10. その頃のサージェント侯爵夫妻は
お急ぎ便で追加した話ですので、いつも以上に誤字脱字、言い回しのおかしな部分が多いかと……
職人さんたちのご報告、待ってます。
「アグネスが嫁いできてくれてすぐにベアトリスを授かったから長く三人で過ごしてきたのに、こうして二人だけになったから少し寂しくなるね」
「でも旦那様はずっといてくださるのでしょう?
だったら平気ですわ」
「……思わぬ不意打ちに、年甲斐も無くときめきそうになるんだけど」
可愛い娘の旅立ちを見送った夏半ば、サージェント侯爵家の食堂は夫妻だけとなり、夕食の席で交わされる会話を使用人の誰もが微笑ましいといわんばかりに見守っていた。
仕える主夫妻の仲は大変良好である。
長らく働く者なら、これが結婚当初から変わらないのだということをよく知っている。
だからこそ、年の離れた二人目のアンジーお嬢様が生まれたのだけれど、時折こうやって年若い恋人のような姿を見せる二人に何か言う者はいない。
誰もが新しい子の誕生を心待ちにしているのだ。
それが早まったとしても、また家族がそれ以上に増えたとしても大歓迎なのだから。
今日も今日とて仕事をこなして休憩時間をもぎ取ると、いそいそと妻をお茶に誘うべく部屋へと伺う当主アーロン。
外出する予定の無い日はシャツとベストだけといった具合にかしこまった服装はしないのだが、妻をお誘いするときはしっかりとジャケットとタイを忘れず、朝のうちに妻の好きな花を手配するように言い付けて、お茶の手配もばっちりだ。
すでに季節は春に入ったことから、日差しの暖かいサンルームにお茶会の席が整えられていた。
ミルクの入った紅茶は温かみを感じさせ、軽食のサンドイッチはサーモンやキュウリと軽いもので、代わりに温かな橙色のポタージュが小さなカップで添えられている。
焼き菓子とケーキも用意されているが、メインとなるのは瑞々しい果実たち。
そのまま食べるだけではなく、濃厚なチョコレートソースやクリームも用意されていて、飽きずに食べられる配慮がありがたい。
薄く延ばされた飴もあり、果物と一緒に口に入れれば異なる食感を楽しめるだろう。
お茶会というのだからお茶の添え物であるはずが、これではどちらがメインなのかわからない。
ちょっと張り切り過ぎな気もするが、妻が喜んでくれるならばアーロンとしては問題なかった。
始まるのは穏やかな時間のはずだったが、このところアーロンが忙しかった理由を妻はよく知っている。
「思ったより早く、バーリー侯爵家の罪を王家に報告したのですね」
「ベアトリスが帝国に留学したのは彼らがいるせいだからね、早く帰れるようにさっさと処理をしておきたかったんだよ」
「そう言っていますけど、ベアトリスが帰ってくるのが卒業後なのは変わりませんよ」
サージェント侯爵夫妻が娘を送り出して暫く後、貴族の令息令嬢達が学園へと通い始める爽やかな季節に罪が暴かれ、バーリー侯爵家の不正は貴族社会のみならず、平民達の間ですら噂になっている。
噂には尾ひれが付くもので、気づけば盛りに盛られた卑劣な悪徳宰相が出来上がっていた。
間違いないので告発したアーロンは否定をしないし、あまり義憤に駆られて行動したという印象を与えると他の貴族から敬遠されるのもわかっているので、ついうっかり知ってしまったばかりに……といった風を装っている。
それもこれもベアトリスのためと、それから最愛の妻のためだ。
チョコレートソースが、と妻に口元を拭われながらニッコリと笑う。
「あの時にアグネスのした思いを、あいつらに返さないと気が済まないからね」
** ** *
サージェント侯爵夫人であるアグネスは元ウィルコート侯爵令嬢であり、現国王ハロルドの婚約者候補の一人でもあった。
元王太子であったハロルドが若かりし頃は釣り合う年齢の令嬢が多く、誰もが次期国王の心を射止めんとしている中、王妃に相応しい人物をと厳選して選ばれたのが三人の令嬢。
一人はコンスタンス・バシュレー公爵令嬢。
一人はエセル・バーリー侯爵令嬢。
そして最後の一人がアグネスだ。
ただ、他の二人がハロルドと同じ年であったことに対し、アグネスだけが三つ年が離れていたのが災いした。
年齢だけみれば婚約者として問題無いが、他の婚約者候補とは大きく差がついてしまう。
実際、若い頃のささやかな年齢差は意外と話が合わなかったりするもので、特に他の婚約者候補が同じ年齢で学園での話も弾むことから、段々とハロルドはアグネスと疎遠になっていったのだ。
最終的には王太子であったハロルドが卒業パーティーでコンスタンスとエセルだけ呼び出し、大々的にコンスタンスに求愛するという行為に出ていた。
