プロローグ(2)
「……どう? 美味しい?」
そう言って彼女は不安げに僕の顔色を窺ってくる。勿論、美味しいはずがない。彼女が作ってくれたお弁当は、正にカオスだ。
だが、そこがいい――。こういうのはなんていうか、定番だ。王道とも言えるだろう。つまり彼女の料理が美味しかったら、それはそれで美味しくない展開なのだ。
勿論まずいとは言わない。言えようはずもない。だから僕は曖昧な笑顔を選択する。彼女はそれを好意的に解釈し、もっと食べろと料理を勧めてくる。
当然我慢して食べるしかない。青空の下、どこだかわからない広々とした草原に僕らは座っている。かわいいうさぎのプリントされたビニールシートの上、二人きりでピクニックを楽しんでいる。
彼女が箸に玉子焼き――のようなもの――を、ぶっさして突き出してくる。一瞬目を狙った攻撃のようにも見えた。どちらにせよそれは驚異的殺傷能力を秘めた味付けのお料理である。仮にこんなものが出回ったりしたならば、そこら中で死傷者が多発しニュースで大々的に取り上げられる事だろう。
そんな食べれば死に直結するような味付けの料理がどんなものなのかは判らないが、とにかくそれを口に運ぶ。とんでもない味で僕が悶える。彼女は心配そうに僕を見下ろす――。
「黒斗ー!! 居るんだろー? おーい!!」
彼女が太陽を背に僕を見下ろしている。綺麗な一枚絵だ。このグラフィックのクオリティの高さには定評がある。足元に転がっている料理の一つ一つまで細かく書き込まれているのだから素晴らしい。
「……もしかして、まずかった? ごめんね……無理させて…・・・」
泣き出しそうな顔で彼女が僕を見ている。このCGが見たいからこそ我慢して食うのだ。我慢して食わないとこのCGは見られないんだ。そういうフラグなんだ。
「おーい、シカトすんじゃねーよコラー!! 勝手に入るぞー!!」
このCGをコンプリートするためにわざわざ二週目に入った僕だが……なにやら外野が五月蝿い。ヘッドフォンを外して背もたれに深く体重を預ける。
背後、部屋の扉を叩く音が聞こえる。小さく溜息を漏らしてもう一度“彼女”――つまり、ディスプレイに表示されたエロゲーのヒロインに視線を向ける。屈んでいるからパンツが見えている。しましま模様、所謂“しまパン”というヤツだった。
ヘッドフォンを首からかけたまま立ち上がる。せっかく人がエロゲーに没頭していたっていうのになんて非常識な来客なんだ。まあ、僕の部屋にわざわざやってくるような変人はごく限られているわけだけれど。
「……めんどくさいなあ」
でもこのままシカトを決め込んでいると恐らく部屋に強行突入してくるだろう。そうなると本当に厄介だ。それだけは勘弁してほしい。僕は自分の部屋に自分以外誰も入れたくないんだ。見られるのだって嫌だ。自分以外の人間が入った部屋なんて、それはもう僕の部屋じゃない。
仕方がなくヘッドフォンをキーボードの上に放り投げる。締め切っていたカーテンを開く。窓の向こうから斜陽が差し込み、時間が既に夕方になっている事に気付く。
冬場は日が落ちるのが早い。まるで世界が時を急かしているみたいだと思う。振り返り、扉へ向かう。内側からかかっている鍵を開き、外で待っているであろう人物に声を投げかけた。
「うるさいよ、朋希……」
「お! やあっと出てきやがったな〜! お前なあ、学校サボって引き篭もってんじゃねえよ」
「……うるさいなあ。別に、君には関係ないじゃないか。僕はその……なんていうか、忙しいんだよ」
頭を掻きながらそう言い訳する。勿論それが言い訳になっていない事は承知の事だ。何せ僕が忙しいわけが無い。暇な高校二年生、今日だって部屋に引き篭もってずっとゲームしてたくらいだ。
昨日の夜から朝までつい徹夜でエロゲーをやってしまい、そのまま学校に行くのがダルくなってしまったんだ。でも別に今に始まった事じゃない。僕はたまにそうやって何となく学校をサボる。僕が居なくても世界は回る。学校だって普通に始まって終わる。だから僕なんて居なくてもいい。
