第二章:愛と芸術の交差点
陳曉蘭の個展準備は、着々と進んでいった。白蘭は、サロンの一室を完璧な展示空間へと作り変えていく過程を、建築家としての目で見守っていた。
「この壁の色は、もう少し明るめにしましょう」
職人たちは、白蘭の指示に従って作業を進める。壁の色一つにも、曉蘭の作品を最も美しく見せるための計算が込められていた。
そんなある日、予期せぬ来客があった。
「ジェームズ・スターリング氏がお見えです」
先日の開業パーティーで出会った、イギリス領事館付きの建築家だ。白蘭は、応接室で彼を迎えた。
「マドモワゼル・バイラン、お時間を頂き、ありがとうございます」
スターリングは、紳士的な物腰で挨拶をした。しかし、その表情には何か切迫したものが感じられた。
「実は、相談があってお伺いしたのです」
彼は、カバンから一枚の図面を取り出した。
「これは……?」
「新しい図書館の設計案です。実は、領事館の中に、東洋文化研究のための図書館を作る計画があるのです」
白蘭は、図面に見入った。クラシカルなイギリス様式の中に、中国の伝統的な要素を取り入れようとする意図が見て取れる。しかし、その調和は十分とは言えなかった。
「率直に申し上げて、この設計には助言が必要です。そして、マドモワゼルほど適任の方はいないと思いました」
白蘭は、静かに頷いた。
「光栄です。できる限りの協力をさせていただきます」
それは単なる社交辞令ではなかった。この図書館計画には、大きな可能性が秘められていた。東洋文化研究の拠点として、租界における文化交流の新しい場となり得るのだ。
陽が傾きはじめた応接室で、白蘭とスターリングは図面に向かっていた。窓から差し込む夕陽が、真新しい青焼き図面にほのかな影を落としている。
「この回廊の処理について、私は少し気になっているんです」
スターリングが、優雅な指使いで図面の一角を指す。イギリス式の図書館に特徴的な回廊式の書架スペースだ。
「ここに中国伝統の要素を組み込むのは、確かに難しいわね」
白蘭は、髪を軽く掻き上げながら考え込んだ。誠二としての建築史の知識が、次々と可能性を示唆していく。
「でも、この部分を……」
白蘭が図面に鉛筆を走らせる。かつて研究していた蘇州古典園林の空間構成の技法を、図書館の回廊に応用していく。
「まるで、庭園の回遊式建築のように、視線の抜けと空間の重なりを作り出すの」
スターリングの瞳が輝いた。
「素晴らしい! これなら、グレゴリアン様式の重厚さと、中国建築の繊細さが見事に調和します」
彼の声には、純粋な感動が滲んでいた。白蘭は、その反応に密かな喜びを覚える。
「ここの採光も、もう少し工夫できるかもしれません」
スターリングが身を乗り出してきた。その仕草で、彼の整えられたスカーフから、かすかに石鹸の香りが漂う。白蘭は、それを意識しないように努めた。
「ええ、この天窓の配置を……」
二人の手が、図面の上で偶然に触れる。一瞬の静寂が、部屋を満たった。
スターリングは、慌てたように手を引っ込めた。しかし、その仕草には不自然さはなく、むしろ紳士的な配慮が感じられた。
「申し訳ありません」
「いいえ」
白蘭は、さも何でもないかのように図面に向き直る。しかし、心臓の鼓動は確かに早くなっていた。
(これは、誠二の心? それとも白蘭の心?)
