7. ルーク・クラーク子爵令息は正せない
ルークは子爵家の令息だ。それも嫡男でも次男でもなく、三男坊。
だからか将来のことを早めに考えて何か身に付けた方が良いと祖父から言われ、次男が領主補佐としての勉強を選んだことから、消去法で騎士という道を選んだ。
父に似て比較的体格が良いことと、地道に剣を振るうことは苦手ではなかったので、ルークは自身の進む道に不満はなかった。
それがどこで道を間違ってしまったのかと言われれば、父が伯爵へと陞爵したことと、ルークがアルフレッド殿下に剣の腕を見込まれたことからだろう。
アルフレッド殿下に忠誠を誓う身として、他の側近達に倣って殿下のためと信じて剣を振るった。
それが正義と悪のどちらであるか迷ったとしても。
ルークの時が戻ったのは、燃え盛るサージェント侯爵家を見届けた後、王都への帰路の途中だった。
気づけば低い視界に映る、昔に過ごしていた部屋の中にいたのだ。
幼い自分に驚くよりも、先程まで感じていた生々しいまでの人の死の方がルークを動揺させた。
暫くして宰相家から届いたルーク宛の手紙に書かれた文に潜ませた、言葉の断片を繋ぎ合わせてようやく時が戻ったのだと理解したが、ここで迷いが生じた。
本当に自分がしていたことは正しいのか。
本当に騎士道から外れず行動できていたのか。
ベアトリス嬢は最後まで自身の無実を主張していたし、侯爵家は悪女であるはずの彼女を見捨てることなく庇い、自身達が問われる罪にも無実を主張したが暴力で訴えることは一切なかった。
それでもアルフレッド殿下は一族揃っての悪党だと言い、国王陛下のいない間に強硬なまでの断罪に及んだ。
正義があるのならば事を急かず、正式な手続きをするべきではなかったのだろうか。
主要な使用人達も侯爵家から逃げだすことなく、主人達の逃亡に付き従った。
恐らく国王陛下が戻れば狂気の沙汰が止められるだろうと考えていたのか、追っ手として向かったルークがサージェント侯爵領に入った時にも兵は配置されていなかった。
そんな彼らの善良性に付け込み、アルフレッド殿下に言われていた通りに屋敷へと火を放ったのはルークだ。
時が巻き戻った現在、アルフレッド殿下の婚約者が決まっていないという情報を夏の長期休みに入った伯爵位の従兄から聞けば、胸の内に抱えた疑問はただただ膨らんでいく。
ルーク宛の手紙にあの時の真偽は一切書かれることは無く、けれど己の正義をかざして悪を許さない旨のみが書き散らされているのに目を通す度、喩えようのない苦みにも似た落ち着かなさが胸の中でかき混ぜられるような気持になった。
きっとルークの父親が陞爵すれば、再びアルフレッド殿下の側近として召し上げられるのだろう。
そうなる前に曇る心を晴らして、自分の為すべき道を見つけたかった。
そんなルークが浅い知恵を絞って思いつけたのが、ベアトリス嬢に手紙を送ることだ。
まだ十二歳を目前にした少年にできることは非常に少ない。
ただし、アルフレッド殿下にも、家族にも絶対にばれることなく、秘密裏に届けなければならない。
その方法にかなり悩んだが、偶然にも母がこよなく愛する洋菓子屋で侯爵家の使用人を見たという話が夕食の話題に上がったのだ。
どうやら友人の娘である男爵家の三女が見習い奉公のため、サージェント侯爵家の侍女として勤めているのだという話だった。
決して多くはない小遣いから夕食の話題になった洋菓子屋に通い、ようやくサージェント侯爵家の侍女を名乗る人物を見かけたのは二月も後のこと。
もはや無理矢理といった風に侍女のポケットに手紙を捻じ込んで逃げ出してから、もしかしたら返事がもらえるかもしれないと、月に一度は洋菓子屋に向かうという根気強い行動を続けて半年、サージェント家の家令を名乗る者に声をかけられ、あれよあれよという間にサージェント侯爵家の庭園でベアトリス嬢と向い合せで席に着いていた。
今まではアルフレッド殿下の背後から彼女を見ていただけだったからか、見慣れぬ光景に現実感を覚えず、そのくせ最後に見かけた時よりも随分と幼い姿に緊張する。
「随分前となりましたが、頂いたお手紙は拝見しましたわ」
淑女らしい微笑みは浮かべることなく、表情の無い顔がルークを見据えていた。
「あの時、再三に渡り申し上げましたが、私はアリス・ホワイト嬢に手を出しておりませんし、家族にも違法薬物の販売などという事実もありませんでした。
けれど過去へと戻った今となっては、証明するのは難しいこと。
私の言葉を信じるかはクラーク子爵令息次第ね」
ベアトリス嬢の言う通り、時が戻った以上は証拠など揃えられるはずもなく、アルフレッド殿下とベアトリス嬢のどちらを信じるかになってくる。
「ベアトリス嬢はアルフレッド殿下に復讐されたいのでしょうか?」
「それを聞いてどうなさるの?
