第三章:蒼い影の誘惑
白蘭は、深夜のサロンで一通の手紙を見つめていた。高級な斐紙に、達筆な中国語で記された文面。その署名には「青幇」の文字があった。
「お嬢様、それは……」
ナターシャが、心配そうに声をかける。
「ええ、租界で最大の秘密結社からの手紙よ」
白蘭は、静かに手紙を置いた。内容は明確だった。金色の孔雀亭での、アヘンの密売を持ちかけてきたのだ。
「断るわ」
迷いのない声で、白蘭は即答した。
「しかし、お嬢様。青幇は危険な相手です」
ナターシャの懸念は正しかった。青幇は租界の暗部で絶大な力を持つ組織。その誘いを断ることは、ある意味で宣戦布告に等しい。
「でも、受け入れるわけにはいかないわ」
白蘭は窓際に立ち、夜の租界を見下ろした。通りには、まばらな人影が行き交っている。その中に、どれだけの青幇の人間が紛れているのだろう。
(誠二として研究していた時も、青幇の存在は気になっていた)
租界における青幇の影響力は、表向きの権力構造とは別の次元で機能していた。フランス租界当局も、その存在を黙認せざるを得ないほどの力を持っている。
しかし。
「この場所は、芸術と文化の交流の場所。それ以外の何物でもないわ」
白蘭の決意は固かった。
翌朝、返書を出す準備をしていると、思いがけない来客があった。
「周先生」
入室してきた初老の男性は、租界きっての中医(漢方医)として知られる周徳全だった。しかし白蘭は、彼のもう一つの顔を知っていた。青幇の幹部の一人。
「マドモワゼル・バイラン、お手紙はお読みいただけましたか」
周の物腰は穏やかだったが、その目には鋭い光が宿っていた。
「私の答えは変わりません」
「残念です。このサロンは、とても理想的な場所なのですがね」
周は、ゆっくりとサロン内を見回した。
「立地もよく、様々な階層の人々が集まる。そして何より、当局の監視が比較的緩い」
「だからこそ、守らなければならないのです」
白蘭は毅然として答えた。
「この場所は、純粋な文化交流の場として存在すべきです。それ以外の目的に利用されることは、お断りします」
周の表情が、わずかに歪んだ。
「マドモワゼル、あなたは租界の現実を御存知ないようですね」
「いいえ、よく知っています」
白蘭は、誠二としての知識を総動員しながら話を続けた。
「青幇の、租界における役割も。フランス当局との微妙な力関係も。そして……アヘンが租界社会に与える影響も」
周の目が鋭く光った。
「なるほど。ただの若い女主人ではないようですね」
「ええ。だからこそ、はっきり申し上げます」
白蘭は一歩前に出た。
「この場所は、決して青幇の手には渡しません」
一瞬の沈黙。
周は、ゆっくりと立ち上がった。
「考え直す時間を差し上げましょう。三日後、再びお返事を伺います」
その言葉には、明確な脅しが込められていた。
周が去った後、白蘭は自室で考えを巡らせていた。青幇との対立は、できれば避けたかった。しかし、アヘンの密売を容認することは、自分の理想を裏切ることになる。
(どうすれば……)
その時、ノックの音が響いた。
「白蘭さん、お話があります」
曉蘭の声だった。彼女を招き入れると、意外な話を聞くことになった。
「実は、私の父が……かつて青幇と関係があったんです」
曉蘭の父は、若い頃にアヘン中毒に陥り、青幇の手先として働いていたという。しかし、ある医師の助けで更生。その後、画家として生き直したのだという。
「その医師が、父に教えてくれたんです。アヘンの恐ろしさを」
曉蘭の目には、悲しみの色が浮かんでいた。
「だから、私は……白蘭さんの決意を、心から支持します」
その告白は、白蘭の心に深く響いた。
次の日、スターリングが訪ねてきた。
「青幇の件、聞きました」