「お前の言う忙しいなんて忙しいのうちに入んねーの。俺の忙しさったらないぜ? 毎日バイトバイト、クリスマスまでバイト三昧決定済みってマジ泣ける」
そう語る目の前の人物にようやく視線を向ける。何となく人の目を見るのは苦手だ。見れば見るほど他人と言うやつは胡散臭いし。
綺堂 朋希――。端的に言えば、僕の幼馴染。女の子だったら良かったけど……まあ、女の子だったら女の子だったでめんどうくさいから別にいい。男くらいで丁度良い。
僕らの通う高校――伊薙高校の学生服を着用し、赤い特徴的な髪を揺らして微笑んでいる。頭が赤い……DQN……一見不良にしか見えない彼は何故かこうしてやたらと僕に構う。
それは多分僕らの過去に起因している。とにかく彼は鬱陶しいタイプの幼馴染だった。僕はエロゲーでもやたらと世話焼きな年上お姉さん幼馴染とかは苦手なのだ。ましてやこんなヤツ得意なわけが無い。
彼は色々あって、貧乏学生をやっている。だから殆ど毎日のようにバイトをしていて、その種類も様々だ。お陰で交友関係も広く、しかも忙しいのにたまにこうしてうちに来るのだから義理堅いというか諦めが悪いというかなんというか……。
「それで、何か用?」
「いきなりそう邪険にすんなよ……。幼馴染の様子を見に来てやったんだろうが。生存確認だよ、生存確認」
「人間そう簡単には死なない物だよ。それより朋希、バイトがあるんじゃないの?」
「いや、今日は何故か休みだ。こんな生活してるとちょっとした暇を持て余すのも苦痛なんだよ」
「だからって僕のところに暇つぶしに来ないでよ……」
全く悪びれた様子も無く笑う朋希。まあ、そろそろ少し体を動かしたいと思っていた所ではある。椅子の上に十数時間座りっぱなしだったわけで。
部屋の中では未だにディスプレイの中でヒロインが僕を……厳密には僕がクリックするのを待っているわけだけど、まあ放置してもいいだろう。セーブは……いつしたのか判らないけど。
「……それで? どこか行くの?」
「お、珍しくノリいいな」
「ぶっちゃけお腹すいた。昨日から何も食べてないんだ」
「だろうな。そんな顔してるぜ? 後、目の下なんとかしろよ」
多分酷い事になってるんだろうけど鏡を見ていないから判らない。出かけるのならば流石に身支度位するべきだろうか。
「……ちょっと待ってて」
「急げよ!」
そこは「ごゆっくり」って言うべきところだと思うけど……まあ、彼にそんな気遣いは求めないからいい。
部屋に戻り、白いハイネックのセーターに袖を通す。シャワーは……ああ、確か昨日の夜に浴びた気がする。よく、覚えていないけど……まあ、大丈夫だろう。
髪型はどうなってるんだろうか。まあ、特に拘ってないからどうでもいいんだけど、寝癖くらいどうにかするべきだろう。仕方が無くユニットバスの手前、洗面台の前に立つ。
髪の毛は案の定ぼさぼさになっていた。でもこれ、そう簡単には直りそうもない。少し櫛で抵抗してみたけれどどうも無駄な努力に終わる予感がしてならない。
「……うん?」
そうして視線を向けたのは鏡の中の自分、その胸元だった。じっとそこを見る。鏡の中に僕がいる。鏡の中に居る僕の首から――“何か”が提げられている。
「うわっ!?」
流石に驚いた。それは何か、瓶のようなネックレスだった。首から提げられた小瓶、白銀の装飾が施されたその中には――まるで“炎”みたいに輝く光が灯っている。
そっと触れてみるが、熱さは感じない。何か特殊な電球とかなのだろうか。良く判らないけど……さっきセーターを着たのにその上に提げているというのはどういう事なんだろう。
つまりセーターより後に提げたことになるんだけど、こんなもの見覚えはない。手にとってじっと見詰めてみる。全くそれが何なのか判らない。炎を閉じ込めた瓶……? お香、とか……?
