第一章:孔雀亭の誕生
フランス租界当局との会議は、予想以上にスムーズに進んだ。
「マドモワゼル・バイラン、あなたの構想は素晴らしい」
租界行政長官のデュボワは、満足げに頷いていた。白蘭は、フランス語で丁寧に返答する。
「ご理解いただき、ありがとうございます」
会議室の窓からは、工事が始まったばかりの建物が見えた。かつての古い洋館を改装し、新しいサロンへと生まれ変わらせる計画だ。誠二の建築史の知識を活かし、東西の様式を見事に調和させた設計は、当局の建築家たちからも高い評価を得ていた。
「特に、この中庭のデザインは秀逸ですね」
建築家のモーリスが、図面に見入りながら言う。中国の伝統的な庭園様式に、アール・デコの要素を取り入れた大胆な設計。その中心には、金色の孔雀をモチーフにした噴水が配置される予定だった。
会議を終えた白蘭は、工事現場に足を運んだ。職人たちが忙しく働く中、彼女は現場監督と細かな打ち合わせを行う。
「この部分の装飾は、もう少し控えめにしましょう」
白蘭の指示は的確で、現場の職人たちも次第に彼女の審美眼を信頼するようになっていた。
そんな彼女の姿を、通りの向かいから一人の男性が興味深そうに見つめていた。スーツの襟から覗く白いスカーフが印象的な、初老の紳士。白蘭は、その存在にすぐに気付いていた。
「マダム・バイラン、お話してもよろしいでしょうか」
男性は流暢な中国語で話しかけてきた。
「ヴィクトル・チェン先生。お噂はかねがね伺っております」
白蘭も中国語で応える。チェンは、租界で最も影響力のある中国人実業家の一人だった。彼の支持を得られれば、サロンの成功はより確実なものとなるだろう。
「若き淑女が、こうして大きなプロジェクトを率いているのは珍しい光景です」
チェンの言葉には、好奇心と警戒心が混ざっていた。
「時代は変わりつつあります。私たちの租界も、新しい風を必要としているのではないでしょうか」
白蘭の返答に、チェンは意外そうな表情を浮かべた。
「なるほど。では、このサロンはその『新しい風』を起こすための場所というわけですか」
「はい。芸術と文化の交流の場として、そして……」
白蘭は一瞬言葉を切り、チェンの反応を確かめた。
「そして、新しい可能性を探る場所として」
チェンは長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「面白い。私も、開業後は常連となることを楽しみにしていますよ」
その言葉は、暗黙の支持表明だった。白蘭は丁寧にお辞儀をする。
「心より歓迎させていただきます」
チェンが去った後、白蘭は再び工事現場を見上げた。まだ骨組みだけの建物が、夕暮れに影を落としている。
(ここから、何が始まるのかしら)
その答えは、まだ誰にもわからなかった。
その日の夜、白蘭は自室で日記をつけていた。誠二の時代から続く習慣だ。机の上のランプが、優しい光を投げかける。
「新しい風……か」
自分で言った言葉を、もう一度噛みしめる。確かにこの時代、租界は大きな変革期を迎えていた。欧米列強の影響力が依然として強い一方で、中国ナショナリズムの台頭も無視できない。その狭間で、文化的な融合の可能性を探ることは、決して簡単な道のりではないだろう。
しかし、それこそが自分の役割なのかもしれない。誠二として培った歴史的な視点と、白蘭として持つ社会的な立場。その両方を活かして、新しい価値を生み出していく。
白蘭は、机の引き出しから一枚の写真を取り出した。開発中の孔雀亭の模型写真だ。東西の様式が見事に調和した外観。中庭の噴水。そして、随所に散りばめられた孔雀のモチーフ。
(この建物には、魂が宿るわ)
そう確信していた。なぜなら、この設計の一つ一つに、深い意味が込められているのだから。
例えば、正面玄関のステンドグラス。そこには、東洋の鳳凰と西洋の孔雀が向かい合う姿が描かれている。それは単なる装飾ではなく、文化の融合を象徴する重要なモチーフだった。
白蘭は、写真を机に置き、窓の外を見つめた。租界の夜景が、宝石をちりばめたように輝いている。その光の中に、新しい時代の予感があった。
そして約一ヶ月後、金色の孔雀亭は華々しくその扉を開いた。
開業初日から、サロンには様々な顔ぶれが集まっていた。フランス租界の行政官たち、中国人実業家、各国の外交官、そして芸術家たち。白蘭は、優雅に立ち振る舞いながら、一人一人と言葉を交わしていく。
