5. ジョージ・デネル子爵令息は選ばれない(前編)
次はベアトリスの義弟となるはずだったジョージです。
気づけば時を戻されていたジョージは、自分の置かれている状況の何もかもが気に食わなかった。
「坊ちゃん、早く起きてください」
使用人の一人がノックと同時に部屋へと入り、無遠慮に部屋のカーテンを開く。
冬の空気が取り込まれ、灰色の日差しが乱暴に瞼の内側へと滑り込めば、さすがに眠り続けるのは難しい。
僅かに身を起こして使用人を睨みつけるも、意に介していない様子で歩調を緩めることなく部屋を出ていった。
大方、朝食の準備の手伝いに向かったのだろう。
床板の上に薄いラグが敷かれただけの部屋はベッドと机、それからクローゼットだけで手狭となり、部屋も端の客室に隣接した場所だ。
一人で肌触りの悪い服に着替えて、誰にも先導されることなく歩く廊下には小さな絵が数枚飾っている程度で、人と人が通り過ぎるのに気を遣い合う必要がある手狭なもの。
一階の食堂だってさして広くはなく、そして用意された食事も量ばかり多くて味は大したことがない。
パンかマッシュポテトを主食に、目玉焼きとベーコン一枚、焼いたトマト、豆を煮たもの、それから食後の薄いお茶。果物は週に三回。チーズは週に一回だけ。
そして日曜日の朝はいつだって塩で味を調えただけのミルク粥。
これが侯爵家だったら。
侍女達がノックをし、ジョージの許可を待ってから入室して部屋の暖炉に火を熾すのだ。
十分に部屋が温まった頃にベッドから出れば、温かい湯の張った洗面器やタオルやらを手にして入ってくる。
顔を洗う間に他の侍女が仕立ての良い服を揃え、そうして身支度を手伝ってくれる。
侍女の先導で部屋と同じように厚地の絨毯が敷かれた廊下を歩いて食堂まで行けば、広い食堂に給仕を担当する使用人が並び、音も無く目の前にカトラリーを並べるのが当たり前。
温かいスープから始まり、サラダ、スクランブルエッグとベーコン、ソーセージ、そして外側がカリッと焼かれたトーストにはバターとマーマレード。
食後のコーヒーには小さなビスケットを添えて。
けれど、その生活は未来の話であって、今のジョージは単なる子爵家の次男でしかない。
つい最近まで体験していたはずの贅沢な生活は、記憶にしっかり残されている。
ジョージが養子として迎えられるのは12歳の時だ。
後一年もこんな生活に我慢しなければいけないのだと思うとウンザリする。
それでも一年待てば侯爵家の一員だ。
ジョージの母親がサージェント侯爵と兄妹であり、伯爵家の次男と婚姻する際に子爵位を譲り受けたのだが、そんな縁から血統的に近い立場として養子に選ばれた経緯があった。
時を遡る前は、侯爵家の養子になったタイミングでアルフレッド殿下の側近に選ばれ、そして侯爵令息として学園に通い始めれば、可憐な乙女アリス・ホワイトをアルフレッド殿下から紹介されたのだ。
あの時はベアトリスという悪女から彼女を守ることができずに、不遇な扱いをされたことによってアリスを泣かせてしまった。
当時は尊敬していた義両親に訴えても、逆にベアトリスを信じないことから説教を受けて、正義はここに無いのだと絶望したのも記憶に残っている。
アリスの笑顔を守るため、今回はサージェント侯爵家の者達を早々に葬り去るつもりだ。
前回は年の離れた義妹を捕らえ、生き残らせると後継者として脅威になると最初に手に掛けたが、今回は生まれる前に夫人共々片付けてしまった方がいい。
そしてベアトリスも。
ロバートからは最近読んだ詩集の一節と偽装して、罪を捏造するときに宝物庫から持ち出した秘宝が、時を遡った原因だと書かれていた。
彼らの推測が正しければ、秘宝を使ったベアトリスも過去の記憶を残したままのはず。
