第99話
目の前に突き出されたアレックよりもほんの少しだけ大きな手、その手から上に辿っていけば、ブレさんの笑顔がそこにあった。
「これからよろしく」
声には出さなかったけれど、そう言われているような優しい笑顔だった。
私はその手を握った。
ブレさんは、手を握り返したと思ったら、その手を一気に引き寄せた。腰に回されていたアレックの手は、気がゆるんでいたためかすんなりと離れ、ブレさんの方へと私の体は引っ張られた。
すぐさま異変に気付いたアレックは、再び腰に手を回してそれを阻止した。
「アレクセイ。お前も知っているだろう? 恋心はそう簡単に消えるもんじゃない。隙を見せたなら、一気に奪い取るからな。気を抜くなよ」
にやりと意味深に笑ったあと、私のおでこに軽く触れて、すぐさま離れていった。いや、離れていったのは私の方で、後ろからアレックが引いたためであるのだが。
アレックの膝の上に再び戻ると、アレックは私のおでこをばい菌でも払うように撫でた。
ブレさんがそんなアレックを可笑しそうに笑ってみている。
「油断大敵ってね」
最初のイメージのブレさんと今のブレさんでは、あまりに違いすぎる。
あんなに王子様のような爽やかなスマイルを振りまいていたのに、今の笑いといったらどことなく黒いものを感じた。
素敵なライバルが現れたと思って、嬉しかったのにな。ちょっと、油断できない厄介な存在になってしまったな。
「そんな憂鬱な顔しないで、マリィ。取って食いやしないよ。アレクセイの子供の頃の話、約束通り教えてあげるよ」
「本当? 聞きたいっ」
「こら、マリィ。すぐに信じるんじゃない。お前は隙がありすぎるんだ」
「そんなこと言ったって、アレックの小さい頃の話し聞きたいもの。いいでしょ?」
ブレさんが口説きモードになるのは困るけれど、先程までの話を聞く分には、アレックをからかって(煽って)いるだけにすぎないのだと判断出来るように思う。そんなに心配する必要はないと思うのだ。
もし、ブレさんが私を好きなのだということが事実だったとしても、アレックを好きだったということもまた事実なのだ。ブレさんが、アレックが本当に嫌がることはしないだろうと思うのだ。
「駄目だ」
「大丈夫だよ。ブレさんは、私達が嫌がることはしない。だって、私達のことが大好きなんだもの。でしょ? ブレさん」
ブレさんに尋ねるように小首を傾げてみる。
「ははっ。マリィは賢いな。そう言えば、俺が何も出来ないって知ってるんだろ?」
そう、紳士だから。本当に嫌がることはしない。
さっきのキスだって、多分ブレさんにとっては、悪気はなかったと思うんだ。私が傷付くことも、アレックがあんなに怒るとも思っていなかったのだと。その背景には、ブレさんの周りにいる女性が彼から受けるキスに喜んでいたからだと考えられる。
だが、ブレさんは私にキスをすると私もアレックも嬉しくならないということを学習したのだ。これから、無闇にキスすることはない。
ブレさんは、そういう人だと思う。
「うん。アレックだって本当は分かっているんでしょう?」
「分かってるさ。分かってはいるんだ。だが……」
その先は言わずに目を逸らした。
私はアレックを見て、小さく微笑んだ。
「なあに、ヤキモチ?」
「ああ、そうだ。悪いか?」
「ううん。嬉しいよ。……分かった。じゃあ、アレックの視界に入る場所で話を聞く分にはいい? あのね、私色んな人からアレックの幼い頃の話を聞きたいの。今度ジョゼフやルドルフにも聞きたいって思ってる」
アレックは呆れたように大きく息を吐き出した。
「なんで俺の昔にこだわる?」
「好きな人の色んなことを知るのはいけない? もし、私が日本に飛ばされなければ、もっとアレックと会えてたよね。だって、私達は許婚だったんだから。正直いうと悔しいんだ。知っていてもおかしくなかった昔のアレックを私は知らない」