お忘れにならないで。それを聞いたということは、当家にとって不都合を知られるということ。
答えたら貴方を生かして返すと思って?」
ルークは首を振って返す。
「いえ、アルフレッド殿下に復讐されたいと答えたならば、ベアトリス嬢の言葉に信憑性が増すかと思い、質問しただけです」
けれど質問を重ねたところで、その真偽を見極める術なんてルークには持ち合わせていない。
これ以上何を言えばいいかと黙り込むルークを見つめ、ベアトリス嬢が溜息を落す。
「クラーク子爵令息は仕える相手が違っていれば、正しい剣を振るわれたでしょうね。
けれど厳しいことを言うならば、側近の立場は主を盲目的に信じることでも、自身に疑問を抱きながらも流されるように偽善の剣を振るうことでもありません。
皆仲良く甘い誘惑に溺れているときこそ、騎士たる貴方が一番に騎士道精神に則って戒めるべきだったと思います」
言われた言葉に棘を感じるが、正論ではあるのでルークに返す言葉などない。
あの時に暴走しがちな殿下達を止めることなく、サージェント侯爵家に火を放ったのはルークだ。
今、サージェント侯爵家の人々が生きているのだとしても、それでもベアトリス嬢からしてみれば許せることではないだろう。
「そうさせる何かがあったこと、貴方が気づいているのかは知らないけれど」
ねえ、という声とともにカップが置かれた。
「結論の出ない問答を続けるのは好きではないの。
クラーク子爵令息が私に言いたいことはそれだけかしら?
でしたら後はご自身でどうされるのかをよく考えられることを勧めておくわね」
お客様のお帰りよ、と声を上げたベアトリス嬢の言葉に、思わず制止のための手を上げる。
視界から外したルークへと、再び視線を向けたベアトリス嬢が目を眇めている。
ベアトリス嬢は復讐を成すだろう。
アルフレッド殿下が以前と同じ道を進んでいないことや、ロバートからの手紙に返事がこないと書かれていた相手、ジョージ。
これが彼女によって起きたことだとしたら。
ならばルークが望むことは一つだ。
「どうか、アリス・ホワイトを見逃して頂けないだろうか。
彼女は何もしていない」
思わず口から零れたのは、巻き込まれただけの少女の助命で。
ここにきて、ようやくルークは自分が建前をひけらかしながら、単純な願いを抱えていただけだと理解した。
ベアトリス嬢はこれ見よがしな溜息を落としたけれども、騎士道精神などといったものとは一切関係ない内容に対しては呆れを見せることはなかった。
もしかしたら気づいていたのかもしれない。
「そうね、確かに彼女は積極的には何もしなかったわ」
そうだ。アリスは何もしていない。
アルフレッド殿下がアリスに好意を抱き、アルフレッド殿下と側近の私達がベアトリス嬢や自身の婚約者達を糾弾したのだ。
だが、目の前のベアトリス嬢は「けれど、」と言葉を続けた。
「冤罪だと知りながらアルフレッド殿下の罪を見ない振りもした。
確かに彼女の立場で反論なんてしようものなら、一族郎党処分される可能性だってあるでしょうけれども。
それに彼女には彼女なりの思惑があったのだろうから」
皿に置かれた小ぶりのケーキが真ん中に入ったフォークによって切り倒される。
「それを理解することと受け入れることは別のものなのよ」
まるで彼女の怒りと嘆きのように。
風の音だけとなったお茶会で、囁く声が沈黙を破る。
「ねえ、アリス・ホワイトの為になら、クラーク子爵令息は何でもできる?
