5. ジョージ・デネル子爵令息は選ばれない(後編)
もし、ベアトリスが池に落ちたら?
あの池が子どもの背丈と変わらない深さなのは、サージェント侯爵家の庭で遊んだことのある子どもなら皆知っている。
一度落ちてしまえば水を吸った外套とドレスは重く、非力な女児では池から這い上がることなどできないはず。まだまだ春は先となる今日の気温は低く、水の冷たさからあっという間に体は動かなくなるだろう。
咄嗟のことであれば、声も上げられないはずだ。
ジョージが軽く押すだけで、それだけで、本来あるべきだった全てがジョージの手に戻ってくるのだ。
一度芽吹いた思い付きはジョージの中へと根付き、大輪の花を咲かせてやり遂げるのだと背を押す。
ゆっくりと周囲を見渡す。
侯爵家は静かで、子爵家の使用人のように騒々しく歩いたり、客人の前に姿を現すような真似はしない。
時間は昼下がり、客対応の女中以外は遅い昼食の時間帯のはず。
家の間取りは勝手知ったるもので、中庭に出る扉は廊下の端に設えてあるのも知っている。
小さな客間に案内してくれた家令が温かい飲み物を持ってくると言えば、できれば温かいスープをと伝える。
別に食べたいわけではない。早く戻ってくることのないよう、手間のかかる物を頼んで時間稼ぎをしたいだけだ。
家令が部屋を出た後、焦る心を宥めながら祖父から譲られた懐中時計で時間を確認しながら、たっぷり5分は待つ。
ドアに耳を当てて廊下へと耳をすませたが、誰の足音も聞こえない。
ゆっくりと扉を開き、部屋を出る。
足音を吸い込む絨毯を見て聞こえるはずもなかったはずだとヒヤッとしたが、運が味方したのか廊下には誰もいなかった。
そして変わらずベアトリスは外にいる。
少し右にズレたような気もするが、熱心に池の中を覗き込んでいる。
そういえば珍しい魚が池に放されたのだという話を聞いたのは、今頃の時分ではなかっただろうか。
足音に注意しながら廊下をゆっくり歩き、祈る気持ちで中庭に出る扉の前で靴を脱ぐ。
革靴の踵は固い。中庭の石畳を歩いて音を立てたくなかった。
ドアノブをゆっくりと回して扉を開けば、冷たい空気が上着を着ていないジョージの肌を刺すようだ。
無意識に指先を擦り合わせ、すぐに少しでも物音を立てないようにと手を止める。
周囲が静かすぎて、雑草一つない庭先を歩くのすら緊張は極限状態だ。
後僅か。
冬の池は藻が繁殖しているのか、水底が見えないぐらい緑に覆われていた。
これなら突き落としたベアトリスが見つかるまでに時間がかかるかもしれない。
後一歩。
背を押すのは簡単だった。
前屈みになった体は軽く押しただけで、前へと倒れていく。
派手な水音を立てないかだけが心配だったが、侯爵家の壁も窓も厚いので、そこまで音は届かないだろう。
廊下には誰もいないのだから。
けれどベアトリスの体は池の中へと落ちていかない。
池の中に入り込んだというのに、まるで浅く埋め立てられたかのように、態勢を崩してしゃがみこんだ体の足半分程度しか水に浸かっていなかった。
背を向けていたベアトリスがゆっくりと振り向いた。
ジョージを見上げる眇めた目と、冷めた表情。そして僅かにつり上がった口の端。
「誰かお嬢様が!」
背後で唐突に声が上がった。
無意識に竦んだジョージの体が動きを止める。
恐ろしくて振り向けないジョージの視界の端に家令のバートンが姿を見せたかと思ったら、すぐさまベアトリスを池から引き上げた。
侯爵家の使用人達も姿を見せては悲鳴を上げて駆け寄る者や、「毛布を」と口にして屋敷へと駆け戻る者といて、ただただ呆然として眺めることしかできなかった。
スローモーションのようにも感じた時は正常に動いており、はしたないなど言ってはいられずにスカートを翻した侍女が毛布を抱えて戻ってきたかと思えば、ベアトリスが寒くないようにとくるんでしまう。
その頃には慌てた様子の侯爵夫妻とジョージの両親も駆けつけてきた。
バートンからベアトリスを受け取った侯爵が、深い息を吐きながら愛娘を抱きしめる。
「どうしてこんなことに?」
「池に落ちて……」
毛布にくるまれたベアトリスが、か細い声で言う。
「怖かった」
ベアトリスの震える体に、侯爵が急いで浴室の準備をするように言い付け、抱え上げた使用人には湯浴みの準備ができるまでは暖炉の前に連れて行くようにと、侍女達には着替えをさせるように命じる。
「バートン、お前がタイミングよく廊下を歩いていたお陰で、ベアトリスが無事だった」
そうして侯爵が池を見て溜息を落とす。
「バートンからベアトリスの安全のためだと進言され、池の手前側を浅くしていたのが結果的に助かった」
まさか。こいつもか。
思わずバートンを睨みつける。
そうだ。時を遡る前にも忠義面をして、諸悪の根源である侯爵家と共に逃げ落ちていった愚か者だったではないか。
当時、秘宝を盗み出した罪に問われた際に、ベアトリスの引き出しを確認して宝石を取り出したのも家令である彼だった。
あの時は手袋をしていたと思っていたが、逃げる際に直接触れる機会があったのかもしれない。
ベアトリスと結託して生意気にも自分を陥れようとしているのだ。
「一体どういうことなのか。
バートン、お前が大声を出したのだから、ベアトリスの身に何が起きたのか把握しているはず。
説明してもらえるだろうか」
殴りつけてでも止めたいのに、そんなことなど出来ずにブルブルと体を震わせながらバートンを見る。
ジョージを拒絶した家令は先程の様子を背後から見ている。
「私が見た事実は唯一つ、ジョージ様が当家の大切なお嬢様の背を押したことだけでございます」
侯爵夫人の口から小さな悲鳴が上がる。
父親がジョージの襟口を掴み上げて、強い力で揺さぶった。
「ジョージ!今言われたことは本当か!?
