8. アリスのお茶会
「ベアトリス様には感謝しています」
付け焼刃である行儀作法を披露しながら、アリス・ホワイトは感謝の言葉を述べる。
それに応えるように優雅な所作でカップを手にしながら、ベアトリスが微笑んだ。
「いいのよ、今やクラーク子爵家は当家の寄り子なのですから」
サージェント侯爵家の庭で行われているお茶会は、間もなくベアトリスが旅立つ準備に忙しい期間であっても、アリスの行儀作法の勉強にと開かれたものだ。
「まだまだ行儀作法は学び続けなければいけないでしょうけど、それでも始めたばかりだというのに随分と成長しているわ。
留学中も暫くは家庭教師を付けてもらうつもりだから、いつかクラーク子爵令息が騎士爵を得る時には、貴女も立派な淑女の一員じゃないかしら」
「だといいんですけど」
苦笑したアリスが何気なく戻したカップが陶器同士のぶつかる軽い音を立て、やってしまったとばかりに表情が変わる。
「以前の貴女は学ぶ機会を与えられなかったせいでもあるのだから、焦らず、気長に学び続けるといいわ」
ベアトリスがとりなすように言えば、アリスが困ったように笑った。
「勉強とは勝手が違うから、すごく苦手で」
「送っていた生活の影響ね。
今まで生きていて当たり前の行動が全て否定され、それを塗り替えるのですもの。
変わる、ということは難しいことでしょう」
後は彼女の努力次第だ。
「彼が騎士爵を得るよりも先に、貴女が出世しそうだけど。
だから尚更、今の内に身に付けておいた方がいいの」
以前のアリス・ホワイトという人物は、平民から選ばれる特待生という待遇を獲得する程に優秀だった。
それだけの素質は今だって兼ね備えている。
特に薬草学と錬金学に長けており、アルフレッド第二王子に見初められさえしなければ、国が管理するいずれかの研究所で働くことだってできていたはずだ。
今回だって優秀な成績で新しい学園の門を叩くことが決まっている。
優秀な頭脳を他国に譲るのは非常に惜しいが、新しいコネクションを得られると思えば悪いことではない。
何より、アルフレッド第二王子を出し抜けるのだから。
「それで、アリス。
貴女はこの結果に満足かしら?」
ベアトリスの言葉に、アリスが薄く微笑む。
「当然です」
アルフレッド第二王子の運命なる最愛。王子様との恋を手に入れた物語に出てきそうな乙女。
けれど、ベアトリスは知っている。
「だって、私はアルフレッド殿下なんて好きじゃなかったんだから」
恋なんて始まってもいなかったことを。
時を戻す前、義務とはいえアルフレッド第二王子を見守っていたベアトリスは気づいていた。
アルフレッド第二王子の腕の中、どんなに彼の言葉に笑顔を見せていたとしても、彼女の視線は別の人間を見ていたのだから。
その別の人物もアリスのことを見ていたが、どちらも視線を合わせることのないように気を付けていたから、あのグループから少し離れた位置で観察しないと気づかなかっただろう。多分知っていたのはベアトリスぐらいか。
あの愚かな男の婚約者であったときは義務感からアリスのことを調べ、進路に関しては国が管理している研究所への就職希望を、地方の研究所に変えていたのも知っている。
何故かなんて考えるまでもない。アルフレッド第二王子の独りよがりの片思いでしかなく、そして立場の弱さから押し切られるままに傍に置かれ、なんとかしてその寵愛から逃げようとしていたのだ。
知らなかったのは恋に狂った愚かな道化師だけ。
そんな彼女がベアトリス断罪の時に何も言わなかったのは、アルフレッド第二王子の立場を慮ったのではない。
アリス同様にルーク・クラークの地位の低さから、偽りが露見すれば無事には済まないと思っていたのだろう。
よしんば真実を証言したとしても、王家に命ごと揉み消される可能性だってある。
あの王家の威信ばかりを気にする国王ならばやりかねない。
彼女は真実と愛を天秤に掛けて、そして愛する人を取っただけだ。