リラグゼーショングッズのような気もするけれど、正体不明なので諦める事にした。背後からは朋希が呼んでいる。僕は首からそれを提げたまま部屋を後にした。
「ん? なんだそれ?」
案の定部屋を出て鍵をかけている間に朋希はそれに気付いてしまった。自分でも良く判らない物……見覚えも無い。でも何となくはずしておいては来なかった物。
勿論急いでいたというのもある。でも別に外す気になれば外せたはずだ。それをご丁寧に着用してくるということは、思いのほか僕はこれが気に入ったのかもしれない。
「カッコイイじゃん。何これ?」
「なんだっていいだろ」
「ふ〜ん……? ま、いいけどな。お前はもうちょっと外見に気を使うべきだし、俺としては嬉しいぜ」
本当に余計なお世話だ。外出する時は基本的に制服なんだから、私服なんてどうでもいいと思うけど。休日は部屋から出ないし。
夕暮れの空の下、僕らは肩を並べて歩く。見渡す景色の向こうには海が広がっている。ここ伊薙町は本当に田舎という感じの町で、引っ越してきて数年経つ今でも時々知らなかった一面を見せてくれる。
例えば夕日が照らし出す水面とか。雲を切り裂いたような茜色とか。町に降り注ぐ様々な景色が清清しく、何となく外に出てよかったなあと思う。
歩きながら両腕を広げて背筋を伸ばす。物凄い勢いで全身の骨が音を鳴らした。隣で朋希がちょっと引いた視線で僕を見ていた。
海と山に囲まれた町、伊薙――。しかし今この町は急激な成長の途中にある。街の中心部にはどんどんビルが増えて、観光客も年々増えている。
それというのも、水平線上に見える巨大な海上都市の所為なのだ。海沿いの道を歩いているとそれがここからでも良く見える。
神貴アクアポリス――。次世代型の海上都市。所謂未来の可能性。SF的な世界の実現への一歩……。あの町へ向かうにはどうしても伊薙町を経由する。だからこの町は栄える。だからこの町は発展する。
僕が引っ越してきたのも、丁度アクアポリスで話題になっていた頃だった。別に狙ったわけじゃない。でもまあ、偶然にもそういう場所に住む事になってしまったのだ。
「でっけ〜よなあ。アクアポリスは」
朋希がそんな事を呟いた。ろくに舗装もされていないような下り坂、小石を蹴りながら。
「そうだね」
僕らにしてみれば、あそこはまるで遠い国みたいだ。住んでみたいとは思わないけど――でも、とても遠い。文字通り、遠いんだ。
僕の住んでいるボロアパートの家賃とは比べ物にならないような超高級物件が乱立しているまさに異世界――。あんな所に住んでいる人はさぞかし人生を謳歌している事だろう。リア充乙。
ふと視線を朋希に向ける。彼はどこか寂しげな表情でアクアポリスを眺めていた。その気持ちは察するに余る。僕だってそうだ。あの町には……きっとどうしようもない事が沢山あるから。
「元気にしてるかな」
あえて名前は言わなかった。それでも彼は判ってくれた。小さく肩を竦め、それから首を横に振る。
「そんなに会いに行けるわけじゃねえしな。それに、詳しい事は俺にもわかんねえよ。なんつーか、ほら……。俺は嫌われてっからさ」
勿論それは、“彼女”にではない。“彼女の両親”になのだろう。彼の事情は色々と複雑だ。勿論、僕だって他人事じゃあないけれど。
「でもま、そのために引っ越してきたんだ。きっといい方向に向かってくさ」
「楽観的だなあ」
「世の中そうでもなきゃやってらんねーぜ!」
冗談交じりにそう笑う朋希。彼はいつでも明るい。それはすごい事だと思う。でもだからってそれで僕を振り回さないでほしい。別に僕はそれに憧れたりしないんだから。
町の方まで行けば食事をする店は幾らでもあるだろう。今日は何を食べようか……そんな事を考える。財布の中身と相談しなければいけないけれど、たまには美味しいものが食べたい。
「朋希、何食べるの?」
「ん? そうだな……金ねーからなあ。牛丼とか?」
「…………君、いっつも牛丼だよね」
うん、まあ……いいんだけどね。