アルフレッド殿下を、かつての仲間だった彼らを裏切れるならば、彼女は見逃してあげてもいいわ」
そうして薄く微笑んだだけの顔は貼り付いた仮面にも見えたが、唯一瞳だけが冷えた鋼にも等しい硬質さを漂わせている。
「それが貴方への罰。そして彼女の罰にもなるから」
ルークの選択肢はほとんど残されていない。
自分達を憎む令嬢の手を払ってアルフレッド第二王子と共に乗った泥船で沈むか、それとも復讐の女神の手を取って新たな苦悩の海へと溺れるか。
ルークは今でも後悔している。
本来ならば騎士道に則ってベアトリス嬢を助け、彼らを諫めるべきだったのだ。
今のベアトリス嬢が正しい道を進んでいるかといえば疑わしい。
けれど、彼女をそんな風に変えてしまった一端を担ったのはルーク自身である。
それに、少なくとも今のベアトリス嬢ならば、無関係な周囲を巻き込むことも冤罪行為も厭うだろう。
変わらずの笑みのままルークの回答を待つベアトリスに、ルークは重い口を開いた。
** ** *
全ての運命を歪ませた学園への入学を迎える一ヵ月前。
ルーク・クラーク子爵令息とアリス・ホワイトの婚約が結ばれた。
低位貴族と平民にしては珍しい、幼い内からの婚約式はひっそりと慎ましやかに行われた。
「これを、君に」
アリスの手を取り、そっと指輪を指に通す。
台座にはマスカットにも似た色のペリドットが収まり、照明の光をとろりと反射している。
照れたように笑いかけるアリスから、思わず視線を外しかけるのを懸命に耐えてルークは立ち続けた。
本当ならば多くの少女が夢見る物語の主人公のように、王子様に見初められて幸せになるというハッピーエンドがあったはずなのだ。
──本当に?
ベアトリス嬢は王子妃教育を婚約した11歳の頃から受けていた。
学園に通うまでは城へ日参していたと聞いていたし、学園に通い始めてからは週末を全て王子妃教育に充てていたのはアルフレッド殿下に提出される彼女のスケジュールで知っている。
それが終わる頃には少しずつ公務を振り分けられ、忙しいからと学園入学当初から生徒会には一切関わらなかった。
王族が学園に通う時の暗黙のルールだからとアルフレッド殿下は生徒会に入り、学業と生徒会業務の傍ら、週末にもお忍びでアリスと遊びに出かけたりしていたりと余裕があったことから、てっきりベアトリス嬢に王子妃としての能力が欠落しているだけだと思っていたのだが、殿下はいつ公務をしていたのだろうか。
いや、殿下のことはいい。それよりも成績優秀な令嬢であった彼女ですら何年もかけた王子妃教育を、平民であるアリスがこなせるのだろうか。
アルフレッド殿下が大人しいだけが取り柄の自身に釣り合わない女だと散々言っていたから、王子妃に相応しくない令嬢なのだと思い込んでいたが、学園に通っている頃には挨拶にだけ訪れたベアトリス嬢の所作が美しかったのは覚えている。
よく考えなくても王子妃教育を学園在学途中に終わらせたのは優秀だからこそ。
勿論アリスも学業でいえば成績優秀者で、常にアルフレッド殿下と最上位を競っていた。
けれど、その優秀な成績ではなく、彼女の天真爛漫さを愛したアルフレッド殿下はアリスを婚約者にと望みこそすれども、彼女が他の令嬢のように変わることを嫌がって何もさせようとしなかった。
表情をコロコロ変え、貴族の令嬢とは違う表情豊かな顔で笑い、自分の目標に向けて迷うことなく走っていく。
そんなアリスを愛していたからだろう。
ベアトリス嬢の笑っているように思えない笑みが気に入らないと言っていたが、アルフレッド殿下の横に立つということは王族の一員になるということ。
国の象徴として尊ばれる王族には、高い教養と品位が求められる。学園の成績が良かっただけでは誰も納得などしない。
時を遡る前のアリスはその現実を正しく把握し、アルフレッド殿下の婚約者として認められるため、何年にも渡って王子妃教育を受けるつもりだったのか。
それともアルフレッド殿下は王家から籍を外され、ささやかな爵位でも授かってアリス・ホワイトと添い遂げるつもりだったのか。
これが本の中の物語であれば、二人の恋路を邪魔する悪女を追い払って真実の愛と共に幸せになりました、でおしまいとなる。
でも、これは物語の中ではない。
物語が一番の山場で終わったとしても、生きている人間はその後の人生が待っている。
幸せな結末の先に、二人の幸せはあるのか。
おそらく、王家はアリスを認めない。
ベアトリス嬢とサージェント侯爵家への断罪は、陛下と王太子殿下が外遊していた期間を狙って行われた。