もしかしたらベアトリスが侯爵夫妻に何か言っているかもしれないが、何の根拠もなく従兄弟の悪口を言い始めれば、さすがに注意されるのは淑女らしからぬ態度のベアトリスのほうだ。
ジョージは被害者を演じて侯爵夫妻の同情を買い、ベアトリスを精神的に追い込むだけでいい。
彼女が暴走するほどに侯爵夫妻からの信用を失っていき、それによってジョージの計画が進めやすくなる。
** ** *
冬が終わりの兆しを見せる頃、ジョージは両親に連れられてサージェント侯爵家を訪れていた。
そういえば、養子の話が出たのは今頃だったはずと考えながら馬車の外を眺めれば、ジョージが本来いるべき懐かしい家が姿を見せ始める。
あの時はベアトリスが善良そうに振る舞うことから悪行を見過ごしてしまったが、ベアトリスが悪女だと知っている今はなんとでもしようがある。
ジョージ・サージェントになれば、もう一度。
変わらぬ家令が出迎えてくれる。名前は忘れていない、バートンだ。
この家令はベアトリスを追い込んだ時、侯爵領に逃げていく一家と一緒に行動していた。
サージェント侯爵となるはずだったジョージを選ばずに。
ジョージが侯爵家に入ったら、先ずはこの家令に窃盗の容疑でもかけて追い払ってしまおう。忠誠を誓わない相手など信用できない。
ベアトリス付きだった侍女もだ。どいつもこいつも反抗的で、使用人のくせにと軽く殴りつけただけで死んでしまう脆弱さしかなかった。
あいつらも紹介状を書かずに解雇にしてしまおう。
色々と頭に書き留めながら、あまり馴染みのない応接間に通された。
以前は家族や親族で使う居間で話し合いがされたはずだ。
その違いに首を傾げそうになったが、些末な違いだと思い直し、ジョージは両親と共に応接間のソファに座って屋敷の主を待つ。
程なくして侯爵夫妻が姿を見せ、貴族らしく時節の挨拶から始まった。
けれどベアトリスの姿は無かった。
前回は確かに同席していたはずだ。
ただこれに関しても、前回はベアトリスが渋って、すぐに同意をしなかったことから、いないことはジョージにとっては好都合である。
スムーズに養子の話はまとまるだろう。
「来年にはジョージも学園に通わせるつもりなのかい?」
侯爵の声掛けにジョージの父親が頷く。
「ええ。当家には既に嫡男のウィリアムがいますが、だからといって不公平なことはせず、ジョージが将来的に仕事に困らぬようにしておきたいと思って」
そうしてから父は眉を下げて笑う。
「婿入り先も探してみたのですが、年齢の合う家が見つからず。
ジョージには平民になることを視野に入れて、貴族向けではない学校に行かせようと思っています」
確かに、と侯爵が頷く。
「このところ、早くに婚約者を見つける家が多い傾向にある。
それがあるからベアトリスの婚約も早々に決めたからね」
今日ばかりは貴族らしい会話が、ジョージの中にある苛立ちを募らせる。
養子になることは決まっているのだ。さっさとその話をしてもらいたい。
「けれど、学校に通うとなれば授業料は相応にかかるだろう。
ジョージにお金をかけるのも大変だろうと、二人に提案したいと思っていることがあるんだ」
侯爵の言葉に自然と背筋が伸びた。
そうだ。養子にしたいのだと、侯爵家に迎え入れるのだと言え。
「ジョージを隣国へと、養子に出す気はないかい?」
想定外の言葉に固まったジョージを置いて、侯爵の口が滑らかに動いて言葉を紡いでいく。
「知人が隣国で新しい商会を興そうとしていてね、長い目で人を育てたいと考えているんだ。
平民ではあるが商売上手で不景気な様子もない。当然平民向けとなるが、ちゃんと学校にも通わせてくれる。
早い内から商会で働いて見込みがあれば、ゆくゆくはいくつかある店の一つを任せてもくれるそうだ。
爵位の無いジョージにも、支出に悩む二人にも悪い話だと思わないのだがどうだろうか?」
「まあ、そんなお話がありますの?