財布を閉じて溜息を漏らす。まあ、食べられればなんでもいいか――。そんな事を考えながら僕は海を眺めながら歩く……。
「お前ってさあ、前から思ってたけど主婦とか向いてんじゃねえか」
そんな言葉を漏らし、朋希は僕が買い物籠に入れた牛肉を手にとって眺める。
牛丼を食べ終えた僕らはそのままの足でスーパーマーケットにやってきていた。いくら急成長を遂げている町とは言えども、僕の住む海沿いの一帯はド田舎もいいところである。まあその分アパートの家賃は鬼のように安いわけだけれど。
とにかく不便なので、買い物は結構纏めてしてしまう事が多い。ただその買い物をしようにも町まで下りてこなければならない。だからこうして都合の合う時についでに買い物しておかないと、後で面倒な事になる。
僕は殆どの場合自炊で食事は済ませている。理由は二つ。一つ、家から出なくて住むから。二つ、美味しい料理が食べたいから。勿論プロが作った物に匹敵する腕前だなんて自惚れるつもりはない。でも、そこらへんの女性よりは料理が上手い自信はある。
貴方にとって料理とは――? 退屈な日常を彩る大切な色彩です。はい、そんな答えをどこかの誰かが言っていた気がする。同意はしない。でもまあ判らなくも無い。
別にお金には困っていない。僕は周りの同年代の人たちと比べて遥かにお金を使わない。服も朋希に貰ったりしているし……ゲームは結構買うけど、中古とかで上手くやってるし、新作も速攻クリアして売り払えばそんなにお金はかからない。
だから毎日外食でも別に困らないんだけど、やっぱりここは自炊に限る。部屋から出る気力が無い時は部屋の中で料理を作れると本当に都合が良いのだ。
とりあえず一週間分くらい買いだめしなければ。毎日夕飯の食材を買いに来る主婦の皆様には本当に頭が下がります。朋希が勝手にお菓子を籠に入れているのを見て溜息を漏らす。
「君は子供か……」
「恵まれない綺堂朋希君に是非お慈悲を! な、荷物持つからよ!」
「……しょうがないなあ」
まあ実際荷物を持ってもらえるのならばポテトチップスくらい大目に見てやってもいい。一週間分の食料ともなれば結構な量になるし。
やたらチープなアレンジのJ-POPが流れる店内をぐるりと順番に巡り、レジで会計を済ませて店を出る。ビニール袋に詰められた食材を両手に抱え、朋希は苦笑いをしながら歩いていた。
「お前、こんなに食うの……?」
「こんなにっていうか、きちんと三食摂るならこれくらいの食材は必要になるでしょ」
「そうか……? 俺は【肉】! 【米】! だけで終わるけど……」
「君は料理を何も判ってないよ」
まあそんな事を朋希に言ったところで無駄なんだろうけど。
「なあ、今度夕飯作りに来てくれよ」
「だが断る。僕の最も好きな事の一つは、幼馴染のお願いに対してNOと答える事だ」
「なんだそれ……」
「……わかんなきゃいいよ」
夕日はすっかり沈んで世界は暗闇に包まれている。流石に朋希に家まで来てもらうわけには行かないので、分かれ道のところでビニール袋を預かった。
「それじゃまた今度な」
「うん」
「死ぬなよ!」
「死なないよ」
手を振り去って行く後姿を見送り、重たい荷物を持ち直す。でも確かに彼の言う通り、少しばかり買いすぎたかもしれない――。
空を見上げる。伊薙の空は本当に綺麗だ。でもやがてこの景色は街の明かりに掻き消されてしまうのだろう。
部屋に戻ってもエロゲーしか特にする事が無い。手持ちのゲームは大体やってしまったし、あのゲームもコンプリートするまでにそう時間はかからないだろう。
「……退屈、だな」
ゆっくりと歩き出す。静かに目を瞑り、再び開く。
この毎日は永遠に続いて行く。人はちょっとやそっとじゃ死なないから。だから死なない限り続いて行く。永遠にこの日々が。
それが誰にでも与えられる平等な物だと信じていた。でもそれが本当はとても幸せな事だったのだと僕は後に知る事になる。
胸から提げたネックレス。小さな瓶の中、炎のような輝きがゆらゆらと闇の中で輝いていた――。