アルフレッド殿下は反対されるとわかっていたからこそ、止められる者がいないタイミングを狙ったのだ。
サージェント侯爵家の罪を公に晒したという体裁でもってベアトリス・サージェントに婚約破棄を言い渡し、一族を死に追いやった第二王子。
侯爵家の庇護下に入った今ならはっきりわかる。
信用ならないルークとその家族を懐に入れても痛くないぐらいには潔白であり、違法薬物の取り扱いは冤罪だ。
それをアルフレッド殿下が知っていたのかはわからないが、王の判断を待たずに殿下の独断で一族全員の死罪を言い渡し、自領まで逃げた彼らを追いかけて殺害するようにルークに命じたのだ。
あの時宰相が止めなかった理由がわからなかったが、もしかしたら冤罪であることに気づいていたが、自身の息子が巻き込まれていたことから保身に走って罪を押し通そうとしたのかもしれない。
あるいは。
当時はアリスを守るためだという気持ちと、アルフレッド殿下の言葉を信じていたから彼らを死に追いやれたが、今こうして冷静になればなるほど疑問は増えていくばかり。
周囲の貴族は巻き込まれないようにと積極的に暴挙を止めなかったが、誰もが王城に推参するのを避けている節が見えた。
アルフレッド殿下が演出した罪によって、大半の貴族から王家への信用は失われていたはず。
今回の件に無関係な第三者であれば、ルークだってアルフレッド殿下の言葉に疑いを持っただろうから。
陛下達が戻られたら、さぞや驚いたことだろう。
王都への帰路中に時を遡ったから結末を見ることはなかったが、侯爵家を一つ、王族が自分勝手な望みの為に潰したのだ。
アルフレッド殿下のみならず、側近であったルーク達も無事に済むはずがない。
常識で考えるならば、アルフレッド殿下は運が良ければ幽閉、許されなかった場合は毒杯を賜ることになる。
もしかしたら王家がアルフレッド殿下を庇い、全ての罪を側近とアリス・ホワイトの責任としたならば、更に悲惨な事になる。
ロバートは廃嫡のうえで毒杯、ジョージもきっと同じ。そして各家は降爵か、爵位返上で手打ちになるかもしれない。
ルークは当時伯爵令息という立場だから、陛下からの情状酌量があれば家族連座での刑は免れて絞首刑でもって処刑され、それでも家族は爵位返上と私財没収の上で国外追放が妥当だと思う。
ならば、平民であるアリスは。
だからこそ、アルフレッド殿下に憎まれるのだとしても、ルークはアリスと婚約することを選ぶ。
主人公は幸せになりましたという物語の後に訪れる、悲惨な結末を迎えることが無いように。
平凡な人生だけれども、今度はアリスの身の丈に合った幸せを送ってもらうのだ。
アリスとルークは子爵家の寄り親となったサージェント家の援助で、彼女が興味を持っていた専門分野で著名な教師を擁する帝国の学院へと留学することになっている。
ルークの意思すらもベアトリスの掌の上なのだとしたら空恐ろしい気持ちになるが、連絡の取れなくなったジョージのことを思えば彼女の掌の上で踊るのが最良なはずだ。
今、目の前に広げられた便箋には、神経質そうな文字が規則正しく並んでいる。
右上がりになることもなく、癖の少ないお手本のような文字の書き手はロバートだ。
留学に向けて旅立つまでは手紙を返さないと疑われるだろうと、ベアトリス嬢から返信するように指示されていた。
彼女の言う通り、もしルークが手紙を返すのを止めたら、何があったのかと調べられていた可能性は高い。
ジョージからの手紙が返ってこないと愚痴にも似たことが書かれることがあったが、そういえばジョージの姿を見ていない。
それどころか、サージェント侯爵とは兄妹であるはずのデネル子爵夫妻も、年末に開催された侯爵家関係者ばかりを集めたパーティーで姿を見かけなかった。
聞いていらぬことを招くつもりもないため、わざわざ口にはしないが。
きっとアルフレッド殿下は期待に胸を膨らませて、アリスの入学式を待っていることだろう。彼女が入学しないなどとは夢にも思わずに。
王族としての品格は疑われる方であったが、アリスへの愛情だけは本物だった。そうでなければ侯爵家を潰そうなどとは思わない。
だからルークがアリスと婚約したことを知れば、絶対に許さないはずだ。
「再会した時には殺されるだろうな」
もうこの国に戻るつもりはない。
それぐらいの覚悟があるからこそ、ベアトリス嬢の甘言に唆されたのだ。
明日には留学先へと出立することから、この手紙を書くのもこれが最後になる。
必要最低限の物以外は全て片付けられた部屋の中で、握り締めたペンが冷たい温度を伝えてきた。