一日目:契約(1)
「うーん……」
気付けばカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。どうやらもう既に朝になっていたらしい。
なんだか久しぶりにゆっくりと眠った気がする。そもそもベッドを使うのが何日ぶりだろうか。ここのところずっとパソコンの前で寝ていた気がする。
それがまた兎に角寒いのだ。今日は本当に暖かく眠る事が出来た。こんなに気持ちよく、清清しい目覚めを迎える事が出来るのならば今度からベッドで寝るように気をつけようか。
ゆっくりと身体を起こし、身体を伸ばす。ゆっくりと身体が覚醒して行く。久しぶりに感じる、心地よい目覚め……。カーテンを開いてもっと沢山の朝日を浴びたい……そんなとっても健康的な事を考えた。
ベッドから降り、部屋の中を歩いて窓辺を目指す。ゆっくりと一歩一歩を踏み出す。まだ眠たい目を擦りながら。そうして右足、左足と交互に前に出し……次の瞬間だった。
ぐにっ。
なにやら柔らかいものを踏みつけた。感触的にいうと……こう、猫ふんじゃった〜猫ふんじゃった〜みたいな感じだ。
この、“何か踏んじゃった時”って形容し難い気まずさがあるよね。こう、道端に転がってる……アレとか。室内でもそうだ。ナメクジとか踏んだらこんな気分になる。猫でも犬でもそうだ。兎に角僕はなんともいえない気分で足元へと視線を向けた。
ゆっくりと、恐る恐る足を上げる。足元に転がっている何かに視線を向ける。それが何なのか、僕は一瞬理解出来なかった。
「むにゃむにゃ……」
足元に転がっていた物――それは女の子だった。体格的に小学生くらいだろうか。どんなにお世辞を言っても中学生にしか見えない。兎に角ちっこい女の子だった。いや、小学生だやっぱり。無理だ、中学生は。
炎みたいに真っ赤な髪をツインテールに括っている。服装は……なんだか形容し難い。修道服……のようなもの、だ。あくまでも“修道服のようなもの”。真っ白い純白のドレスにも見える。少女はとても端正な顔立ちをしていたが――口元から盛大に涎が垂れていた。
「…………ふー」
額に手を当てて後退する。ベッドの上に腰掛け、両手で顔を覆う。何も見なかった。ああ、何も見なかった。僕は何も、見なかった――。
ゆっくりと自分に言い聞かせる。頭がどうにかなりそうだった。お持ち帰りとかそんなチャチなもんじゃねえ。もっと恐ろしい物の片鱗を味わったぜ……。
そーっと指と指の間から少女を見る。やっぱり寝ている。寝ている美少女だ。こ、怖い……。こんなに正体不明の存在が自分の部屋の中に居るなんて、怖すぎる。
僕に言わせればこいつはエイリアンとかプレデターとかそんな類の存在だ。ターミネーターでもいい。とにかく異質すぎる。部屋に誰か居るだけでも怖いのに、こんなわけの判らない生き物――。“女の子の形をした何か”がいるなんて、恐怖以外の何者でもない。
やばい、頭がどうにかなりそうだ。思い出せ、思い出すんだ……なんでこうなった? 僕が何をしたっていうんだ。画面からアイリが出てきてくれた? 違う、アイリはこんな馬鹿面で寝たりしない。そもそもそんなエロゲーみたいな展開があってたまるか。いや待てよ? そうか、そうなんだ。僕の頭がぶっ壊れたんだ。いよいよエロゲーと現実との区別が付かなくなったんだ。そうに違いない。
「アハハ、なあんだそんな事か」
成る程つまりこれはエロゲーのワンシーンであってここも実際には僕の部屋ではなくてだからこの女の子は所謂エロゲーのヒロインだからつまり十八歳以上ってことで何しても大丈夫ですよっていうあれですかランドセル背負ってるのに十八歳以上だよお兄ちゃんみたいなつまりそういうことであああああああああああああ!!!!
「そんなわけあるか……ッ!!」
頭を振り乱す。呼吸が止まりそうだ。こんなに心乱れるのはいつ以来だろうか。くそう、何で部屋に幼女が!? 僕が悪いのか!? 僕が悪いのかっ!?
