オマケ3. ロバート・バーリーは感じない
アルフレッドの側近だったロバート・バーリー侯爵令息のその後で、時系列的にはアルフレッドの学園卒業前の話になります。
17歳の誕生日、母が亡くなった。
貴族が住むにはあまりにも小さい家の中、少しずつ細く、小さくなっていく母の姿は、目を背けたくなる程に侯爵家の時の美しい姿を留めていられなかった。
いや、母が徐々に美しさを失っていったのかはよくわからない。
いつか平民らしく暮らす為に新しいことを覚えるのに必死なのだと、母を顧みることなかったのは言い訳だ。
母を見ることで、落ちぶれたという現実を突きつけられたくなかったからだ。
平民として一人で服を着る、靴紐を解けにくく結ぶ、暖炉に火を熾す。
全部、遊戯感覚で身に着けようとしているだけだった。
そうでなければ現実を認めない心を抑えることができなかった。
だから亡くなる当日まで使用人に母の様子を相談されていたものの、全部伯父に報告するようにだけ返事して、いつものように自分のことだけで手一杯な状態にした。
16歳になった時には既に働きに出ていたから、17歳の誕生日も当たり前のように仕事に向かい、事務所の所長から新しいインク瓶を贈られて上機嫌で帰ってきたのに。
亡くなった母は幸せな終わりを迎えた顔をしていなかった。
眉は顰めるように歪められたまま、口は引き結ばれ、胸の上にある手は強く握りしめられていた。
気づいたら息を引き取っていたと使用人達から言われたが、ここまで深刻な状況になっているならば、どうしてもっと母を気にかけるように言わなかったのかと口から出そうになって、無理やりその言葉を呑み込む。
彼らはいつだって報告していた。
聞きたくなくて耳を塞いでいたのは自分だ。
いつから母に朝の挨拶をしなくなっただろうか。
いつから平民になる練習を理由に、母と食事を摂らなくなっただろうか。
いつから母の呼び出しに応じなくなったのか。
いつから母と顔を合わせるのが嫌で、庇護されている貴女とは違うのだからと仕事にばかり励むようになったのか。
いつから。
母の葬儀は伯父によって執り行われ、離縁していた母は生家の墓に入れられた。
伯父からはバーリー家の者であるロバートを、伯爵家の墓に入れることはないと言われている。
ロバートのような身寄りのない平民は、共同墓地に葬られるのが一般的だ。
これは国の制度として整えられている。
貴族のようにきちんと場所を用意して土葬されるのではない。
少しでも嵩を減らそうと燃やし、骨だけへと変えてから大きな穴に投げ入れられるだけ。
それが層となって、下層にある骨は重みと劣化によって形を失い、何十年か何百年かかけて土に還っていく。
侯爵令息だった当時は、何も成すことのない平民に相応しい終わり方で理に適っていると思っていたが、いざ自身が同じ立場になると人としての尊厳を考え始めるのだから随分と都合がいい考えだ。
母が亡くなった後も家に住むことを伯父から許されたが、一年経ったら使用人を引き上げることが通知されている。
元々はこの家からも出て一人で暮らす予定だったのに、家があるだけでも非常にありがたい話だ。
平民として仕事を始めてから気づいたが、給与は思いのほか少なく、身の丈に合っていれば何でも買えるわけではない。
シャツ一枚だって綻びがあれば繕って大事に使い、上着は何年でも使用できるように何度も試着してから慎重に選ぶ。
数度着れば処分させていた頃とは違うのだ。
夜会に着ていた礼装に至っては、二度着ることはなかった。
あの一枚でも持ってくることができていたら、一体いくらで売れていただろうか。
考えても仕方がないことだ。
そうして一人で暮らし始めてから一年経ち、孤独に暮らすロバートを心配してか、職場の上司から紹介したいお嬢さんがいるのだと言われたのは当然の話なのかもしれない。
個人資産ではないが、ロバートが生きている間は住むことのできる家。
貴族かと思われる整った容貌をし、平民としては仕事の安定した優良な物件だ。
過去を知らなければ引く手数多だろう。
そう冷静に考えられる程に、ロバートは今の自分を客観的に見れている。
いや、客観的にしか見れなくなった。
アルフレッド殿下への淡い期待は数年で消えている。
間もなく卒業のはずだが、宰相であったバーリー侯爵家の助力も無いままに過去と同じ道を辿れるはずがないのだ。
元は側近であった者達も、今はどこにいるのかわからない。
そんな殿下を気遣うだけの余裕も無ければ、手助けする術も無い。
今のロバートにできることは自分一人が何とか生きていくことだけ。
あの時アルフレッド殿下がベアトリス嬢と円満な婚約解消をしていれば、スペアとしての役目を終えた時点でアリスと結婚できていただろう。
王族であり続けることはできないが伯爵位くらいが与えられ、生涯穏やかに過ごすことができただろうに。
全てを失わずにアリスを得ようとする欲深さと、自分達ならば何とかなると思った傲慢さ。
気づいたとしても、何もかもが今更だが。
上司に勧められるままに見合いの席が用意され、町の小さなカフェテラスで向かい合って座る女性は落ち着いた雰囲気だった。
ロバートを見て苦笑を浮かべると、この話は無かったことにした方がいいのかと尋ねられる。
彼女に対して悪い印象は無かったので、何故そんな質問をされるのかと不思議に思って見れば、緊張も気負いもなく他人事といった感じなのでと返された。
「ロバートさんは好きとか嫌いとかいう前に、私に対してそこまで興味がないでしょう?
もしくは人と関わり合いになりたくないとか」
言われたことのない言葉に思わず目を丸くし、そして何となく腑に落ちた。
現実を突きつけてくる母を避け、下らない希望に期待することを止め、誰かに頼ることを忘れた自分は、人との関りに線を引かないと生きていけないのだ。
誰に何かを望むことなどしないし、明るい未来なんて信じることもない。
きっと目の前の女性と結婚するとなっても変わらない。
「そうですね。きっともう、これは変わらないと思うので、貴女の方から断ってくれたほうがいいかと思います」
女性は気にした様子も無いので、ロバートのことを聞いた上で話に来たぐらいのつもりだったのかもしれない。
テーブルに飾られているのは薔薇だ。
母が好んだ花で、かつていた侯爵家では種類豊富に咲き乱れていた。
そういったことを思い出しても、もう感情が揺れ動くことはない。
きっとこうして心が凍りついたまま、死ぬまでロバートは生きていくのだろう。
「せめてケーキを食べてから帰りましょうか。
私の給料だと年に一度食べられるかどうかなので」
朗らかに告げる彼女につられてフォークを持つ。
季節の果物がたっぷり使われたタルトは、ロバートの給料でも滅多に食べられない。
この場の支払いは紹介してくれた上司持ちとなっている。
帰りにこの店でお詫びの焼き菓子でも買っていこうと決めて、タルト生地へとフォークを入れた。