アリスの選択を狡いとは思っていない。
「ベアトリス様は私を許せないでしょうね」
アリスの言葉に、ぷつりと糸が切れるように会話が途絶える。
躊躇なくベアトリスを見つめる視線の強さ。
本当にアルフレッド第二王子が絡むことがなければ、彼女は平民であるにも関わらず出世し、そしてこの国で大成しただろうに。
「そうね、許してはいないわ」
音も無くカップが置かれ、逸らすことなく視線を返す。
「でも、感謝もしているの。
貴女がいたからアルフレッド殿下は愚行に走り、けれど貴女がいたからサージェントは時を戻して以前とは違う未来へと進んでいる」
これもまた事実だ。アリス・ホワイトが現れなかったらアルフレッド第二王子と結婚し、そして無能な男達によって公務を担う消耗品の役割を担っていただろう。
「だからね、アリス。クラーク子爵令息が全てを捨てた代償として生かしてあげるわ。
アルフレッド殿下が王族の一席に座る間は、貴女もクラーク子爵令息もこの国には戻れない。
だって、このことをアルフレッド殿下が知ったら、どうなるかわかるでしょう?」
もしベアトリスの復讐の先で、まだしぶとく王家の椅子に縋りついているようであったら、あれがルーク・クラークを殺害してアリス・ホワイトを手に入れるのなんて、彼の性格を知っている者ならば誰だって想像できる。
よしんばアルフレッド第二王子が豪華な椅子から滑り落ちたとしても、二人が帝国で叙爵されるのならば、この国に帰ることは許されないだろう。
それを強引に押し切った時にどうなるかは帝国の威光がどこまで届くか次第だが、帝国の圧力とたかだか平民二人を天秤に掛けたときに、この国が二人に価値を見出すことはないと断言できる。
適当な罪でも作り上げられて、帝国に強制送還されるよう処理されるはず。
帝国で爵位を戴く、それはつまり帝国に帰属することを意味するのだから、彼らの母国は帝国となる。
彼らはそこまで大層な話になるとは知らないだろうが、かつて彼らが学園で青春を謳歌していた頃にうっかり帝国で叙爵してしまった留学生が帰れなくなったトラブルを、公務に見向きもしないアルフレッド第二王子の代わりに対応したのはベアトリスだ。
アリス・ホワイトは留学して程なくすれば気づくだろうが、それでも国に帰れない以上は、帝国で爵位を授けられる選択肢しか残されていない。
気づいたところでもう遅い。
ベアトリスは留学が終われば帰国するので、それ以降の二人の面倒を見る必要はない。
二人を帝国へと連れていくのはベアトリスだが、そこに残ることを希望するのは二人なのだから。
帰国を勧めるベアトリスの意向に従わず、帝国で生きていくと決めた二人をサポートしてやる必要はないというのがサージェント家の書いた筋書きだ。学園の卒業と同時に、援助金は打ち切られる。
そして事情を知らぬ彼らの家族からも戻らぬことを非難され、それも国が違うことで疎遠になっていく。
それ以前に短い学園生活で将来有望な人材だと認められなければ、彼らは帝国で生きることを許されずに国へと帰るという選択をする必要もあり、アルフレッド第二王子に出会うリスクが生じる。
常に将来への不安に苛まれる中で、二人は生きていけるのか。
もし帰ろうなんて考えを起こすようだったら、人を経由してアルフレッド第二王子の耳に入れたらいいだけだ。面白いぐらいに暴れてくれるだろう。
「これから無事に生き残れるかは彼と貴女次第。
私は押し出した船がどこに辿り着くかを、遠い岸から見てるだけ。
アルフレッド殿下という台風に出遭わないことを、別に祈りはしないわ」
あと少しで旅立ちの日が訪れる。
ベアトリスがいない間は両親やバートンから手紙を送ってもらうよう約束していた。
既にベアトリスの撒いた種は芽吹いている。
国にいない間に咲いた花を摘み取れないのは残念だが、帝国に留学すればテオドールに会えるのだ。
今しかできないことは多くある。
欲張らず、一番欲しいものを手にするだけだ。