第98話
スローモーションを見ているようにブレさんの体が投げ出され、地面に叩きつけられる。
ブレさんの体にアレックが馬乗りにし、さらに殴ろうと拳を突き上げる。
考える暇もなく、私はアレックの右腕にしがみついた。
「駄目っ。お願い、アレック落ち着いて。ブレさんの話を聞いてあげて。お願いっ」
私を振りほどこうとするアレックに必死にしがみついて、大きな声で叫んだ。
「違うんだって、違う。ブレさんは、私を好きでもなんでもない」
「じゃあ、なんでキスなんかっ。お前は俺のだっ。他の誰もお前に触れることは許さない」
こんなに激しくアレックが怒り狂う姿を見るのは初めてだ。怒るだろうとは思っていたが、ここまでとは想像だにしていなかった。人一人殺せる勢いだ。
「そうだよ。私はアレックのものだよ。アレックのものでしかない。それに変わりはない。お願い、アレック。ブレさんの話を聞いてあげて」
私はアレックの頭から覆いかぶさるように抱き締めた。アレックの怒りがどうすれば治まるのか私には分からない。
抱き締めるしか術はなかった。
アレックの肩が上下に揺れている。怒りで興奮しているのだ。
落ち着いて、アレック。落ち着いて。誰も私をアレックから奪ったり出来ないんだよ。アレック、私はアレックだけが大好きなの。信じて。
そのようなことをずっとアレックにささやき続けていた。
本当に少しずつ、ゆっくりとアレックの怒りが静まっていくのを感じる。
アレックの両手が下から伸びてきて、私の背中に回った。
「もう大丈夫だ。突然殴りかかろうとは、恐らくしない」
良かった……。
普段のアレックの声のトーンに戻ったことに安緒した。
それと同時に、ブレさんの上にアレックが馬乗りになり、その上に私が覆いかぶさっていたことに気付く。
私をそのまま抱き抱え、ブレさんの拘束を解いて立ち上がると、冷たい眼差しを向けた。
「お前の話を聞く。ベンチに座れ」
ブレさんは、口の端に血を滲ませていたが、それ以外の代償はなかった。
指示どおりベンチに座るブレさんを見届けたあと、私を抱き抱えたまま少し距離をあけて、腰を下ろした。
私を膝の上に置き、腕は腰に回されている。
「アレック。私いないほうが良くない?」
アレックは沈黙のまま頭を横に振ると、ブレさんを促すように視線を向ける。
その視線は当然の如く冷え冷えとしている。
「俺は、アレクセイが好きだ。この気持ちは兄弟家族を思う気持ちではない。お前を抱きたいとさえ思う」
私は聞いていていいんだろうか。
そうは思うものの、アレックの腕はさらに力をまして、動くことすらままならない。仕方なくアレックの肩に頭を乗せて大人しくしていた。
なるべく聞かないようにと、思うけれどブレさんの声は無情にも私の耳に入って来てしまう。勿論、好奇心も伴ってあらがうことも出来ず、結局聞いてしまうのだ。
「そう信じていた。だから、その女が許せなかった。だが、罵倒する俺を、こんな性癖を持ち合わせている俺をその女は、ライバルと認めてくれた。俺自身を見ようとしてくれた」
ライバルだってそりゃ認めるよ。真剣にアレックを想っていることが、伝わってきたんだもの。いわば同士なのだから。無視できなかったんだ。自分も同じ気持ちだから。
「今日、ここで会う約束をしていたのは、アレクセイの幼い頃の話を聞かせる約束をしていたからだ」
頭のてっぺんにアレックの非難の眼差しを感じる。なんで俺に言わなかった、と言っているのだろう。
「俺がここに来たときには、池の中にいて、突然頭まで水の中に消えていったから、俺はてっきり自殺を図ったのかと思って必死で……。なのに呑気なことばっかり言って、楽しそうに笑って、俺の気も知らないで」
アレックの肩に頭を乗せているので、ブレさんの表情は見えないけれど、声の調子から余程心配させてしまったんだということを知る。
ここの人は、水に入る習慣がないから、水に入る=自殺と安易に考えたのだろう。私のことをよく知る人ならそんなことはないと、すぐに分かりそうなものだが、ブレさんは昨日初めて会ったばかりの人だから仕方ないと言えばそうなのかもしれない。
「眩しくて、輝いていて、愛おしくて、狂おしくて。気付いたら……」
「お前、マリィが好きなんだな?」
信じられないことを、落ち着いた様子であっさりと口にする。
「信じられない。自分でも信じられないんだ。俺はお前が好きだったんだ。ずっと、この想いに悩んできた。それなのに、昨日会ったばかりの女が気になって仕方ない。お前を想うのとはどこか違う。理性が抑えられなかった」
「お前が俺を想う気持ちは、家族へのものだ。長い間勘違いしていただけだ」
「そんなことはないっ」
「マリィのことを考えると幸せで、胸が苦しい。気付けば目でその姿を探していて、笑顔を向けられれば逆上せたように頭に血が上る。触れたくて、でも触れるのが怖くて。声が聞きたくて、ようもないのに声をかけたくなる。そんな風にならないか?」
「……なる」
「それが恋情だ」
ちょっ、ちょっ、ちょっ。
何勝手に変な風に話を進めているんだ。私がここにいるって忘れてんじゃないの?
おかしい、おかしい。二人とも変なことばっかり言っている。私のことは無視ですか?
「何を言っちゃってんのよ、二人とも。変なこと言わないでっ。ブレさんがそんな風に思っているはずないじゃない。あのキスは間接キスを狙ったものなのよ。そうでしょ? ブレさん」
話の腰を折ってはいけないと、二人の話が終わるまでは口を出さないと決めていたのに、話の方向性があまりにおかしいので、いてもたってもおれず、肩に隠していた顔を二人の間に突き出してそう言った。
「お前は黙っていろ」
アレックが私の顔を定位置に戻そうと頭のてっぺんから手で押し付けようとする。
させてなるかと必死に抵抗する私を見て、ブレさんが堪り兼ねたように吹き出した。
「ごめん、ごめん。つい」
同じタイミングで振り返り、ブレさんを睨み付けたからか、暫く笑い声が止まることはなかった。
笑われたことに多少腹も立ったが、こんな風に腹を抱えて笑うタイプの人には見えなかったので、少し嬉しい気持ちでもあった。
「ごめん。本当、なんか適わないな。マリィ、すまないが、先程アレクセイが言ったことは全て正しい。図星だ」
あの女、その女、お前。散々な呼ばれ方をされてきたけれど、ブレさんが私を名前で呼んでくれたのは、初めてだ。
「でも昨日は……」
昨日、ブレさんが話してくれた気持ちに嘘はなかった。そう断言できるんだ。
「マリィ。人が人を好きになるのにルールはないはずだ。確かにブレットは昨日までは俺を見ていたのかもしれない。だが、それよりも大きな、それをも押しつぶすほどの想いを見つけてしまうことだってあるんだ」
そんなこと言われても、突然ブレさんが私を好きだと言っても、私にその気持ちに応える隙間はない。私の心は隙間なくアレックで埋まっているのだから。
「うん。分かった。ブレさん、私……」
「おっと待て待て。お前の気持ちなんてはなから分かってるさ。追い打ちをかけるようなことはしないでくれ。何も望んじゃいない。悪かったな、あんなことして。勝手だが、普通に接してくれないか」
そんなに気持ちって割り切れるものなの?
そんな疑問が心を過ったけれど、私にしてあげられることは何もない。中途半端な優しさも、同情もブレさんを傷付けるため。
ブレさんが普通を望むなら、私はそれを実行しよう。