幕間 - 移ろう心の色
曉蘭は、金色の孔雀亭の二階にある小さな作業部屋で、個展の準備を進めていた。窓から差し込む夕暮れの光が、水墨画の濃淡をより深く見せている。
「今日も遅くまでお努めですね」
白蘭の声に、曉蘭は思わず筆を取り落としそうになった。
「あ、白蘭さん……」
部屋に漂う墨の香りに、白蘭の香水の甘い芳香が混ざる。その瞬間、曉蘭の心臓が奇妙な鼓動を打った。これは最近、頻繁に感じるようになった感覚だった。
「新作は順調?」
白蘭は、曉蘭の傍らで作品を覗き込む。その姿勢で、白蘭の長い髪が曉蘭の肩にそっと触れた。花の香りが、さらに強くなる。
「え、ええ。でも、まだ……」
言葉が上手く続かない。以前は、こんなことはなかった。白蘭と出会った当初、彼女への想いは純粋な尊敬だった。伝統と革新の狭間で苦悩する自分を理解し、支援してくれる恩人。それは、まるで暗闇に差し込む一筋の光のような存在だった。
しかし、いつからだろう。
その尊敬の念に、別の感情が混ざり始めたのは。
「この部分、素晴らしいわ」
白蘭が指さしたのは、画面の端に描かれた小さな流水文様。伝統的な文様を、大胆な構図で再解釈したものだった。
「本当に?」
曉蘭は嬉しさで頬が熱くなるのを感じた。白蘭の言葉は、いつも彼女の自信を支えてくれる。しかし最近は、その言葉に胸が痛むような甘い切なさも感じるようになっていた。
「ええ。あなたの才能は、本物よ」
白蘭は優しく微笑んだ。その表情に、曉蘭は思わず見とれてしまう。白磁のような肌。黄浦江の色を映したような瞳。夕陽に照らされて、より一層神秘的な輝きを放つ金色の髪。
(ああ、こんな風に見つめてはいけない)
曉蘭は慌てて視線を落とした。しかし、白蘭への想いは、水墨画の滲みのように、確実に広がっていく。
白蘭は、そんな曉蘭の複雑な感情に気付いていた。時折投げかけられる熱のこもった視線。言葉につまる瞬間。そして、その繊細な感性が作品に込められる様子。
(私にも、同じような想いがあるのかもしれない)
しかし白蘭は、その想いを表に出すことはできなかった。今は、二人の関係を守らなければならない。芸術家と支援者という、デリケートな関係を。
「そろそろ休憩にしましょう」
白蘭は、テーブルにアールグレイを注ぎながら言った。
「ありがとうございます」
曉蘭がカップを受け取る時、指が触れ合う。一瞬の接触に、二人とも言葉を失う。
窓の外では、金色の孔雀が静かに佇んでいた。夕陽に照らされた羽は、まるで二人の胸の内を映すかのように、微かに揺れている。
その夜、曉蘭は自室で日記を書いていた。
『今日も、白蘭さんは優しかった。でも、その優しさが、時として残酷に感じる。この想いを、どこに隠せばいいのだろう。筆を執れば、自然と白蘭さんの姿が浮かんでくる。描けば描くほど、この気持ちは強くなるばかり』
一方、白蘭も自室で思いを巡らせていた。
(曉蘭の才能は、この想いがあるからこそ輝くのかもしれない)
確かに、最近の彼女の作品には、これまでにない情感が宿っている。伝統的な技法の中に、強い感情の起伏が垣間見える。それは紛れもなく、愛の表現だった。
しかし。
(私には、スターリングという存在も)
そして何より。
(私は本当に、白蘭なのだろうか)
誠二としての記憶が、時として重くのしかかる。それは単なる性別の問題ではない。自分のアイデンティティそのものへの問いかけだった。
翌朝、二人は普段通り挨拶を交わした。表面上は、何も変わらない関係。しかし、その平穏な空気の下で、二つの心は確実に、そして静かに、寄り添うように震えていた。
中庭では、金色の孔雀が羽を広げ、朝日に輝いている。その姿は、まるで二人の秘めた想いを見守るかのようだった。