選ばれなかった令嬢の方、エセルは「アグネスのことを忘れているんじゃないわよ!クソ間抜け共が!」と当時は側近であった宰相である兄を殴ったのは今でも語り草になっている。あれはいいこぶしだったと騎士団の中では特に有名だ。
緊張から影の薄いアグネスを忘れていたハロルドが取り繕うように謝罪したが、コンスタンスから了承の返事を貰って舞い上がっていたことから酷くおざなりなもので。
結局この件で、アグネスは存在すら忘れられてしまう数合わせ令嬢として囁かれることになった。
バーリー侯爵家は側近であった息子の不手際など一切無かったと主張する一方で、今のままだと貰い手が無いだろうから可哀想なのでと優秀なアグネスへの婚約話を持ち込んできたが、末娘を溺愛しているウィルコート侯爵が熊をも射殺せそうな剣幕で断るという攻防戦が繰り広げられる中、颯爽と横槍を入れたのがサージェント侯爵だった。
当時のアーロンは卒業パーティーで事の次第を見ていた傍観者でしかなかったが、その実アグネスとの付き合いは長い。
入学して早々に、図書室を探して彷徨うアグネスを見かけて案内して以来、図書室でよく会っていたのだ。
当時の王太子や他の婚約者候補たちとは年が離れていることから学園生活の多くを一緒に過ごすことなく、他の候補者よりも幼い彼女は王太子と話が合わずに疎遠であり、そのくせ他の婚約者候補達と同じだけのレベルを求められることから、常に忙しくしているので同級生達とも親しいと呼べるだけの関係を築けないまま。
エセル・バーリー侯爵令嬢が気にはかけてくれてもいたが、自身も婚約者候補として忙しいとあれば関わりを持つのも難しい。
そうなると調べもののために通い続ける図書室で会うたびに、せっせと世話をしてくれるアーロンと親しくなるのは当然のことで。
もっともアーロンはアグネスの控え目で儚げな雰囲気と、そのくせ少し頑固なところに心を鷲掴みにされて、お近づきになりたいという下心を隠しながら図書室に通っていただけだったが。
これにより、まんまと親切のお礼として王太子に渡せぬままだった刺しゅう入りのハンカチを貰ったり、アグネスの家族の情報を入手したり、彼女の様子から婚約者候補として上手くいっていないことまでも察していた。
婚約者候補から解放された今が好機とばかり、秘めた想いを以前から抱いていたという、学園での優しい先輩という立ち位置で登場したアーロン。
無関係な人間は引っ込んでろというバーリー侯爵家を尻目に、無事にウィルコート侯爵のお眼鏡に適って婚約に漕ぎつけたのだ。
最初はアグネスが懐いているのが気に食わなさそうなウィルコート侯爵だったが、過去の図書室エピソードが披露される度に任せても安心だという信頼に変わっていく。
贈る物だって王太子の婚約者候補だった令嬢に相応しいものとして、金に糸目はつけずに質と品の良い品を、そして彼女を理解しているアピールだとして王太子がついぞ一度も贈らなかった彼女の好きな花や本、婚約者の色をしたドレスだって当然用意した。
軽んじられてはいないのだと、大量の贈り物を人が多い週末に自ら買い込んで注目を浴びたまま、丸ごと馬車二台分をウィルコート侯爵家に届けさせたりもしている。
さらには先にアーロンが卒業しているから一人で学園にいるのは辛いだろうと、寄り子の家の令嬢達に頼んで一緒に過ごしてもらう。
卒業する時には王太子が婚約者候補の人数すら把握していない間抜けぶりを晒した伝説のパーティーは笑い話となり、卒業パーティーでエスコート役として参加したアーロンと仲睦まじく互いの色を纏って登場したかと思えば三曲続けて息の合ったダンスを披露し、年若い少女達から憧れの眼差しを送られることとなった。
かくして数合わせ令嬢は、恋愛小説にありそうな素敵なハッピーエンドを迎えた、幸せな令嬢として汚名を返上したのだった。
アーロン的には大勝利である。
ちなみに兄を殴ったエセル・バーリー侯爵令嬢については、実家とは縁を切ってウィルコートとサージェントの援助で帝国に渡り、現在は辺境伯夫人として辣腕を振るっている。
そしてウィルコート侯爵家は王太子の派閥と関係を結んでいたが、アグネスに起きたことを機に完全な中立派となった。
当時の国王からは丁重な謝罪と、王太子に非があったと宣言がされたが許す気になれなかったとのことで、今なお王太子であった現国王ハロルドと出会うことがあっても挨拶程度の関りしか持たない。
とはいえ、当主が代わってからは今の王太子であるフレドリックの派閥に属すようになったが、それも想定内ではある。