「この建物の設計は、本当に素晴らしいですね」
イギリス領事館付きの建築家、ジェームズ・スターリングが感嘆の声を上げる。
「ありがとうございます。東西の建築様式の調和を意識しました」
「特に興味深いのは、この部分の処理ですわ」
白蘭は、優雅な仕草で設計図の一部を指さした。サロンの大階段の設計図面だ。
「バロック様式の装飾的な手すりの曲線美を基調としながら、そこに中国伝統建築の『如意』の文様を織り込んでいます。一見すると純粋な西洋建築に見えるかもしれませんが……」
白蘭は微笑みながら、手すりの装飾部分を指でなぞった。
「よく見ると、曲線の端々に古来の雲紋が見え隠れするでしょう? これは17世紀のイエズス会建築家たちが中国で試みた手法を、現代的に解釈し直したものなんです」
スターリングは息を呑んだ。彼は図面に顔を近づけ、その細部を凝視する。
「まさか……これはアダム・シャール・フォン・ベルの南堂の意匠を参考に?」
「ええ、ご存知だったのですね」
白蘭の目が輝いた。
「ただし、南堂ではイエズス会様式が主体で東洋的要素が控えめでした。私はむしろ、マテオ・リッチの南京教会堂で試みられた、より大胆な東西融合を目指したかったの」
スターリングは、ますます興奮した様子で言葉を継いだ。
「そういえば、マカオのセント・ポール教会でも……」
「ええ、その通り!」
白蘭は嬉しそうに相づちを打った。
「ドメニコ・レンゾが試みた東西の建築言語の対話。あの大胆な実験は、私たちにも大きな示唆を与えてくれます」
白蘭はさらに図面の別の部分を指さした。
「そして、これをご覧になって」
中庭の設計図だ。
「蘇州園林の『借景』の手法を用いながら、それをアール・デコの幾何学的な構成に溶け込ませています。伝統的な中国庭園では視線の流れを重視しますが、それを西洋的な軸線構成と組み合わせることで……」
スターリングの目が見開かれていく。彼の表情には、驚きと感嘆が入り混じっていた。
「これは……驚くべき見識です。一体どこでこのような……」
その言葉は、明らかに建築の専門家としての尊敬の念に満ちていた。
白蘭は、かつて誠二として歴史建築の研究に没頭した日々を思い出していた。その知識が、今、まったく新しい形で花開こうとしている。
「建築は、私たちの時代を映す鏡なのです」
白蘭は静かに言った。
「そして今、私たちは新しい時代の建築言語を生み出そうとしている。東洋と西洋の、過去と未来の、対話の場として」
スターリングは、一瞬言葉を失った。その瞳には、純粋な知的興奮と、そしてそれ以上の何かが宿っていた。
サロンの中央では、若い女性画家、陳曉蘭が即興で水墨画を描いていた。その横では、フランス人のジャズミュージシャンが演奏を始める。東洋と西洋の芸術が、自然に交わっていく。
白蘭は、その光景を満足げに見つめていた。これこそが、自分が思い描いていた空間だった。しかし、その瞬間。
「マドモワゼル・バイラン」
背後から、落ち着いた声が聞こえる。振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。
切れ長の目。整った顔立ち。スーツの下に覗く中国式のチャイナカラーが、彼のアイデンティティを物語っている。
「私は林昊と申します。上海日報の記者をしております」
白蘭は、その名前にピンと来た。林昊は、租界の文化人サークルで影響力を持つジャーナリストとして知られていた。しかし、その実態は謎に包まれている。誠二の知識によれば、彼は某政治結社と繋がりがあるとも噂されていた。
「ようこそ、林様。私のつたない試みにご興味を持っていただき、光栄です」
白蘭は、完璧な中国語で応える。林の目が、わずかに細められる。
「マドモワゼルの中国語は、本当に見事ですね。まるで母国語のようです」
その言葉に、白蘭は微笑みを返した。
「中国文化への愛着が、私にそう話させるのかもしれません」
林は、サロン内を見渡しながら言った。
「このサロンには、不思議な魅力がありますね。まるで……租界という特別な空間の、本質を体現しているかのように」
その洞察の鋭さに、白蘭は内心で驚きを覚えた。林は単なるジャーナリスト以上の何かだった。
その時、サロンの入り口に新しい来客の姿が見えた。
