9. ロバート・バーリー侯爵令息は戻れない
学園の始まりを告げる、入学式の日。
明るい陽射しに照らされた正門から校舎へと続く道で、あの時と同じようにロバート達はアリス・ホワイトと出会わなかった。
生徒達から好奇な視線を向けられたり過剰な接触、場合によっては人混みの中で命を狙われたりといったことがないよう、王族とその側近は昼食用の個室が確保されている。
休憩早々に専用の個室に籠ったアルフレッド殿下とロバートが入手した学生名簿を確認しても、アリス・ホワイトの名前は発見できなかった。
本年度の特待生は存在せず、該当者無しの記載がされているだけ。
それどころか、ベアトリス嬢もいない。
大分前から子爵家にいるのかすら危ぶまれるジョージも、こまめに返信のあったルークすらも入学しておらず、一体何が起こっているのかと混乱するばかり。
「一体どういうことだ」
「わかりません」
ロバートも困惑しながら再度名簿を確認しているが、やはり誰も見つけられない。
さほど交流はしていなかったが、記憶しているはずの令息や令嬢の名前も見かけない気がする。
とりあえずは調べるしかないが、サージェント侯爵家を探ることに関してロバートの父親はあまりいい顔をしないだろう。
言い分では調べる理由がないこと、同格の相手なことから調べたことが知られたら、場合によっては公の場で抗議される可能性もあるからだ。
相手に瑕疵が無ければ猶更。
そして今のベアトリス嬢に瑕疵はない。
「これはベアトリスの仕業だな」
顔に焦燥と怒りを滲ませたアルフレッド殿下の言葉に、おそらくは、とロバートは頷く。
「まさかここまで執念深いことをしてくるとは、私の愛を得られなかったことがそんなに恨めしいか」
絞り出された声には怒りを滲ませており、テーブルをこぶしで殴った。
時を遡る前に断罪したベアトリス嬢による秘宝の盗難は、ロバートが提案し、アルフレッド殿下が行動に移した結果だ。
アルフレッド殿下がどれだけ説得しても婚約破棄に応じないと相談されたからだが、当時は物静かな令嬢だと思っていただけに、アリスを虐めている令嬢達の中心人物だと聞いた時には意外だった。
サージェント侯爵家の違法薬物販売という罪については父親である宰相が証拠を集めてくれていたが、正規の手順で行われた手続きによるものだったかといえば少しばかり疑わしい。
どうせアルフレッド殿下の方に問題があるとされれば、王家の信頼を脅かしかねないと事を急いたのだろう。
今のサージェント侯爵家はまだ悪事に手を染めていない可能性がある。
危険視していない相手に対して、父親が協力してくれるとは思わなかった。
とりあえず父親に話すのはまだ暫く不要だとして、母の生家に頼んでみることにする。
母方の祖父は孫の中では末っ子となるロバートに甘い。同じく末娘であった母親が頼めば、サージェント侯爵家について調べてくれるはずだ。
少し日にちがかかるが、それを待つしかない。
「なんだこれは」
祖父に頼み込んで調べてもらった数枚の調査書がロバートの手の中にあるが、そこには信じられない内容が簡潔に記されていた。
アルフレッド殿下と一緒に確認しようと、事前に確認もしないまま持ってきたことを後悔する。
だからといって、もし事前に報告書の内容を読んでいたとしても、ロバートに出来たことはアルフレッド殿下に渡すのを数日遅らせることぐらいだ。
そんなもの、何の解決にもならない。
アルフレッド殿下の握りしめたこぶしの指先が白く変わるのを視界に入れないようにしながら、ロバートも悪夢のような報告書に目を通し始めた。
『メイン調査対象であるベアトリス・サージェント侯爵令嬢は、現在帝国設立の学園にて留学中。
婚約者と行動を共にしていることから、おそらくは婿入り予定のテオドール・バイヘル辺境伯令息の誘いに応じて留学したと思われる。』
『調査対象であるジョージ・デネル子爵令息が子爵家にいることを確認できず。
子爵家からは失踪届が出ていないことから、何らかの事情にて領地に封されている可能性もあると考えられる。
ただし、領地のカントリーハウス周辺を軽く確認するも姿を見ることは無し。』
『調査対象であるルーク・クラーク子爵令息は、婚約者を伴って帝国に留学中。』
「おかしくないか。
ルークの婚約者は学園で見かけたはずだ」