「……お主、さっきからドタバタと一人で五月蝿いのう。もう少し静かに出来んのか?」
動きが停止する。ゆっくりと視線を彼女に向ける。幼女はゆっくりと身体を起こし、眠たげに目を擦りながら小さな口を開けて欠伸をしていた。
こいつ、動くぞ――!? いや当たり前なんだけど、これはビックリだ。しかも喋ってるよ。フルボイス版だこれ! wktk……するわけないだろ。
幼女は立ち上がり、眠たげな様子で半分だけ瞼を押し上げて僕を見ていた。その視線が恐ろしくて目を反らす。全身から変な汗が出てきた。
「ふああ……良く寝た。お主も昨晩はぐっすりじゃったのう? どうじゃ、夜に寝て昼に起きる……人間のライフサイクルというものは、それが正しい事。お主のように昼夜逆転を続けていては、出来る事も出来んと言う物よ」
「……いや、君……え、何? え? 何?」
「何故二回言った?」
「だ、大事な事なので……いや、え? 誰……? えっ? 誰!?」
やばい、会話が成立する。どうすればいいんだこれ。僕の脳内妄想……? に、しては……随分しっかりしてるなあ。
「君は僕の妄想……?」
「…………お主わかっておるのか? それはかなり無礼な問答だぞ……?」
「そ、そうだね、ゴメン……じゃなくて、君はだから、誰?」
「……寝る前の事を完全に忘れておるのか? まあ良い、何度でも名乗ってやろう」
幼女は腕を組んだまま僕を押しのけ、ベッドの上に立つ。そうしてようやく僕と同じ視線の高さになったという所だろうか。いや、まだ彼女のほうが若干小さいか。
腕を組んでいた幼女は片手でビシリと僕を指差し、もう片方の手を腰へ当てる。真紅の髪を揺らし、少女は声高らかに宣言する。
「我が名は“ダンテ”!! お主と契約を果たし、共に【ディヴィナ・マズルカ】を生き延びる事になったパートナーにしてお主の【ブリスゲーデ】じゃ!!」
「おやすみ」
「こらあああっ!! 何を床の上に転がっておる!?」
「さ、触るな!! キ○ガイだ……! キチ○イが部屋に不法侵入してる!!」
まずダンテって名前が在り得ない。何がダンテ? どう考えても日本語ペラペラじゃないか。お前の名前がダンテだったら僕はルドルフだっつの。
それになんか……中二病くさい単語が連打されてるし……だめだ。そのうちエターナルフォースブリザードとか言い出すに違いない。
幼女――自称ダンテは腕を組んだままむすっとした表情で僕を見ている。僕はじりじりと距離を開き、後退する。が、部屋そのものが狭いので逃げ場が無い。
恐ろしい事にダンテの立っている僕のベッドの脇に出入り口へと続く扉があるのだ。つまり逃げ出すにはダンテの横を通らねばならない。しかもここは二階だし……窓からも無理。
いや、いけるか? 二階の高さってどれくらいだっけ? いやいやいやいや無理無理無理無理明らかに無理二階とか無理足の骨が折れて泣くのがオチだ。ジャッキーだってたまに失敗して大怪我してるじゃないか。僕だったら簡単に即死だ。
「お主、本当に昨夜の事を覚えておらんのか?」
「昨夜って……?」
昨日の夜って事だよね。まあ日付変わった後の事は今日の事なんだけどそんな事はどうでもいい。昨日の夜……夜……。そうだ、どうして僕はベッドの上で寝ていたんだ?