夕暮れの光が深まり、部屋の空気が紅く染まっていく。二人は、その不思議な空気に包まれながら、図面への書き込みを続けた。
「この書架の配置についても……」
専門的な議論は続いていく。しかし、そこには確実に、何か別のものが混ざり始めていた。建築という客観的な対象を通して、二人の心が少しずつ、確実に近づいていくような。
「ここの空間の使い方が、とても興味深いですね」
スターリングは、白蘭の提案に目を輝かせた。彼女の建築に対する深い理解は、彼を驚かせ続けていた。
「マドモワゼル、あなたはいったい……」
その時、応接室のドアが開いた。
「お嬢様、林様がお見えです」
スターリングは、わずかに表情を硬くした。
「失礼、長居してしまいました」
彼は急いで図面を片付け始めた。その様子に、白蘭は何か引っかかるものを感じた。
スターリングが去った後、林が入室してきた。
「図書館の計画ですか」
彼は、まだ机の上に残された図面の端を見ていた。
「ええ。でも、まだ準備段階の話です」
白蘭は冷静に応えた。林の表情からは、何も読み取ることができない。
「興味深いプロジェクトですね。租界における『文化交流』の新しい形として」
その言葉には、皮肉めいたものが込められているように感じられた。
「ところで」
林は話題を変えた。
「談話会の件、ご承諾いただき、ありがとうございます。ただ、一つ気になることが」
「公開制についてですか?」
「はい。デリケートな話題も出る可能性があります。それを公開の場で議論することは……」
「むしろ、だからこそ公開すべきではないでしょうか」
白蘭は、真摯な表情で林を見つめた。
「租界の未来を語るのなら、それは一部の人々だけのものであってはならないと思います」
林は、長い沈黙の後で頷いた。
「なるほど。マドモワゼルの言う通りかもしれません」
その夜、白蘭は特別な来客を迎えていた。
「本当に素敵な場所ね」
エレガントなイブニングドレスに身を包んだ女性が、サロンの内装を見渡していた。アイリーン・ウォンは、香港の実業家の娘で、現在は租界で独自の芸術活動を展開していた。
「アイリーン、来てくれて嬉しいわ」
二人は、開業前からの知己だった。アイリーンは、白蘭の計画に最初から理解を示してくれた数少ない人物の一人だった。
「ところで、噂は本当? 陳曉蘭の個展を開くって」
白蘭は頷いた。
「ええ。彼女の才能は素晴らしいわ」
「でも、リスキーな選択よね。彼女の作品は、かなり実験的だもの」
「それこそが、私がこの場所で実現したいことなの」
アイリーンは、意味ありげな笑みを浮かべた。
「あなた、本当に面白い人ね。表面上は上品なサロンを営みながら、その実、租界の文化に革命を起こそうとしている」
「革命? そんな大げさなものじゃないわ」
「いいえ、まさにそうよ。私にはわかる」
アイリーンは、グラスのシャンパンを優雅に傾けながら続けた。
「芸術を通じて、人々の意識を変えていく。それこそが、最も静かで、最も確実な革命じゃないかしら」
その言葉に、白蘭は深い共感を覚えた。
「でも、気を付けて。あなたの試みは、必ずしも歓迎されないかもしれない」
「それは覚悟の上よ」
白蘭は窓の外を見やった。夜の租界が、幻想的な光を放っている。
「ところで」
アイリーンが、少し声を落として言った。
「林昊のことは、気を付けた方がいいわ」
「何か知っているの?」
「彼、表向きはジャーナリストだけど、実は……」
その時、サロンのドアが開いた。
「お嬢様、チェン様がお見えです」
アイリーンは言葉を切り、優雅に立ち上がった。
「私そろそろ失礼するわ。また来るから」
彼女は去り際に、意味ありげな視線を投げかけた。
チェンは、いつもの落ち着いた様子で入室してきた。
「マドモワゼル・バイラン、お邪魔します」
しかし、その表情には何か切迫したものが感じられた。
「実は、林昊の談話会について、お話ししたいことが」
チェンは、周囲を警戒するように見回してから、声を落として続けた。
「彼の真の意図を、お話ししなければなりません」
白蘭は、静かに耳を傾けた。チェンの告げる事実は、租界の表面的な平穏の下で渦巻く緊張を如実に物語っていた。林昊は単なるジャーナリストではなく、ある政治組織の重要人物だった。そして、その組織は租界の現状を変えようとしていた。
「談話会も、その一環なのです」
チェンは、疲れたように溜め息をついた。
「私は、穏健な改革を望んでいます。しかし、彼らは……」
白蘭は、じっと考え込んだ。確かに、これは危険な状況かもしれない。しかし……
「チェンさん、談話会は予定通り開催させていただきます」
「しかし!」
「ただし、より多様な立場の人々に参加していただくことで、バランスを取りたいと思います」