焦燥感を隠さぬままにアルフレッド殿下が口にした言葉は、ロバートも不思議に思っていたことだ。
ルークの婚約者はテイラー男爵令嬢だが、先日廊下で燃えるような赤毛を見たところだ。
彼女の赤毛は燃え盛る炎のようだと言われるほどで、誰かと見間違えることはない。
『調査対象であるアリス・ホワイトは、婚約者に同行し留学中』
は、と思わず声が出た。
一つ前、ルークと共通する内容。
これでは、まるで、
「二人が婚約しているみたいじゃないか」
文字を辿る指が震え始める。
『アリス・ホワイトの後見人はサージェント侯爵家となり、彼女の素質を見込んだベアトリス・サージェント侯爵令嬢の留学に同伴する人物として指名された経緯がある。』
アリスは平民であり、だからこそ成績優秀であることを周囲に認められなければ王族と高位貴族の立場では、彼女に出会うことが難しい。
だから焦がれる思いで学園の入学を待っていたというのに、ベアトリス嬢が、あの女が横から搔っ攫う真似をするなんて。
『サージェント侯爵家の采配により、寄り子であるクラーク子爵令息とアリス・ホワイトの婚約が整えられたという話が確認できている。』
手から調査書が滑り落ちていく。
紙が床やテーブルへと音もなく落ちていくのを他人事のように眺めながら、いっそ赤の他人の調査書類だったらどんなによかっただろうと切実に思う。
ロバートの向かいで、ギラギラとした殺意を満たした瞳が落ちていく紙を見ている。
「嘘だ」
ダン、とこぶしがテーブルに落とされた。
「殿下、落ち着いてください!」
「嘘だ嘘だ嘘だ!」
テーブルの茶器が薙ぎ払われる。
床に落ちた食器がぶつかりあって、軽い破壊音を立てながら割れていく。床の絨毯が茶を吸い込んで変色し、昼食の魚料理に添えられていたキャロットグラッセが落ち着いた色合いの絨毯に彩りを与える。
アルフレッド殿下の剣幕に怯え、近くで控えていた使用人たちが顔色を変えて外へと飛び出した。
あの様子では担任か理事長の部屋まで行っただろう。
肩で息をしながらアルフレッド殿下が、どろりとした怒りを瞳に宿しながらロバートへと視線を向ける。
「……あの時、ルークは触ったよな?」
「はい?」
アルフレッド殿下の手が床に落ちた調査書をノロノロと拾い上げる。
「あの秘宝だ。
記憶を残しているのだから、お前に手紙を返していたんだろう?
だったら仕える俺のために、死んでもアリスとの婚約を拒否するべきだったのに。
これがルークの望んだ選択ならば、俺はあいつを殺してやる」
アルフレッド殿下の手の中で、ぐしゃりと紙が握り潰された。
その後のことは内々に片付けられた。
昼食時に利用していたということもあり、あの部屋の周囲に人が近寄らないように学園の護衛が目を光らせていたこともあって、近くに生徒は誰もいなかったことから騒ぎを聞かれることが無かったのだ。
理事長自ら赴いて状況を確認するとアルフレッド殿下とロバートには苦言を呈されたが、殿下がそれどころじゃない様子なことから早退を勧められて帰っていった。
学園で働く使用人達には箝口令が敷かれ、食器は偶然ぶつかって落ちたものだとして片付けられることとなる。
もっとも王家には正確な報告が届けられるだろうが。
アルフレッド殿下同様に早退を命じられたロバートは教室の勉強道具もそのままに帰ることになってしまった。
追って授業であった課題を知らせてくれるとのことだが、以前に勉強した内容だからアルフレッド殿下もロバートもそう困らないだろう。
それよりも後でアルフレッド殿下の様子を父親に報告しなければいけないと滅入る気持ちを抱えながら、迎えがきたとの知らせを受けて校門から出てすぐにある馬車の待機場所へと向かう。
そこには妙に焦った顔の使用人がロバートを待っていた。
** ** *
家の中は嵐のようだった。
騎士や文官らしき者達が声を掛け合いながら廊下を行き来している。
誰でもいいから何事なのかと問う前に強い力で腕を引かれ、階段の陰へと連れ込まれた。
何をするんだと言おうとして顔を上げれば、そこには酷く顔色の悪い兄がいた。
「静かに。あまり大声を出すと、お前までもが連れて行かれる」
「兄上、これは一体?」
「違法薬物の摘発だ」
思わず息を呑んで兄の顔を凝視する。
「父上が昨年法案として提出して却下された、病による痛みを緩和させる医療薬を憶えているか?