そもそもパソコンの前で寝ていた理由が、どうにも夜更かししてゲームしてしまうからだ。つまり、エロゲーしたりネットゲームしたりしているといつの間にか寝ている――寝オチしてしまうのだ。
ふと、パソコンに視線を向ける。常時起動しているはずのパソコンが起動していない。ま、まさか……。
慌ててパソコンの起動スイッチを押す。背後で幼女が何か言っていたがそんなもの知ったことではない。パソコンの起動を待つ間、僕は徐々に昨晩の事を思い出していた。
そうだ、確かこの画面に変な男の顔が映りこんできて……それで、この――――いつの間にか持っていたネックレスから女の子が飛び出してきたんだ。
文字通り、光がゆっくりと少女を模り、やがて実体を持つ存在になった。ネックレスから出てきたという表現が正しいだろうか。そんな事あるわけないのに真面目にそんな事を考えている自分がいる。
いやそれよりも今はパソコンの方だ。一昨日からずっとぶっ続けでやっていたエロゲー……“魔法少女まじかる☆くるる”がどうなったのかが気になって仕方が無い。メインヒロインだけどウザい魔法少女くるるとは違いサブヒロインのアイリは攻略にやたら時間がかかる上にルート分岐とCGの差分が多くて攻略には時間がかか――――。
「……何を呆けておる? おーい? 気は確かか〜?」
僕はそのまま暫くの間死んだ――。
あの変な男が表示されてからパソコンの電源が落ちたんだ――。そうに違いない……つまりぶっ続けでやっていた……一度もセーブしていなかったデータは……完全に……僕の、およそ四十時間は…………完全、に…………。
「……な、なんだか良く判らぬが元気を出せ。お主すごい顔になっておるぞ……」
「燃え尽きたぜ……真っ白にな……」
「そ、そうなのか? それで髪の毛が真っ白なのか?」
「そうだけど……そうじゃないよ!! これはその……なんていうか、地毛だよ」
自分の長すぎる前髪を指先に絡めて振り返る。そう、僕の髪の毛は真っ白だ。白髪といわれてしまえばそれまでだが、一応これでも17歳……まだ白髪になるには早すぎる。
理由はまあ色々考えられるけど、実際今自分が白髪だっていう事実が残るだけだ。理由なんて、どうでもいい。ダンテは僕がその話題を嫌っているのを悟ったのか、一歩身を引いて床の上に転がっていた巨大なうさぎのクッションの上に腰掛けた。
「思い出したかのう? 昨晩の事を」
「……おぼろげにだけど」
「それは良かった。お主がショックで記憶喪失にでもなったのではないかと本気で安堵してしまったわ」
記憶喪失なんてそう簡単にはならないよ。嫌な記憶は……簡単には消えないんだ。大事な思い出だってそうだ。忘れたくても、忘れられるものじゃない。
「ごめん、正直かなり混乱してる……。君が画面から飛び出してきてエロゲーのヒロインじゃなくて、僕の妄想でもないのなら……君は一体なんなんだ?」
「漸く本題に入れるというものじゃな。うむ、我はその、えろげー? でもないし、お主の妄想でもない。が、ある意味妄想と言うのは正解でもある。我の存在は言わば空想……非現実の領域に片足を突っ込んだ存在じゃからな」
行き成り何を言っているのかさっぱりわからなかった。
「お主は覚えておるか? 【死神】の開催宣言を」
「なん……だと……?」
死神? 死神って……あの死神? そういえば昨日画面に映りこんだあの変な格好の男……言われてみると死神っぽい外見をしていたかもしれない。
でも、あれが死神だっていうのなら、ダンテはなんなんだ……? いやそもそも死神ってなんだ。そんなものが普通に在り得るのか? 普通出てくるか? 人の家のPCの画面に。
「お主は神の選定によって【ディヴィナ・マズルカ】に参加する契約者の一人として選ばれたのじゃ。口惜しいが死神の言う通り、お主は奇跡的な確率の下選ばれた奇跡の代弁者と成ったのだ」
「…………【ディヴィナ・マズルカ】?」
「我ら【ブリスゲーデ】と【契約者】が一組になって殺し合う【死神】のゲームの事じゃ。生き残れるのはたった一人のみ……頼れる物は己と相棒であるブリスゲーデのみ、つまり我だけという事じゃな。うむ、まあ今後よろしく頼むぞ、契約者よ」
僕は椅子から立ち上がった。幼女はうさぎのクッションの上をころころしている。僕はどんな顔をしていただろうか。多分そうだな……胡散臭い新興宗教の勧誘を受けた一般通行人みたいな顔をしていただろう。
何も言わずに無言で額に手を当てる。この子の言っている事の五割も理解出来なかった。一体何を言っているんだろう。だって僕は……僕は何もしていないじゃないか。
極力目立たないように生きてきた。不確定要素を恐れて誰かと関わらないように心がけてきた。こういうどうしようもないわけのわからない誰にも変えようのない悲惨すぎる現実みたいなものを避けるために今までそうしてきたんじゃないか。
僕の人生の全てをかけて僕は世界から逃げ続けてきたんだ。その長い長い逃避行の果てがこんな結果なら、僕の人生全ては無意味だった事になる。
「……勘弁してくれよお」
何でこんな変なのと関わる事になっちゃったんだ? 何でこんな状況に陥ってる? どうして僕がこんな気持ちにならなきゃいけない?