お兄様の紹介でしたら安心ですわ」
喜ぶ両親の横でジョージの体が震えた。
喜びではない。その体にあるのは怒りだ。
隣国で平民となるだと?
冗談じゃない。
「なんで……俺をサージェント侯爵家の養子にする話ではないのですか!」
「ジョージ!」と隣に座る両親が慌てた様子でジョージを叱るが、納得できる話ではない。
困ったような笑みを浮かべた侯爵がジョージを見る。
「なぜ君を?我が家にはベアトリスがいるのだから、養子を迎える必要はないよ」
「そんな馬鹿な!
ベアトリスはアルフレッド殿下の婚約者でしょう!」
「ジョージ、何を言っているんだ!黙りなさい!」
普段の温厚な態度からは信じられないような、父の怒声すらも耳に入らない。
侯爵令息でなければアルフレッド殿下の側近になれないのだ。
侯爵家での贅沢な生活も、アリス・ホワイトを守る権力も手に入らないなんて。
平民なんて冗談じゃない。
「ジョージ、君は何か勘違いをしているようだ」
侯爵が深く息を吐いて、ジョージを見る。
「ベアトリスはアルフレッド第二王子殿下の婚約者にはならないよ。
我が家には嫡子となるベアトリスしかいないのだからね。
ベアトリスが侯爵家を継ぐのは当然の話で、ベアトリスも女侯爵になるために勉強するのだと約束してくれた。
王家も当家の事情はよく理解されていることから、殿下達の婚約者候補からは外れている」
諭すように言葉を続ける。
「もしベアトリスが殿下達の婚約者になったとしたら、君が養子の候補には上がったかもしれない。
それだって『たら』『れば』の話であって、ベアトリスという後継者がいる以上は養子という選択肢は存在しないのだよ」
──ベアトリスにしてやられた。
てっきり王家とサージェント侯爵家は水面下で話を進めているため、アルフレッド殿下の婚約者はいないことになっているのかと思っていた。
あの毒婦はアルフレッド殿下から正義の鉄槌を落とされることを恐れ、時を戻して婚約者という立場を放棄したのか。
それはそれで喜ばしいが、このままでは過去にしたことが無かったことになり、今の状況を引き起こしているベアトリスという悪女を裁くことができなくなってしまう。
なによりこのままだと侯爵にはなれず、アリス・ホワイトとだって出会えない。
その事実に打ちのめされて、ゆらりと揺れた体が力なくソファへと戻った。
「ジョージ、顔色が随分と悪い。
今日の君の態度は褒められたものではなかったが、体調の悪さもあって将来が不安になったからかもしれないね。
ご両親とはまだ話があるから、君は少し別室で休むといい」
表情の変わらない様子が憎々しいバートンがジョージに立つよう促し、来訪前の暢気そうな雰囲気から一転して厳しい表情へと変わった両親に見つめられながら部屋を出る。
ジョージがこの部屋を出てしまえば、先程の話は早急にまとめられるかもしれない。
帰ってから両親を説得するつもりだが、さして名門でもない子爵の家のジョージではアルフレッド殿下の側近になれないのは確定だ。
何か説得できるような材料はないかと必死に考えるものの、焦りからか何も浮かばない。
ベアトリスのせいで。
バートンに先導されながら廊下を歩けば、何気なく見た窓の向こうで、小さな背が池を覗き込んでいるのが見えた。
ベアトリスだ。
侯爵家には子どもは一人しかいない。背中の中ほどで揃えられた黒髪はベアトリスで間違いない。
侯爵家の屋敷だからか側付きの侍女の姿はなく、人の目を気にせずに池の中を熱心に見つめている。
何がそんなに興味を惹かれたのかはわからないが、しっかり外套を着込んで丸くなった背中は全く動くことがなかった。
きっと来客によって両親の目が届かないことから、注意されているであろう池に行けると悪戯心が出たのだろう。
気づいていない家令に声をかけようとして、ふと落ちてきた天啓に思わず口を閉じた。
もし、ベアトリスが池に落ちたら?
後編は同日正午に投稿します。