前途多難な生活の始まり
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「奥様……」
「あら、ごめんなさい私ったら。こんな時間まで眠ってしまっていたのね」
目を覚ますと辺りはすっかり明るくなっていた。
私は声をかけてきた侍女に目を向けると、昨夜の中年の侍女の他にもう一人若い侍女が控えているようだ。
「昨夜もすでにお目にかかりましたが……このお屋敷で侍女長をしております、アンナと申します。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません」
アンナと名乗った侍女が頭を下げる。
少し白髪の混じった髪に、キリリと意志の強そうな瞳。
さすがは侍女長といった貫禄である。
「アンナ、こちらこそよろしくお願いね」
「それからこちらに控えておりますのが、奥様付きとなりますベルと申します」
ベル、と紹介された侍女は歳若く私とも話が合いそうだ。
ふわふわとした茶色の癖毛をポニーテールにしているのがよく似合っているなぁ、なんてとぼけたことを考える。
「初めまして奥様。精一杯勤めさせていただきますので、何なりとお申し付けくださいませ」
「もう少し砕けた話し方で大丈夫よ、ベル」
「ですが……」
「お願い、ここには誰も知り合いがいないでしょう? 話し相手が欲しいと思っていたところなの」
ベルはちらりと後ろに立つアンナの方を見ると、彼女が頷くのを確認した。
恐らくアンナの許可が必要だと思ったのだろう。
「それでは、お言葉に甘えて……」
「ありがとう! これからよろしくね、ベル」
嬉しくなって、私はつい大きな声を出してしまったことに気づく。
いけない、ここはもう実家ではないのだ。
「あら……ごめんなさいね、失礼しました」
「お気になさらずに。昨夜はお元気がなさそうでしたので、少し安心いたしました」
「ああ……そうね」
アンナの言葉で、少しだけ忘れかけていた昨夜の苦い思い出がはっきりと蘇る。
一晩経ったことでその衝撃は少し緩和されているものの、傷が癒えたというには程遠い。
「奥様……昨夜はオスカー様が大変失礼なふるまいを……私からも、謝罪させていただきたく……」
「あなたのせいではないし、あなたが謝る必要もないわ。あれはオスカー様の問題よ」
「ですが……」
「オスカー様には、他にお慕いしている方がいらっしゃるようなの。あなた方はご存知?」
すると意外にもアンナとベルの目は丸く見開かれる。
侍女たちは知らなかったということなのか。
「まさか、そのようなこと……」
アンナは明らかに動揺した様子で眉間に皺を寄せながら首を振る。
「それが残念なことに正しいの。昨夜オスカー様自らそうおっしゃっていましたわ。ですから、私はオスカー様との間に子をもうけるつもりはありません」
「っ……奥様、それだけはどうかご勘弁を……トーランド公爵家の跡継ぎは何としても必要なのでございます……ご無礼を承知の上です。どうか……」
まるで土下座でもする勢いでアンナが頭を下げており、その隣でベルが不安げに瞳を揺らしている。
わかっている。アンナの言うことは正しい。
貴族令嬢として育ってきたのだ。
たかが夫の想い人くらいなんだ、とでも言いたいのだろう。
だが私にはそれが許せない。
「頭を上げてちょうだいアンナ。申し訳ないけれど、私にその重役はこなすことができなさそうだわ。オスカー様はね、私の他に好きな方がいるだけじゃないの。そもそも私の容姿が気に入らないご様子よ」
「……セレーナ様のお姿が、ですか?」
二人はまるで信じられない、といった表情で私の顔をまじまじと見つめる。
「いいのよ、別に気を遣わなくても」
「いえっ……! 決してそのようなことはございません!」
彼女たちの表情に嘘は見られないことが救いだろうか。
昨夜オスカー様に見目を否定されたことで自信を失いかけていたが、さほど悲観するほどではないのかとも思い始める。
これならば後妻に引き取ってくれる貴族も出てくるかもしれない。
「オスカー様は恐らく……恋と憧れを勘違いされているのかもしれません」
「憧れ?」