嫌だ……。嫌だ嫌だ。ああ、嫌だ。我慢できない。くそう。最悪だ。なんて最悪なんだ。これ以上ないくらい、最高の悪夢だ――!
「……ていってくれ」
「うん?」
幼女が首を傾げる。僕は深く息を吸い込み、大きく叫んだ。
「出て行ってくれえっ!! 僕に関わらないでくれっ!! 意味わかんないんだよっ! このっ!! キ○ガイ幼女――ッ!!!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。ああ、僕はまだこんなに大きな声で喋れたんだ……そう感心してしまうくらい。
彼女は目を真ん丸くしていた。その表情に少しだけ良心が痛んだ。でも仕方ないんだ。こういう輩には少しきつすぎるくらいのほうがいいんだ。
妄想と現実の区別が付かなくなってるような、こういうキチ○イさんと関わらないために大切なのはハッキリとした拒絶なんだ。思い切り突き放して、もう二度と世迷言を言わないようにしてやらなきゃ、だめなんだ……。
「……そうか。お主は我に消えて欲しいのだな?」
「……そ、そうだよ。君なんて消えちゃえばいい」
「ならばそうするが良い。お主の意思で――我を消し去ってみろ」
「意思で……消す?」
もしかして本当に幻……? 僕の生み出した妄想なのか?
だったら僕が消えろと念じれば消えるはずだ。彼女の言うとおりだ。僕は目を瞑る。消えろ……消えてしまえと願う。いや、最早それは祈りだった。
神様仏様、どうかこのキチガイ幼女を消し去って下さい――!! 心の中でそれを三回唱える。ついでに手まで合わせていた。これで消えなきゃウソだ。神様なんて、いやしない――。
「…………いた」
いたのは彼女、ダンテではなかった。いたのは神様……つまり、ダンテは跡形もなく消え去っていた。
「きえ……た……」
我ながら信じられなかった。じゃあ、あの子は僕の妄想だったって事じゃないか。はは……なんだ、怖がる事なんか何もなかった。僕は正常に戻ったんだ。
深く深く溜息をつく。両足の力が抜けてその場にへたりこんだ。それでも気持ちは安らかだった。ああ、酷い夢を見た後のような気分だ。本当に、どうしようもない――。
『ほうら、消せたじゃろう? それこそお主が我の契約者である証だ』
背筋が凍りついた――。
背後から聞こえてきた声にゆっくりと振り返る。声は、どこから聞こえた……? 判っている。机の上に目を向ける。立ち上がり、それを手に取る。
燃えるような炎を灯したネックレス――。いつの間にか身に着けていた物。いつの間にか身に着けていて――なのに疑問にも思わなかった物。
その炎の揺らめきは昨日よりも増しているように見えた。握り締める掌は決して熱くは無い。なのにこの炎には……どこか神秘的な“熱”を感じる。
『何度でも言うぞ、小僧。我が名はダンテ――。お主が契約した【ブリスゲーデ】じゃ』
「……なん……なんだ」
『お主ももう理解しておるのではないか? ただ目の前にある現実を受け入れるだけで良い。【死神】に選ばれた以上、お主はもうこの運命から逃れる事は出来ない。お主には意地でも最強の契約者になって貰わねば困るのだ。我の――願いを叶える為にな』
「ちょっと待ってくれ……何が、なんだか……」
『端的に言うぞ。このネックレスは【時計】じゃ。契約者には【時計】が配られる。それは【ブリスゲーデ】の容器でもある。お主にはこの炎が見えるじゃろう? これは――お主の残りの寿命じゃ。お主の寿命は残り九日間……死神のゲームで生き残る以外に生存する術は無く、逃げる術も無い。何か質問はあるか?』
とんでもないことを一気に言い切ってネックレスはそう締めた。でも僕は何も言えなかった。理解が追いつかない……のではない。その逆だ。理解しようとして、そして出来てしまった。何故だろう、それがウソじゃないと思える。僕はその妄想的な中二病的などうしようもないくだらない話を、心のどこかで信じている――?