従妹だというのに、義兄上から子爵位を譲られた恩があるというのに、ベアトリスに何の恨みがあるというんだ!」
「ち、違います!誤解です!
私はベアトリスに危ないからと肩を叩こうとしただけで、それをバートンが勘違いしただけです!」
「それではジョージ様、この寒さの中で靴はどうされたのでしょう?」
皆がジョージの足元を見、今更ジョージは靴を脱いでいたことを思い出した。
「客間にいらっしゃらないので探そうとしたところ、ジョージ様の靴が廊下から庭に出られる扉の手前にございました。
それゆえ中庭を確認したのですが、もしかしたら本日の靴では足音がすると思われたのではないのですか?」
ジョージを見るバートンの瞳は日が当たろうとも、どこまでも暗い。
そこに在ったのは明確な怒りだ。
「そんなこと、考えては、ただ邪魔で、脱いだだけ」
思わず口にした言葉は言い訳の体さえ取れない稚拙なもの。
周囲の人々から向けられる疑惑や侮蔑、怒りを含んだ視線はナイフのように刺さるもので。
今の状況は非常に不味い。
何としても誤魔化し、間違った発言をしたのだと言い張って家令の立場を落とすしかない。
後ろから見ただけでは、押したところなんてはっきり目撃できるはずがないのだ。
「バートンが叫んだ時、彼は俺の後ろにいました!
彼はベアトリスが酷い目に遭わされると勝手に思い込んだだけですし、その声に驚いてベアトリスは池に落ちたのです!」
ここまでくると、もう破れかぶれだ。だが罪を認めるわけにはいかない。
侯爵家の養子どころか罪人となってしまう。
「なるほど、ジョージの言い分も納得はできる」
少し考える素振りを見せた侯爵が、顎にあった手を放して周囲を見た。
「他に誰か見ていた者はいるか?」
いるはずがない。なぜならジョージは廊下を歩いていた使用人などいないことを確認したからだ。
けれど、おずおずと前に出てきたのはベアトリスの侍女達だった。
「お嬢様が部屋にいらっしゃらないのでお探ししていまして、まさかと思って中庭の端から歩いていたのです。
驚きで咄嗟に声が出ませんでしたが、」
そこで侍女が深く深呼吸をして、眉間に皺を寄せる。
「ジョージ様がベアトリスお嬢様の背中に手を伸ばして、そして押したのを見ました」
今度はジョージの母親が悲鳴を上げ、そのまま崩れるように倒れ込む。周囲にいた侍女が手早く余らせていた毛布をかけ、他の使用人が気付け用にとブランデーを取りに行った。
その指示をしているのはバートンだ。
おいたわしい、と言葉を漏らしたバートンが侯爵を見る。
「差し出がましい発言をお許しください。
応接間でジョージ様は養子の話をしておられました。
もしかしたらお嬢様を排除すればと考えられたのかもしれません」
バートンの言葉は燃え盛る火に油を注ぐかのよう。
瞬間、ジョージは頬に強い衝撃を感じてグルリと視界が回った。
気づけば地面に転がる自身の体と、憎々し気に睨みつける父の姿。
「お前も大事な息子だからと、少しでも良い暮らしができるように義兄上の協力を仰ごうとしたのに、それを大それた欲望から恩を仇で返すのか。
あまつさえ小賢しい嘘をつこうとする始末か」
淡々と紡がれる言葉が押し込んだ怒りを隠し切れず、ギラギラとした目が見下ろしている。
「ジョージ」
かけられた声にビクリと体を震わせる。
見上げた侯爵はどこまでも悲しい顔で見ていた。
もしかしたら同情して、手を差し伸べてくれるのかもしれない。
「伯父上、どうか、どうか聞いてください。
私は、」
「残念だが君のことを許すことはできない」
子どもならではの都合の良い解釈と、甘い期待が打ち砕かれる。
怒りで赤く染まったままの顔の父親が、荒く息を吐きながらも、物々しく頷いて肯定した。
「主家の跡取りを殺そうなどと、本来は騎士団にでも突き出し、しかるべき手続きにて公正な裁きが必要かと思います。
主家の跡取りを殺害して乗っ取ろうとしたのならば、処刑が妥当でしょう。
私達は義兄上の判断を受け入れます」
父親が侯爵へと伝える言葉に助命は含まれていない。
ここにきてようやく、自分がしでかしたことの大きさを知る。