あれと原材料の植物を売り捌いていたそうだ。
法案が通るだろうという甘っちょろい見通しで秘密裏に仕入れていた挙句、家族にも相談せずに栽培を始めていたらしい」
吐き捨てられた言葉の意味が形を成せば、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。
違法薬物の栽培。
聞き覚えのある言葉だ。
サージェント侯爵家の違法薬物栽培。バーリー家が何故か集めていた証拠の数々。
あれがもしバーリー侯爵家が行っていたことで、アルフレッド殿下の行動に便乗してサージェント侯爵家に罪をなすりつけたのだったとしたら。
途端にゾワリと背筋に悪寒が這う。
じわじわと広がる、呼吸すら苦しくなる事実にいっそ意識を手放してしまいたかったが、腕を掴む兄の力が思いのほか強くて、押し寄せる事実に溺れることしかできない。
「家にいる使用人の古参か新参かはわからないが、誰かがサージェントかウィルコートに通じていたらしい。
ここで得た情報はまとめられ、フレデリック殿下に報告されていたそうだ。
あの、変人達め。狩猟感覚で犬を潜り込ませてきたのだろう」
今度こそ息が止まるかと思った。
同時に理解する。
サージェント侯爵家は冤罪を押し付けてきたバーリー侯爵家こそ怪しいと思い、時の戻った今度こそ陥れられない為にと我が家に人を潜り込ませたのだ。
だとしたら、ベアトリスだけじゃない。
サージェント侯爵夫妻も以前の記憶を持っているのだ。
「せめて密輸に使った港が他貴族の領だったなら罪を被せるなりできただろうが、取引先だった商会は父上にも内密で同じ派閥の貴族の領にある港を使っていたとのことだ。
しかも商会は名前だけの張りぼてとくれば、尻尾の部分だけ切って逃げるのも早い」
あの父上らしくない見落としだと、溜息を隠そうともしない兄の顔は酷く疲れていた。
「これから父上は尋問を受けることになる。運良く死刑とならなかったとしても爵位返上は免れないだろう。
母上は早急に離縁できるよう手配しているとのことだから、今すぐに生家に帰す。あちらの伝手で仕事を紹介してもらえば、お前は平民としてでも生きていけるはずだ」
腕を掴んでいた手が離される。
「あ、兄上はどうするのですか?」
「私は逃げることなんて許されない。
父上の罪に気付けなかった、嫡子の私にも責任は問われることになる」
ロバートの声もだが、兄の声だって穏やかであるように努めていながらも震えていた。
「母上付きの執事に頼んでおいたから、証拠集めに忙しい騎士達がお前の存在を思い出す前に、今の間に母上を連れて家を出るんだ。
母上を頼んだぞ」
いつの間にか近くにいた使用人に背を押され、何度も振り返りながら廊下を進む。
すぐに母親の部屋へと連れていかれ、ロバートをきつく抱きしめた母親が暫くして顔を上げれば、ロバートの手を引いて歩き出した。
幼子の時より長らく繋ぐことのなかった母の手は華奢でありながら、緊張からか思いがけないほど強い力で握られた手。
目立たぬように裏門から少し離れた路地で待機していた、家紋のない質素な馬車に詰め込まれる。
馬車に乗り込む前に二度と見ることが出来ないだろう我が家を見れば、二階の窓からこちらを見ている兄の姿があった。
** ** *
それからのことは時が早いようで、そのくせ遅いようでもあった。
母親の兄が当主である伯爵家では厳しい表情で迎えられ、姿を隠すように別邸へと移される。
