狐の嫁入り
季節は秋と呼んでも良いくらいに暦は進んでいるのだが、如何せん毎日暑い。蝉の鳴く声はいつの間にか無くなって、代わりに鈴虫が鳴き始めたというのに。
こんな暑い日に出かけるなんて頭がおかしいと思ってしまうのだが、そんな頭がおかしい人間の中に目の前の彼女は含まれているのだろう。残暑、と言うには暑すぎる太陽の日差しの下で、大きな麦わら帽子を被った彼女は楽しそうに歩いている。こちらはじんわりと汗をかいているのに、彼女はちっとも暑そうじゃない。何なら涼しそうだと表現しても良い。それから、この夏日焼けをしていないんじゃないかと思う程に、彼女の肌は白く透き通っていた。
ふと、ある感情が過ぎったが、その感情は振り向いた彼女の笑顔で上書きされてしまった。
「どうしたの?変な顏して」
「元からだよ」
「そうかも」
そんな風に自分をからかいながら、また前を向いて軽い足取りで歩き出す。まるで、これから起こることを楽しみにしているかのようだ。
「なあ」
「うん?」
また、さっきと同じ感情が頭を支配して、今度は彼女を引き止める。あと二、三歩進めば、彼女の手を掴めるのに、どうしても足は前に進まない。それでも、声だけはと口を開く。
「本当に、行くのか」
「どうして?」
質問を質問で返してくる彼女の瞳からはその真意は汲み取れない。口元に浮かんだ笑みは崩れることが無い。ため息を一つ吐いて、その問いに答えることにした。
「……怖いんだよ。何故かは分からないけど」
意外な答えだったのか、彼女の目が少しだけ開かれた。互いの視線が絡まる。
一歩、彼女が前に踏み出した。
「私もだよ」
「え」
喉から出たのは掠れた小さな声だけだった。目の前の彼女の顔がぐにゃりと歪んだ。
歪んだ視界ではもう彼女と視線が交わらない。けれどもそれは向こうも同じだったようで、彼女は嗚咽を漏らしながらただそこで立ち止まっていた。
「それでも私は、君と一緒に……一緒に、生きていきたいの」
彼女の持つ力がそうさせるのか、ただ彼女の気持ちに空が寄り添っているのかは分からなかったけれど、晴天の空に雨が降り注いだ。周辺の人々は突然の天気雨に、逃げるように姿を散らしていく。それでも僕らはそこから動かなかった。雨は止むこと無く、身体から熱を奪っていく。もう、先ほどの暑さはどこにもない。
雨と涙でくしゃくしゃになっている彼女に、今度こそ足を踏み出す。そして、さっきは出来ずにいた彼女の手を握った。
「大丈夫。行こう」
目が合い、今度は僕が笑う番だった。
「あ、雨」
「天気雨かな」
「天気雨って、狐の嫁入りって言うんだって」
「何それ初耳」
「雨で存在を隠すらしいよ。今頃どこかで嫁入りが行われてるのかもね」
「へえ。あれ……ねえ、見て!」
「何?え、狐?」
「こんな街中に狐なんているんだ。もしかして本当に狐の嫁入り?」
「二匹しかいないけど」
「でも、何だか楽しそうだね」
雨が上がり、またあの暑さがぶり返す。大きな麦わら帽子は誰かに置いていかれてしまったのか、静かに地面に落ちていた。
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