今のジョージは侯爵令息ではなくただの子爵令息、それも平民にしかなれない次男坊だ。
どれだけベアトリスが心根の醜い少女なのだと主張しても、それは至っていない道の先にある話だ。
誰もが知らぬ未来を語れないのならば、11歳のベアトリスはただの侯爵令嬢でしかなく、ジョージは高位貴族に対して明確な殺意をもって命を奪おうとした簒奪者でしかない。
背筋を這い上がる底冷えする寒さが、ジョージの先行きを示しているようだ。
過去の知識はまだ記憶に残っている。
侯爵家での贅沢な暮らしと共に身に付けた教養。
それが教えてくれる。ジョージに与えられる適切な処罰は死であることを。
「……たった一人の妹の息子なのだ。
命を奪う処罰は下さない」
だからといって処罰が甘ければ他への示しもつかないから、と言った侯爵が値踏みをするようにジョージを眺める。
みっともなく地面に這いつくばったままのジョージは息を止めて、彼の命を握っている侯爵を縋るような目で見上げた。
少しして、侯爵が息を吐いた。
「当初の提案通り、隣国の商会で働かせることにしよう。
ただし向かうのは今すぐだ。隣国に着くまでは逃げられぬよう侯爵家から監視をつけ、勝手に逃げ戻ってくることのないよう、渡航に必要な身分証などは全て商会預かりとしてもらう。
当然だが養子の話も無かったことにし、ただの従業員として勤めてもらうことになる。
また、向こう10年の給料はベアトリスへの慰謝料に充ててもらうので、学校に通うのも諦めてもらうしかない。
彼が成人した頃には、もう商会で働くしか道がないだろう。
そこで骨を埋めるといい」
涙を溢しながら頭を下げた父親が謝罪と礼の言葉を繰り返す。
侯爵の指示によって、ジョージの両腕を侯爵家の使用人達が力任せに掴んで立たせた。
そこに侯爵令息となるはずだったジョージへの敬意など欠片もない。
バートンが子爵家での荷造りの手伝いを先程証言した侍女達に言いつけ、侍女達は無表情のままに頷いて、引き摺られるジョージの後を追いかける。
そこからジョージの旅立ちは感情さえ置いてきぼりにされる早さで進められた。
泣き続ける母からは馬車の同乗すら拒否されて、侯爵家の馬車に侍女達と詰め込まれたが、誰もが主人を殺害しようとした相手に向ける目は凍てつく温度しか備えていない。
これから訪れる未来に慄き、現実逃避するかのように外ばかり眺めていても子爵家に辿り着けば、無表情な侍女達が慣れた様子でジョージの部屋に向かい、必要最低限な分だけのジョージの荷物を詰めていく。
両親に助けを請おうとしても、母は自室で寝込み、父はそんな母のために医師を手配して忙しい。
一度、兄のウィリアムが顔を覗かせたかと思えば、ジョージを散々に罵倒して立ち去った。
いやだいやだと思う間にも手際よく侍女達は荷物を纏め終え、その頃には全ての準備が終わっていた。
抵抗するジョージを軽々と下男が抱え上げて、再び侯爵家の馬車へとジョージを詰め込む。
逃がさぬ為の見張りか、侯爵家の侍女が二人再び同乗した。
成人していた頃ならば女二人ぐらい殴り飛ばせるが、11歳の子どもが本気で暴れたとしても、子ども相手でも容赦しない大人二人がかりではどうすることもできない。
ガタガタと馬車は速度を上げて港へと進んでいく。
港には一人の恰幅の良い男と着飾った女性が待っていた。
二人は子爵であるジョージの両親よりも仕立ての良い服を纏っている。
女性は引き摺られるようにして歩くジョージを上から下までを見ると、腫れた頬をそっと指先で撫でた。
「これはいけないわ。せっかくのハンサムが台無しじゃないの。
大丈夫、船に乗ったら船医に湿布と軟膏を用意させましょうね」
横に立つ男性がニッコリ笑った。
「今日から君の雇い主になるが、なに、そんなに不安になることはない。
我が商会は大きなお家の貴族様を後ろ盾にして、隣の国で今一番注目されている。君もその恩恵を受けることになるさ。
君のことは侯爵閣下から話を聞いているが、活きがいいのは大歓迎だ。
大丈夫、これから生きていくための術を、我々が教えてあげよう」