「ああ、エドワード卿がいらしたわ。失礼いたします」
白蘭は林に軽く頭を下げ、イギリス領事館の高官、エドワード・ブレイクウェルに向かって歩み寄った。
「マドモワゼル・バイラン、素晴らしいサロンですね」
ブレイクウェルは紳士的な笑みを浮かべる。40代後半の彼は、租界における英国の利権を守る重要な立場にいた。
「お褒めの言葉、光栄です」
白蘭が応える間も、彼女の目は林の動きを追っていた。林は今、チェンと言葉を交わしている。二人の表情には、どこか緊張感が漂っていた。
(興味深いわ……)
白蘭は、誠二としての直感が呼び覚まされるのを感じていた。租界の表面的な華やかさの下で、何かが動き始めているようだった。
開業パーティーは深夜まで続いた。最後の客が去った後、白蘭は疲れた体を椅子に沈めた。
「お疲れ様です、お嬢様」
ナターシャが、温かい紅茶を差し出す。
「ありがとう。今夜は、予想以上に充実した夜だったわ」
確かに、サロンとしての船出は上々だった。しかし、それ以上に重要な何かを感じ取っていた。租界の権力者たち、文化人たち、そして水面下で動く者たち。彼らの思惑が、この場所に集まり始めているのだ。
翌朝、白蘭は早めに目覚めた。朝もやの中、中庭の金色の孔雀が優雅に羽を広げている。
「おはよう」
白蘭が声をかけると、孔雀は首を傾げて彼女を見つめた。その瞳には、どこか人間的な知性が宿っているように見えた。
朝食を取りながら、白蘭は昨夜の出来事を整理していた。特に気になっていたのは、林とチェンの関係だ。表面上は、ジャーナリストと実業家という単純な関係に見えた。しかし……
(二人の間には、もっと深い繋がりがあるはず)
白蘭の思考は、突然の来客によって中断された。
「お嬢様、陳曉蘭様がお見えです」
昨夜、水墨画を披露した若い画家だ。白蘭は、応接室で彼女を迎えた。
「昨夜は素晴らしい作品を、ありがとうございました」
陳曉蘭は、はにかむように微笑んだ。二十代前半の彼女は、伝統的な水墨画に新しい感性を吹き込む新進気鋭の画家として注目を集めていた。
「いいえ、私こそ感謝しています。このような場所を提供してくださって」
彼女は言葉を選びながら続けた。
「実は、お願いがあってお伺いしたんです」
「ええ、どうぞ」
「私、このサロンで個展を開かせていただけないでしょうか? 伝統的な水墨画と、西洋的な要素を組み合わせた新しい試みを……」
その言葉に、白蘭の目が輝いた。
「素晴らしいわ! ぜひ実現させましょう」
それは、まさに白蘭が望んでいた企画だった。
東西の芸術の融合。そして、若い才能の支援。
「本当ですか?」
曉蘭の表情が、喜びに満ちた。しかし、すぐに不安げな表情を見せる。
「でも、私の作品は……少し物議を醸すかもしれません。伝統的な水墨画の世界では、まだ理解されていなくて」
白蘭は、優しく微笑んだ。
「ここは、新しい可能性を探る場所よ。物議を醸すことを恐れる必要はないわ」
その言葉に、曉蘭の目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます」
二人は、具体的な展示の計画を話し始めた。白蘭は、曉蘭の芸術への情熱に心を打たれていた。そして、この出会いが何か大きなものの始まりになる予感がしていた。
その日の午後、白蘭は林昊からの手紙を受け取った。
「サロンでの談話会を企画したい」
そう書かれていた。テーマは「租界文化の未来」。参加者には、チェンを始めとする中国人知識人たちの名前が連ねられていた。
(面白い提案だわ)
白蘭は、すぐに返事を書いた。承諾の意を伝えながら、いくつかの条件を付け加える。
「談話会は公開とし、様々な立場の人々が参加できるようにしたい」
それは、一つの賭けだった。しかし、この場所が本当の意味での文化交流の場となるためには、必要な一歩だと信じていた。
夕暮れ時、白蘭は再び中庭に出た。金色の孔雀が、静かに彼女の傍らに寄り添う。
「私たち、面白い時代に生きているのね」
孔雀は、まるで理解したかのように鳴いた。
その夜、白蘭は再び日記をつけながら考えを整理していた。
(芸術家と政治家。東洋と西洋。伝統と革新。この場所は、そのすべてが交差する点となるのかもしれない)
そして、その交差点に立つ自分の役割とは何なのか。白蘭は、ペンを走らせながら、その答えを探し続けていた。