エピローグ:薔薇色の午後
金色の孔雀亭の一室に、甘い紅茶の香りが漂っていた。白蘭、曉蘭、ナターシャの三人が、窓際のティーテーブルを囲んでいる。珍しく来客のない静かな午後のひととき。
「このスコーン、本当に美味しいわ」
曉蘭が、優雅にナプキンで口元を押さえながら言った。ナターシャの手作りのスコーンは、サロンの隠れた名物だった。
「ありがとうございます。実は今日は特別なレシピで」
ナターシャが、わずかに頬を染めて答える。彼女は普段、厳かな雰囲気を漂わせているが、この二人の前では素直な表情を見せることができた。
白蘭は、そんな二人の様子を微笑ましく見つめていた。陽だまりに照らされた部屋で、大切な人々と過ごす穏やかな時間。これほど贅沢なものはない。
「あら、曉蘭の髪に花びらが」
白蘭は思わず手を伸ばし、曉蘭の黒髪に引っかかった桜の花びらを優しく取り除いた。窓辺に咲く桜の枝が、微風に揺られて花びらを舞い散らせている。
「ありがとう……」
曉蘭の頬が、わずかに紅潮する。白蘭の指先が触れた場所が、かすかに温かい。
ナターシャは新しい紅茶を注ぎながら、二人を温かな目で見つめていた。主従の関係を超えて、白蘭は彼女にとって大切な家族のような存在。そして曉蘭もまた、特別な存在になりつつあった。
「今日の紅茶は、フローラルな香りがとても素敵ね」
白蘭が言うと、ナターシャは嬉しそうに頷いた。
「ロシアから取り寄せた特別なブレンドです。バラの香りを基調に、ジャスミンとラベンダーを」
その言葉に、曉蘭が目を輝かせる。
「まるで、あなたが描く水墨画のような繊細さね」
白蘭の言葉に、曉蘭は照れたように視線を落とした。それを見たナターシャが、優しく微笑む。
「そうですね。曉蘭様の作品には、不思議な香りが漂っているように感じます」
ナターシャの真摯な感想に、曉蘭は嬉しそうな表情を見せた。
「私も、そう思うわ」
白蘭は立ち上がり、窓際に置かれた曉蘭の小さな水墨画に近づいた。それは、金色の孔雀亭の中庭を描いたもの。墨の濃淡が、不思議な芳香を感じさせる。
「ねえ、もっと近くで見せて」
曉蘭も立ち上がり、白蘭の隣に寄り添った。二人の肩が、かすかに触れ合う。
「ここの部分、特に素敵ね」
白蘭が指さした場所は、金色の孔雀が佇む様子を描いた部分。墨の滲みが、羽の輝きを見事に表現していた。
「実は、あの日のことを思い出しながら描いたの」
曉蘭の声が、囁くように優しい。
「あの日?」
「ええ。初めてここに来た日。白蘭さんが、私の作品を受け入れてくれた日」
その言葉に、白蘭の胸が温かくなる。
ナターシャは、そっとティーカップを二人の元に運んだ。
「温めなおしました」
その優しい気遣いに、白蘭は感謝の笑みを向けた。
「ナターシャ、あなたも一緒に」
白蘭が手を伸ばし、ナターシャの手を取る。その仕草には、深い信頼が込められていた。
三人は再びテーブルに着き、穏やかな会話を続けた。時折、指先が触れ合い、視線が交差する。それは決して意図的なものではなく、自然な親密さから生まれる接触だった。
「もうこんな時間」
曉蘭が、窓の外を見やった。夕暮れが近づいていた。
「今日は、素敵な時間をありがとう」
立ち上がろうとする曉蘭を、白蘭が優しく引き留めた。
「もう少し、このままでいましょう」
その言葉に、曉蘭もナターシャも小さく頷いた。誰もが、この穏やかな時間が終わることを惜しんでいた。
夕陽が部屋を赤く染めていく。三人の影が、壁に長く伸びる。
それは、金色の孔雀亭という特別な場所だからこそ許された、静かな幸福の時間だった。華やかな社交の場として知られるサロンでも、時にはこんな親密な時間が流れることがある。
白蘭は、この穏やかな空気の中で、誠二としての記憶すら優しく溶けていくのを感じていた。今、ここにいる自分。そして、大切な人々との確かな絆。
それは、どんな社会的地位や名声よりも、かけがえのない宝物だった。
「また、こうして集まりましょう」
白蘭の言葉に、二人は心から嬉しそうに頷いた。窓の外では、金色の孔雀が静かに羽を休めている。その姿もまた、この穏やかな時間を祝福しているかのようだった。
やがて月が昇り、部屋は銀色の光に包まれていく。それは、まるで時が止まったかのような、魔法めいた光景だった。
(了)