いかにも商人らしい雰囲気の二人を見上げる。
もしかしたら子爵家よりもうんと羽振りがいいのかもしれない。
出航の声を周囲に掛けながら離れていく男を見送りながら、これは運が見放さないでいてくれたのでは、とジョージは思う。
元々、目の前の男はジョージを養子にしたかったはずだ。
だからこんなに親切に違いない。
ならば、侯爵家に養子として引き取られる程に、そしてアルフレッド殿下の側近になれる程に優秀だったジョージの実力を見れば、きっとサージェント侯爵の申し出など関係無くジョージを養子にしてくれるだろう。
なるべく学力を落とすことのないよう、隣国でも名高い学校に通わせてもらい、定期的な連絡をロバートに送る。そうしてアルフレッド殿下が成長した頃に迎えを寄越してもらえばいい。
その頃にはベアトリスも悪女たる本性を現しているはずだから、廃嫡となってジョージはサージェント侯爵になるべく迎え入れられるのだ。
あの栄光を。地位を。贅沢を。再び自身のものとする為に。
「裏切り者」
不意に耳元へと落ちた言葉に、肩が跳ねるままに勢いよく振り返った。
そこにはサージェント侯爵家から付いてきていた侍女達が、薄ら寒い笑みを浮かべてジョージを見ていた。
「何かしら算段でもついたといったお顔ですが、残念ですね。
お嬢様とサージェント侯爵家を陥れ、自分の機嫌一つで私達を殺したお前を、誰もが絶対許さない」
そっと離れた侍女がジョージを見る。
無表情という仮面が剥がれた侍女達の表情にあるのは憎悪だった。
同時に目の前の侍女に既視感を覚える。
そう、確かに知っている。ジョージは彼女達をよく知っている。
侯爵家の主人となったジョージに反抗的だったことから躾と称して手を出そうとしたときに抵抗して、拒絶された怒りから階段の上から突き落とした侍女だ。
横にいるもう一人は生まれたばかりのベアトリスの妹を殺そうとしたとき、庇おうとしたから先に殺したはず。
「ど、うして」
混乱するジョージを二人は鼻で嗤う。
「ちょっと頭の出来がよろしかったとしても、有効に使えないなら意味がないのですよ」
「色々な可能性を考えて動かれるお嬢様と比べ、消去法とはいえ、こんな屑が図々しくも侯爵になろうとしていたなんて」
小馬鹿にしたように笑いながら交わされる言葉は、ジョージへの侮蔑にまみれ、屈辱の中でジョージは理解する。
過去を知っているのはベアトリスだけではない。
バートンも、侍女達も。あの家に忠誠を誓う者達は覚えているのだ。
何をも赦さない、同情や優しさといった感情の一切がない眼差しはジョージを少し見つめた後、唇の端を少し上げた。
「これからジョージ様の働く商会は、何でも商品にされて急激に大きくなった所です。
小麦、お茶、布地、芸術品、労働力。そして売れるならば快楽だって」
一人が不穏な言葉を囀れば、もう一人がクスクスと笑う。
「貴族ですから多少なりとも見目が整っておりますもの、きっと良い値段で売って頂けるでしょう」
息を呑んだ。
侍女達の言葉をどれだけ好意的に解釈しようとも、ジョージの頭に浮かぶのは男娼の二文字。
「あちらの商会の旦那様達は商品について、自分で確認しないと気が済まない方」
「ええ、きっとジョージ様が程よいお年となれば、商品として正しい知識と奉仕の技術を教えてくれるでしょうね」
彼女達の表情は深淵にまみれた歓喜で彩られている。
出立の声が聞こえ始める中、いつの間にか背後に立っていた見知らぬ男がジョージの肩を掴む。
「坊ちゃん、旦那様方が出立されますので船に乗ってください」
いやだ。そんな言葉が喉元までせり上がり、それなのにこれから起きることへの恐怖から何も口にできない。
体は震えて一歩も踏み出せないジョージを見下ろして、男は黙って荷物を担ぐようにしてジョージを抱え上げる。
船へと歩き出した男の背から後ろを振り向けば、二人の侍女が手を振っていた。
「いってらっしゃいませ、ジョージ様。
貴方様の人生という航路が悲惨であり、旅の最期が惨たらしい死であることを祈っております」
ジョージの旅路は自身の絶叫で彩られた。