白蘭は、毅然とした態度で言った。
「これは、平等な対話の場であるべきです。一方的な主張の場であってはならない」
チェンは、長い沈黙の後で頷いた。
「あなたの判断に従いましょう。ただ、くれぐれも……」
その言葉は、優しい忠告であると同時に、警告でもあった。
チェンが去った後、白蘭は中庭に出た。月明かりの下で、金色の孔雀が静かに佇んでいる。
(私は正しい選択をしているのかしら)
誠二としての知識が、この時代の複雑さを痛いほど理解していた。しかし、だからこそ。
「対話の場所を守り続けなければ」
孔雀が、静かに鳴いて応えた。
翌朝、白蘭は早くから曉蘭の個展準備に取り掛かった。展示室の照明を最終調整していると、スターリングが訪ねてきた。
「図書館の件で、新しい提案があります」
スターリングは恭しく図面を広げた。真新しい青写真が、朝の光を受けて淡く輝いている。白蘭は思わず息を呑んだ。
「これは……」
図面には、白蘭のすべての提案が見事に組み込まれていた。まず目を引いたのは、エントランスホールの大胆な改修だ。従来のネオ・クラシカルな様式を保ちながら、天井部分に中国の伝統的な藻井天花を取り入れている。八角形の装飾が幾重にも重なり、まるで天空から光が降り注ぐような錯覚を与えるはずだった。
「この天井の処理、素晴らしいわ」
白蘭は図面に指を這わせながら、細部を確認していく。
メインリーディングルームでは、イギリス伝統の木製書架を残しながら、その配置を変更していた。書架と書架の間に小さな中庭を設け、そこに盆栽や水石を配置する計画だ。自然光を取り入れる天窓と相まって、静謐な読書空間を作り出すはずだった。
「この中庭の意匠、私の説明以上のものを」
「ええ、あなたのアイデアに触発されて」
スターリングの声には、かすかな誇りが混ざっていた。
図書館の中心となる円形読書室は、最も大きな変更が加えられていた。古典的なドーム型の天井は残しつつ、その下に中国の伝統的な軒の形状を模した層を設けることで、東西の建築様式の見事な調和を実現している。
白蘭は、誠二としての建築史の知識を総動員して、細部まで目を通していく。柱の装飾、窓の配置、そして動線の設計。すべてが綿密に計算され、しかも美しく調和していた。
「この装飾の文様」
白蘭が気づいたのは、柱や梁に施された装飾模様だった。一見、西洋的な唐草模様に見えるが、よく見ると、その中に中国の伝統的な雲紋が巧妙に織り込まれている。
「ええ、あなたがおっしゃった『見えない融合』を意識してみたんです」
スターリングの声が、急に柔らかくなった。
「建築は、時として物語を語ることができる。そう教えてくださいましたから」
白蘭は、図面から目を上げた。スターリングの瞳には、純粋な情熱が宿っていた。それは、単なる建築家としての誇りを超えた、何かもっと深いものを感じさせた。
「本当に素晴らしい仕事ね、ジェームズ」
白蘭の言葉に、スターリングの頬がわずかに赤らんだ。
「これなら……」
白蘭が言葉を続けようとした時、スターリングが突然、彼女の手を取った。
「マドモワゼル、あなたは本当に素晴らしい方です」
その瞳には、純粋な感動と、そしてそれ以上の何かが浮かんでいた。
「私は……」
しかし、その言葉は中断された。展示室のドアが開き、曉蘭が入ってきたのだ。
「あ、ごめんなさい。邪魔をして」
彼女は、慌てて後ずさりしようとした。
「いいえ、どうぞ」
白蘭は、冷静に手を離した。スターリングは、わずかに赤面しながら図面を片付け始める。
「では、また改めて」
彼が去った後、曉蘭は複雑な表情で白蘭を見つめていた。
「素敵な方ですね」
その言葉には、何か切ないものが込められていた。白蘭は、曉蘭の表情に心を揺さぶられる。
(ああ、これは……)
白蘭は、自分の中に芽生えた感情に戸惑いを覚えていた。スターリングへの知的な共感。そして曉蘭への切ない想い。それは、誠二として、そして白蘭としての両方の感情が絡み合ったものだった。
しかし今は、その感情を深く考えている暇はなかった。談話会まで、あと三日。そして曉蘭の個展まで、一週間。
白蘭は、深く息を吸い込んだ。
「展示の準備を続けましょう」
曉蘭は、小さく頷いた。二人は、それ以上何も語らずに作業を再開した。しかし、その沈黙の中には、言葉以上のものが満ちていた。
その日の夕方、白蘭は林昊からの手紙を受け取った。談話会の参加予定者リストが、大きく変更されていた。チェンの名前は消え、代わりに新しい名前が並んでいる。
(状況が動き始めているわ……)
白蘭は、窓辺に立って手紙を読み返した。夕陽に照らされた租界の街並みが、まるで燃えているように見えた。