彼の表情には、深い憂慮の色が浮かんでいた。
「イギリス租界でも、彼らの影響力は無視できない存在です。しかし」
スターリングは、真摯な表情で続けた。
「あなたの決意が正しいことは、間違いありません。私にできることがあれば」
「ありがとう、ジェームズ」
白蘭は、彼の申し出に心を打たれた。しかし、これは自分で解決しなければならない問題だった。
その夜、白蘭は林昊を呼び出していた。
「青幇について、あなたの意見を聞かせてください」
林は、複雑な表情で答えた。
「彼らは、租界の闇を支配する存在。しかし同時に、中国の伝統的な相互扶助の精神も持ち合わせている」
「それは、どういう意味?」
「つまり……交渉の余地があるということです」
林の言葉は、白蘭に新しい視点を与えた。
三日後、周が再び訪れた時、白蘭は準備を整えていた。
「お返事は決まりましたか?」
「ええ。ですが、その前に、あなたに見ていただきたいものがあります」
白蘭は、周を展示室に案内した。そこには、曉蘭の新作が飾られていた。アヘン中毒者の苦悩を描いた連作だ。
「これは……」
周の表情が、僅かに動揺を見せる。
「芸術には、人の心を動かす力があります」
白蘭は静かに語りかけた。
「この場所は、そんな芸術の力を信じる場所なのです。だから」
白蘭は、周の目をまっすぐ見つめた。
「代案を提案させてください」
「代案?」
「はい。金色の孔雀亭を、更生施設との橋渡しの場所として使っていただけないでしょうか」
周の目が見開かれた。
「アヘン中毒に苦しむ人々を、芸術によって救う。そのための文化プログラムを、ここで展開するのです」
白蘭は、さらに具体的な提案を続けた。
「もちろん、表向きはサロンとしての体裁を保ちます。しかし、その活動の一環として、中毒者の社会復帰支援も行う」
周は、長い沈黙の後で口を開いた。
「興味深い提案です。しかし、組織の利益は?」
「現在、アヘンの密売で得ている利益の一部を、合法的な形で還元できます。更生施設の運営資金として」
白蘭は、林から得た情報を基に計算を示した。確かに短期的な利益は減る。しかし、長期的には組織の社会的評価を高めることができる。
「そして何より」
白蘭は、最後の切り札を出した。
「これは、青幇の伝統的な相互扶助の精神に適った活動ではないでしょうか」
周の表情が、急に柔らかくなった。
「なるほど。マドモワゼル、あなたは本当に恐ろしい方です」
それは、称賛と警戒が入り混じった言葉だった。
「考えさせていただきましょう」
周は、そう言って立ち去った。
一週間後、正式な返事が届いた。青幇は、白蘭の提案を受け入れることを決めたのだ。
「よかった」
ナターシャが、胸を撫で下ろす。
「いいえ、これは始まりに過ぎないわ」
白蘭は、窓の外を見やった。租界の街並みが、夕陽に照らされて輝いている。
「私たちは、光の中にいても、影の存在を忘れてはいけない」
それは、誠二として研究していた時から感じていた思いだった。租界という空間は、光と影が複雑に交錯する場所。その両方を理解し、しかも理想を失わないこと。それこそが、自分に課された使命なのかもしれない。
中庭では、金色の孔雀が静かに羽を休めていた。その姿は、まるで白蘭の決意を見守っているかのようだった。
その夜、白蘭は日記にこう記した。
『時として、闇と向き合うことは、光を守ることに繋がる。そして、その選択こそが、私たちの生きる租界の真実なのかもしれない』
ペンを置き、白蘭は深いため息をついた。これから始まる新しい試みが、どんな結果をもたらすのか。それは誰にもわからない。
しかし、一つだけ確かなことがある。
自分は、決して理想を見失わない。
金色の孔雀亭という、小さな光を守り続けるために。