良かった。有難うございますっ。マディさん」
お母さんは、とても可愛い笑顔を璃里衣に向けた。とてもお母さんだとは思えないような幼い表情に私の顔もほころんでしまった。
「ところで、お母さん。先祖が人魚かもしれないって何?」
「俺もそれはきになるな」
体を休めて漸く復帰したのか、アレックがいつの間にか隣りに来ていた。
「あくまで仮説なのよ。リッチーは光の住人の研究をしていたから、そう考えている研究者に会うことが多かったみたい。彼自身もそう考えていたし。その仮説は実証できていないけれど、もしかしたらそうなのかもしれないって私も思うわ」
光の住人の先祖が人魚かもしれない……。あまりに突拍子もない話に私はついていけない思いだった。けれど、それが本当なら面白い。
皆さんこんにちは。
とうとう100話に達成してしまいました。こんなに長く続く予定じゃなかったんだけどな……。
終わりは見えているんですけど、もうしばらくかかる予定です。最後まで、お付き合いして頂ければ嬉しいです。