** ** *
逆行する前の記憶を持つ者の中には、現ウィルコート侯爵も含まれる。
アグネスの父親ではなく、兄の方だ。
父親の方の記憶を残したら、すぐさま反乱でも起こしそうなので止めておいた。
猪突猛進な父親だけではなく兄達も年の離れた末っ子のアグネスを可愛がっていたことから、アグネスに似た控えめな微笑みの下に隠された憎悪は現国王とバーリー侯爵家に向けられている。
特にウィルコート侯爵家が注目したのは、サージェント侯爵家を死に追いやった違法薬物の栽培だ。
あそこまで都合良く証拠が揃うのはおかしいとして、時を戻した直後からバーリー侯爵が証拠として出していた商会を徹底的に調べ始めたのだ。
時を遡る前にバーリー侯爵家が証拠として提出した書類の中に商会の名前があったことから、国外であっても商会を見つけることは比較的簡単だった。
本拠地が帝国にあるからバイヘル辺境伯に協力してもらい、辺境伯夫人にて調べた結果が悪い意味で何でも取り扱う商店だったということ。
この結果がウィルコートとサージェントに共有され、商店への牽制とジョージを売り飛ばす先にする為、サージェントが接触した。
まさかバーリーの末っ子も大切な仲間が、父親の悪事に関係した先にいるなんて思っていなかっただろう。
バーリー侯爵家よりも先に接触したサージェントが釘を刺すことで、前回と違って架空の商会を作ってバーリー侯爵家と取引を始め、そして商会の方も何かあったときにバーリー侯爵家に全てを押し付けて逃げられるように、バーリー侯爵とその関係者の領にある港で密輸を実施する。
こうすれば侯爵家なんて大物の方に目が向けられている間、必要最低限であった張りぼて商会はすぐさま姿を消して、店員たちの逃亡時間を稼げるからだ。
ウィルコート侯爵は商会をも捕まえようと考えたらしいが、今回の出来事の一役を担ったジョージがいることを教えれば、微笑みのままに商会からは手を引いた。
気を付けないと後日ジョージを攫ってくるかもしれないので注意はしている。ことアグネスが関わると、ウィルコートの者達は大分ネジの外れた懐中時計のように不安定になるので少々心配ではある。
先日も互いに状況の報告をしていたが、穏やかな笑みを浮かべた義理の兄はいつものように、今日飲んだお茶の話と同じレベルでバーリー侯爵家の結末に憎悪と喜びの言葉を垂れ流し、逃げおおせた夫人とロバートの後始末をどうするつもりなのか確認するぐらいには執念深い。
「私はね、家族思いなんだ」
その言葉に同意しつつ、あれはベアトリスの取り分だから何かしないように頼むのだけは忘れない。
家族思いなのはアーロンだって自負している。
そう簡単にはウィルコート侯爵に譲るつもりはない。
新しい宰相の座には国王の弟であるウィンザード公爵が就いたが、それでもウィルコート侯爵はフレデリック王太子派の中で高い地位にいる。
王が代わる時には発言力が増すだろう。
その権力をどう使うつもりかはわからないが、アグネスが心配しているので程々にするよう時折注意するつもりだ。
同時にウィルコートの子ども達がいらぬことに巻き込まれないように注意しておかなければならない。
秘宝は壊れたので、もう使えない。
あの時はアーロンや前侯爵の魔力のみならず、アグネスや使用人の微々たる魔力まで吸い上げてしまった。
サージェントの魔力でなければあまり意味が無いにも関わらずだ。
結果として莫大な魔力を溜め込んだ秘宝は大幅に時を戻したものの、魔力量に耐え切れず壊れてしまっている。
時を戻す為だと知っていたとしても、魔力を捧げて身動きできず、命が失われていくのを感じながら死ぬのは恐怖であっただろう。
そこまでの忠誠を誓った使用人達には今まで以上の待遇を与えたし、一時的な褒賞と、少人数ずつで回していくことになるが長期的な休暇も用意した。
アグネスにだって今まで以上に感謝の気持ちを伝えることができないかと、できることを探す日々だ。
けれど、誰もがあの時を悪夢として思い出すのを知っている。
あの日の悪夢に魘されるアグネスを見る度に、他の使用人達もそうなのかもしれないと思い知らされる。
ベアトリスやアーロンのように悪夢すら復讐の糧にできるのならばいいが、誰もが強い心を持っているわけではない。
全てが終わるまでは、配慮を忘れずにいなければと思いながら、その思いを表情に出すことはしない。
主の不安は使用人に感染する。
誰よりも強くなければならない。
愛しい妻と向かい合うアーロンの表情は笑顔だった。
2024/1/13 一部差し替えをしました。