「僕は……死ぬの?」
『ああ、死ぬ。このまま行けば絶対に九日目には死んでいる。お主の寿命は今凄まじい勢いで圧縮され消費されているのじゃ』
「死ぬ、って……僕何もしてないのに……? なんでその、死神のゲームって奴に参加しなきゃならないの……?」
『理由はお主が一番良く判っているはずじゃ』
「難だよそれ……。判るわけないだろ……っ」
ネックレスに向かって話しかけている自分……でも今は自分を客観的に見る事が出来ない。完全に混乱している。僕は……どうなっちゃうんだろう。
死神のゲーム……九日目には死ぬ? この炎が僕の残り寿命……? なんだそれ……。なんだそれ……!
ネックレスを振り上げる。それを放り投げようとする。けれど握り締めてしまって放す事が出来ない。それは別に不思議な力が働いているわけじゃない。僕が自分の意思で投げないんだ。そうだ、投げられない……。
「……学校に行かなくちゃ」
『ちゃんと我を首から提げて行くんじゃぞ』
握り締めたネックレスを睨みつける。でも、こいつの言う通り。言う通りなんだ……。
悔しいけど、訳が判らないから……だからこそこれを手放しちゃいけないんだ。本当に怖いのは何も判らないのに放置し続ける事だ。そうする事で何の予測も対策も出来ず、不意打ちを喰らうようにイレギュラー要素に飲み込まれる。
僕は毎日毎日一生懸命それを排除してきた。自分の事も周りの事もじっと見詰めてきた。だから判るんだ。ここでこいつを投げ出したら、きっともっと“ろくでもない事”になるって――。
ネックレスから聞こえるダンテの声に思わず歯軋りする。彼女の言う通りだ。そして彼女は僕が彼女を投げ捨てない事を判っているんだ。あからさまな人を見透かすような言葉……でもその予測を裏切れない自分の方がもっと恨めしい。
制服に袖を通し、ダンテを首から提げて学ランの中に入れる。こんなのぶらぶらさせながら歩いていたら目だって仕方が無い。昨日ならいざ知れず、こうなってしまった以上は誰にも見られない方が良い……そんな気がした。
ダンテを首から提げたまま学校に向かう間僕は終始無言だった。ダンテも僕に話しかけてくる事はなかったし、話しかけてきたとしても無視を決め込むつもりだった。
くそう。くそう、くそうくそうくそう、くそう……。最悪だ。最悪だ最悪だ、最悪だ。最悪すぎる。最低最悪だ。僕の日常が……辛うじて通学と言うプロセスで繋がっている。部屋に篭っていたら気がおかしくなる所だった。こんな所で学生と言う身分に感謝するなんて……。
だけど僕は直ぐに部屋から出た事を後悔することになった。通学路を歩いていると、前方に人だかりが出来ているのが見えた。なんだか酷く嫌な予感がした。ダンテは黙っていたけれど、そこに行くように急かしているような気がした。
思わず息を呑む。何故だか判らないけれど妙な汗がだらだらと垂れていた。もう冬だって言うのに何でこんなに暑いんだろう。まだ少し歩いただけだって言うのに何でこんなに足が震えるんだろう。
ゆっくりと、人ごみを掻き分けて行く。その先にあった景色を見て僕は驚く事はなかった。ただその余りにも非現実的な情景に――ただ、黙り込んでいた。
慌てて引かれたとしか思えない規制線。黄色いテープの張り巡らされたその向こう側――コンビニエンスストアの駐車場あたり。黒いアスファルトは明らかに変色を遂げていた。
駐車場のアスファルトより一段高く作られたレンガ敷きのエリア。その縫い目を伝うようにして流れたであろう赤い雫の跡――。窓硝子に飛び散ってこびり付いたどうしようもなく避けられない、“そう”としか認識しようが無い液体……。
「ああ……」
何がどうなればこんな事になるんだろう。こんな……大量虐殺の跡みたいな景色に……。
『言っただろう? 逃げる術は無いと』
そう語るダンテの声も今の僕には届きそうにも無かった。僕はただ逃げるようにその場を後にし、学校へと続く坂道を駆け上って行った……。