序章:転生と目覚め
一瞬の閃光と、激しい衝撃。
それが、澄倉誠二の最期の記憶だった。
「お嬢様! お目覚めですか?」
柔らかな声が、意識を現実へと引き戻す。まぶたの奥に残る光の残像が、ゆっくりと薄れていく。
誠二は……否、今や白蘭は、優しく揺れるレースのカーテンの向こうに、上海の朝もやを見つめていた。窓の外では、租界の街並みが徐々にその姿を現していく。クリーム色の洋館が建ち並ぶ通りには、早くも人々の往来が始まっていた。
「ああ、ナターシャ。もう朝なのね」
自分の声の柔らかさには、まだ違和感があった。19歳の美しい混血の娘、白蘭としての記憶と、33歳の男性研究者だった記憶が、まるで二重露光の写真のように重なり合う。
メイドのナターシャは、ロシア革命を逃れてきた貴族の末裔だった。彼女は銀のティーポットからアールグレイを注ぎながら、心配そうに白蘭を見つめる。
「昨夜はまた、あの不思議な夢を見られたのですか?」
白蘭は紅茶の香りを深く吸い込んだ。甘い柑橘の香りが、混乱する思考を少しずつ整理していく。
「ええ。でも、もう大丈夫よ」
それは嘘ではなかった。転生してから一週間、白蘭は次第にこの新しい人生に順応していっていた。むしろ、これは研究者としての誠二の夢が叶った瞬間だったのかもしれない。
1920年代の上海租界。
誠二が最も深く研究していた時代に、直接触れることができるのだから。
窓の外で、孔雀の鳴き声が響く。
「あら、今朝も早いのね」
屋敷の中庭で飼われている孔雀たちは、白蘭の大切な家族だった。特に、金色の羽を持つ異形の孔雀は、まるでこの屋敷の守護神のような存在だった。
ナターシャが、今日のスケジュール表を手渡す。
「本日午後には、フランス租界の新しいサロンの開設について、行政当局との打ち合わせがございます」
白蘭は頷きながら、アールデコ調の優美な鏡台の前に腰を下ろした。そこに映る自分の姿に、研究者だった記憶が密やかな戸惑いを覚える。
朝日に照らされた鏡の中で、白磁のような透明感のある肌が柔らかく輝いていた。誠二の記憶は、その繊細な質感に科学的な興味すら感じる。まるで上質な磁器のように、光を内側から発しているかのような白さ。それは、ロシアの血を引く証だった。
その白磁の肌に、東洋の血が神秘的な生気を吹き込んでいる。頬の僅かな薔薇色。唇の艶やかな朱色。それらは、白蘭の中に宿る生命力を雄弁に物語っていた。
最も印象的なのは、その瞳だった。青と灰色が混ざり合う虹彩は、まるで上海の黄浦江が夕暮れ時に見せる深い色合いを思わせる。誠二は建築史研究の過程で、ステンドグラスの色彩研究もしていた。その専門家の目から見ても、白蘭の瞳の色は稀有な美しさを持っていた。
髪は、シャンパンゴールドとも形容すべき、どこか神秘的な輝きを放っている。わずかに赤みを帯びた金色の波は、朝の光を受けて様々な表情を見せる。誠二の記憶は、古代ローマのモザイク画に使われた金箔の色味を連想していた。
そして、その容姿の一つ一つのパーツが、不思議な調和を生み出している。高めの頬骨はスラヴ的な気品を感じさせ、切れ長の目元には東洋的な神秘性が宿る。それは、まさに租界という特殊な空間が生み出した美しさだった。
表情を作る筋肉の動きさえ、誠二の目には新鮮に映る。研究者として無意識に行っていた表情分析の習慣が、今や自身の新しい容姿への観察眼となっていた。微笑むたびに浮かぶ頬の柔らかな曲線。考え込む時に自然と寄る眉間の繊細な皺。それらは、白蘭という存在の生々しい実在性を感じさせる。
鏡に映るその姿は、租界の社交界で「東洋の真珠」と称されるほどの美しさを持っていた。しかし誠二の意識は、その美しさに酔いしれるのではなく、むしろ研究者特有の分析的な視点で自らの変化を観察している。それは、この状況を受け入れ、理解しようとする、誠二なりの適応の方法なのかもしれなかった。
白蘭は、そっと頬に触れた。指先が感じる肌の感触。それは確かに、今の自分のものだった。
「では、準備を始めましょうか」
白蘭は立ち上がり、クローゼットに向かった。そこには、パリから取り寄せた最新のドレスが並んでいる。今日の打ち合わせには、淡い孔雀色のシルクのドレスが良いだろう。
準備を終えた白蘭は、階下のサロンに降りていった。朝日に照らされた室内には、すでにいくつかの書類が並べられている。建築の設計図や、内装のデザイン画。そして、開業許可申請に必要な書類の数々。
白蘭は、机に向かいながら深いため息をついた。
(まさか、こんな形で自分の研究テーマを実践することになるとは)
誠二として研究していた租界建築の知識と、白蘭として持つ社交界での人脈。その両方を活かして、新しいサロンを作り上げる。それは、単なる社交場以上の意味を持つはずだった。
芸術と政治が交わる場所。
東洋と西洋の文化が融合する空間。
そして何より、様々な価値観を持つ人々が、自由に集える場所。
白蘭は、机の上の設計図に修正を加えながら、新しいサロンの名前を囁いた。
「金色の孔雀亭……」
その言葉は、まるで呪文のように響いた。