その晩の内に伯父である彼からは、二つの選択肢からどちらかを選ぶか迫られた。
一つは、母とともに伯爵領の片隅に用意された家で、慎ましく穏やかに生きること。
もう一つは、ある程度の資産を貰ったうえで絶縁し、この王都で自力で生きていくこと。
どちらも平民になることが前提だ。
後者なら平民が五年困らない程度だという金額を提示されたが、侯爵令息であったロバートにはささやかな金額でしかなく、この資産を元手に増やす方法も、平民らしい生活の送り方なども知らない。
服の一枚すら畳んだことのない自分に平民の生活が送れるとは思わなかった。
母に付いていけば贅沢はできないものの、数は少ないが使用人が世話をしてくれる。
血縁である母親が亡くなった後にも同じ生活を保障してくれるかはわからないが、少なくとも平民の生活に馴染むには段階が必要だ。
それに兄からは母のことを頼まれている。
そして今、王都から離れていく粗末な馬車に乗って、伯爵領へと向かっていた。
あれから父親と兄がどうなったかを聞けていない。
死刑となったから教えてもらえないのか、それとも罪を暴く途中で刑が決まらないのか。
感情の凍り付いた母親は窓の外を見ながら、顔色の悪さを化粧で隠せずにクッションにもたれたままだ。
宰相の妻という華やかな立場から一転し、貴族籍を持たぬ者へと滑落したのだ。
それに父親とは政略結婚ながらも仲は非常に良かった。
秘密があったことなどもショックだろう。
新しい家に着いたら暫くは母親から離れない方がいい。
母に残された思い出の品は、バーリー侯爵家から出るときに身に着けていたいくつかの宝石のみ。ドレスなど持ち出せる状態では無かったし、家を出るときに着ていたドレスも売りに出して金へと換えられている。
今着ている母のドレスはそこそこの男爵夫人が着ている程度のものだ。
ロバートの持ち物は平民を基準として揃えられた肌触りの悪い服や足に合わない靴で、バーリー侯爵令息だった名残の品は学園に置いていったことで運良く手元に返ってきた僅かな勉強道具ぐらい。
誕生日に父親から贈られた美しい万年筆と、兄から贈られた懐中時計はこれから使うことなく大切な品として、引き出しの奥へと仕舞われることになる。
もし、時が遡る前の時点で父親の対応に違和感を覚えていたら。
もし、時を遡った直後に早く行動していたら。
そうしたら何か変わったのだろうか。
あの秘宝がアルフレッド殿下の手にあれば、戻った時間次第で告発前に隠蔽することもできるだろうが、当時宝物庫の鍵は陛下と王太子殿下預かりであり、彼らが不在になることからアルフレッド殿下が一時的に預かっただけにすぎなかった。
常に所持している物でないことから、このタイミングで秘宝が手に入ることもない。
よしんば未来で鍵を預かる機会があったとしても、その頃には年月が経ちすぎてアルフレッド殿下では求める時間まで巻き戻すことはできないだろう。
唯一ロバートが救われる道は、アルフレッド殿下が再びベアトリス嬢を追い詰めて、彼女にもう一度時を遡らせることだ。
けれど無力なロバートに出来ることはアルフレッド殿下に期待して、慎ましい生活を送りながら待つことだけ。
絶えず付き纏う不安を振り払いながら少しでも気を紛らわそうと、手元にある数少ない勉強道具を取り出した。
体調不良で今晩は次話のチェックができないのと、できるなら間にもう一話挟みたいなぁという欲望から、土曜の投稿はお休みとなります。