「はい……セレーナ様がおっしゃるオスカー様の想い人という方は、王太子妃エリーゼ様でございましょうか?」
「ええ、その通りよ」
「エリーゼ様は、オスカー様の六歳年上で幼馴染の姉弟のような関係でございました」
「あら、そうなのね」
年上の女性に恋心を抱くというのは、よくある話だ。
アンナの話を聞いても私はさほど驚きはしない。
実家が公爵家同士ならば幼馴染であることも納得である。
「幼い頃のオスカー様はお体も小さく、病弱にあられました。他の貴族のご子息に虐められてしまわれることも多々ありまして……そんなオスカー様をいじめっ子たちから守ってくださったのが、エリーゼ様なのです」
「なるほどね……」
「エリーゼ様はすでに王太子殿下との婚約が決定しておりましたし、オスカー様との間に疑わしい関係は一切ございません。ですがそれ以来オスカー様はエリーゼ様に憧れておいででした。彼女のように強く美しくなりたいといつもおっしゃっていて……」
「……その憧れを恋と勘違いしていると? さすがのオスカー様も、それはないと思うわ」
オスカー様は今年で二十六だ。
さすがに子どもではないのだから憧れと恋の違いくらいわかるだろう。
単なる憧れにしては気持ちが重すぎる。
「その……こういってはなんですが……オスカー様は、かなりそちらのほうは鈍いのです。オスカー様にはエリーゼ様とどうこうなさるおつもりは一切無いということだけ、ご理解してくださいませ……」
相変わらずアンナは沈痛な面持ちで頭を下げる。
そちらのほうとはいったい何なのだろうかと疑問に思ったが、もはやどうでも良くなった私はアンナの話を適当に流した。
「それはとりあえずわかったからもういいわ。でも私の見た目がお好みでない件に関しては、どうすることもできないでしょう」
「失礼ながら奥様……オスカー様は、あまり女性と関わった経験がございません。公爵夫人であるお母上か、エリーゼ様くらいなのです。ですから、女性への接し方に慣れていらっしゃらないのかもしれません……」
「それはもう私にはお手上げね」
「何かと奥様に誤解を与えてしまわれるようなことがあるかもしれませんが……どうか、どうかオスカー様を見捨てないでくださいませ」
アンナはそれだけ告げると、最後まで頭を下げ続けたまま退出していった。
「あの……」
残されたもう一人の侍女ベルが、恐る恐る口を開く。
「今日は少し時間も遅いですし、朝と昼の食事を兼ねて用意させてありますがよろしいでしょうか?」
「まあ、ありがとう。気を遣わせてしまってごめんなさいね」
「それと……その……オスカー様から今日の夕食を一緒にどうか、との言付けを頂いておりますが、いかがいたしますか?」
あれほど日常生活は別々にさせてもらうとはっきり宣言したというのに、オスカー様には伝わっていなかったのだろうか。
昨日の今日でまだ傷も癒えていないうちに、再び彼の顔など見たくもない。
好きではないと言われた黒髪でオスカー様の前に出ていくことは憚られるし、食事のときの会話も続くとは思えない。
私は夫の誘いを断ることにした。
「お気遣いなく、とだけ伝えてもらえるかしら? ごめんなさいね、あなたにこんな役目をまかせてしまって」
「いえ、奥様は悪くありませんから」
「その奥様って呼び方もなんだか落ち着かなくて……セレーナ様ではだめかしら?」
するとベルは困った顔をしてこう告げた。
「さすがにトーランドのお屋敷でお名前でお呼びすることは難しいかと……公爵夫妻や他の使用人たちの手前もありますので」
「そこは我慢するしかないのね……」
オスカー様のご両親であるトーランド公爵夫妻は、私たちの住む屋敷と別邸を行き来するような形で生活しているらしく。
結婚式の時に顔を合わせたが、またしばらくは別邸で過ごすと聞いている。
公爵夫妻がこちらに戻ってきている間だけは、オスカー様と夫婦のふりをするほかないだろう。
「本当に、一年って長いわね……」
先が思いやられるとため息をつく私を、ベルはなんとも言えない複雑な表情で見つめていたのだった。
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