もし、私が日本に飛ばされなければ、どんな私達になっていたんだろう。
こんな風に考えるのは、馬鹿だって分かってはいる。今、私達は隣にいるのだからいいじゃないかと。
分かってはいる。けれど、知りたいのだ。知っておきたいのだ。
それと同じように思うことがある。何故、私は日本に飛ばされたのか。
自分の力がセーブ出来ずに飛ばされてしまったのか、それとも、人為的なものなのか。もし、後者だった場合、誰が何の為に私を日本に飛ばしたのか。
そんなこと、考えなくてもいいのかもしれない。恐らく、いや間違いなくみんな前者だと結論付けているのだから、今更蒸し返すのは無意味なことだ。けれど、ふと思うのだ。何故……と。
「お前は本当に仕方ないな。くれぐれも隙だけは作るなよ」
自分の思考の世界に浸りそうになった私をアレックの言葉が一気に引き戻した。その言葉に、私は大きく頷いた。
「だから、アレック大好きなんだっ」
アレックの目を覗き込んでにっこりと微笑むと、照れてしまったのか目を逸らした。アレックがへそを曲げてしまうので、心の中だけでこっそりと笑った。
「それでね、アレック。もう一つお願いがあるんだけど……」
「駄目だ」
「まだ何も言ってないじゃない? 駄目って言葉は聞いてから言ってよ」
あまりの素早い反応に唇を尖らせて、不平を洩らした。
「ねぇ、アレック。こんなに暑っくてぐったりしてしまうよね。でも、ほら池を見るとどう思う?」
「はあ? 池? 何とも思わないが……」
「もう、アレックには想像力ってもんがないのよ。見てよ、あそこにカメがいるじゃないの。気持ち良さそうだとは思わない?」
この城の中では有名な鳥と仲良し(それは恋なのか?)のカメがのんびりと水中を泳いでいる所を見つけ、それを指さした。
「カメは寒くても泳いでいるぞ?」
「そういうことじゃなくて、もうっ、私は池で泳ぎたいって言ってんの。こんなに暑くちゃ私の頭が鈍っちゃう。考えても見て、暑さにやられて朦朧となっていたら、ブレさんに襲われても抵抗できないってことなんだよ。私、このままではブレさんに襲われてしまうわっ」
少々とんでもな意見なのであるけれど、アレックは謙虚に「襲われる」という単語に反応して下さいました。
「池で泳げば、暑くっても頭がすっきりするし。襲われることもないと思うわけなんだけど……」
アレックは腕を組んで、私と池の間を何度か視線を走らせながら、唸り声を上げている。
「お前、池には服を着たまま入るつもりか?」
ううっ、これはイヤな風向きかもしれない。私が水着で池に入るって言ったら、絶対反対するよね。
「えっと、このまま入ったら重くなっちゃうから普通水着を着るんだけど……」
「水着とはなんだ?」
「限りなく下着に近いんだけど、でも、下着じゃなくて。日本では、夏はみんなそれを着て海やプールに入るんだよ」
それが一般的なんだということを強く強調するように言ったのだけれど、アレックの眉は下着ということばに強く反応していた。
「却下だ」
ああ、やっぱり?
「じゃあさ、お針子さんに作って貰ってもいい? あんまり露出が激しくなくて、それでいて水に入っても大丈夫なやつ」
「俺が許すまで入ることは禁止だ。いいか? 今日みたいに勝手に入ったりするなよ」
渋々といった感じでそう言ったアレック。アレックの首に抱き付いた。
「ありがとう。アレックのも作ってもらうから、一緒に入ろうね」
アレックが絶対いやだと言っても、無理矢理水の中に引きずり込んでやるんだから。
「あ~あ、本当に甘いねアレクセイは」
ブレさんの呆れた声が聞こえて来たけれど、完全に無視した。アレックも図星をつかれて照れ臭いのか、聞こえないふりをしていた。