書庫での出来事
経理部の書庫は、1階フロアの横の長い廊下の突き当たりにある。誰でも閲覧は可能だが、厳重に施錠されていた。締めの時期や税務監査の時以外は、それ程見る者もいない。
麻友が1階に着くと、既に五月が鍵を手に待っていた。2人は書庫までを並んで歩く。2人でここを歩くのは久しぶりだ。
「五月……大丈夫? 」
麻友は落ち着いた声で、それでも恐る恐る言った。五月は麻友の方を見ず、鍵をいじっている。
「さては、何か吹き込まれた? 」
そう言って、麻友をじっと見据える。そして、我慢しきれず笑い出す。呆気にとられる麻友。
「うーん、恐らく恵さんね? ふふっ、全然問題ないわよ。何を聞いたか知らないけど、やましい事なんて何も無いもの」
五月はにこやかに言う。逆に麻友の方が元気付けられている様だ。
「お疲れ様です」
前から来た社員と挨拶を交わす。少しも怯むことなく、微笑みながら会釈をする五月は、とても凜として綺麗だった。あっという間に書庫の前に着く。五月は鍵を麻友に手渡した。
「麻友? 」
「うん? 」
「1度警察も見ているから、何も証拠なんてないだろうけど……」
そこまで言って、麻友の手を握った。
「お願い、助けて……」
とても小さく震える声だった。麻友は息苦しさを覚える。
(無理してたんだ)
五月の華奢な肩をポンポンと叩いてウィンクする。
「私のファイルチェックは、生田課長のお墨付きよ」
五月は弱々しく微笑んで、経理部へ戻って行った。その姿が見えなくなるのを見届けて、書庫へと入った。
誰もいない書庫はとても静かだった。年度ごとに棚が別れ、尚且つ企業名があいうえお順に、規則正しくファイリングされている。
麻友は少しの間、目を閉じた。正直、雲をつかむような物だ。証拠なんて、とっくに警察が調べてる。でも……私は経理のプロなのだから。それに……
「五月にあんな顔をさせるわけには行かない」
五月はその名の通り、初夏の太陽の様な眩しい笑顔が良く似合う。よしっ!
麻友は取り敢えず、直近のファイルを手に取った。
先月まではここは私のテリトリーだった。大丈夫……
パラパラ……パラパラ……
「へぇ、今時手書きの請求書? 珍しい……池本空調サービス? かぁ」
「何を探してるんだ? 」
「きゃっ! 」
背後に人影があるなんて、全く気が付かなかった。ファイルを閉じ、驚いて振り替える。
「あ、相田部長」
恵から聞いていた、生田課長の代わりに忙しくされていると。心臓が飛び出そうになる。相田は麻友の持っているファイルを覗き混む。
「君は確か異動になったよな? ここに、何か用事があるのかね?」
怖い……どうしよう。
相田が麻友に詰め寄る。机の上のファイルが床に落ち、けたたましい音が響く。
「こそこそと、何も嗅ぎ回ってるんだ、会社のクソ犬が」
相田が麻友の手首を掴む。物凄い力で、折られてしまう程。その形相は、今まで麻友が見たことも無いような、まるで般若の面の様な恐ろしさだ。手首の痛さなど比ではない。
「す、すみません、あのっ」
怖いっ! 誰か助けてっ!!
「麻友さん!? 」
声の方を見ると、息を切らせた智也の姿があった。相田はチッと舌打ちをして、足早に出ていった。すれ違う時に、智也とぶつかる。
「麻友さん、大丈夫?? 」
麻友に駆け寄る智也。麻友は恐ろしさから解放され、全身から力が抜けてしまった。その場に崩れるように座り込む。
「……けうち君。竹内君、怖かったぁ」
麻友はぽろぽろと大粒の涙を流し始める。
「ありがとう……」
智也も麻友の横に座り込む。麻友の頭をくしゃくしゃと撫でながら、泣き止むのを待っている。なかなか泣き止まない。
(女って、こんなに泣く生き物なのかな)
智也は少し迷っていたが、恐る恐る、麻友を優しく抱き締めた。余りの華奢な体に、一瞬戸惑ってしまったが。
「もう一人で危ない事、しないで下さいね」
背中をそっと擦ると、それまで小さく震えていた肩が、次第に治まってくる。何だろう……麻友さんて、良い匂いがする。
「あ、あのぉ……もう、大丈夫なんだけど」
お互いに引っ込みがつかなくなっていたが、麻友の一言で2人はパッと離れる。麻友はずっとうつむいたまま、ハンカチ手を涙を拭いている。智也はその様子を優しく見守っていた。
「だけど、どうしてここに? 」
麻友が聞くと、ああ! と言う顔をした。
「沢井さんに、麻友さんが一人で経理部の書庫に行っているから、様子を見てきてくれって頼まれまして」
「そ、そうなんだ、助かったわ」
(部外者に頼むなんて、環さんって強者だ)
「探してた物は見つかりましたか? 」
落ちているファイルを拾いながら、智也が聞くと
「うん、何となくな奴見つけた」
麻友は智也からファイルを受け取り、池本空調サービスの請求書をコピーした。
どうして相田部長が……?ひょっとして、横領は相田部長?
鍵を返さなければ。でも経理部に行ったら相田部長に会うかもしれない。自分でも、足が震えているのが分かる。智也はすっと麻友から鍵を取り上げる。
「これ、五月さんに返せば良いんですか? 」
「ああ、うん。いや大丈夫、借りたのは私だから」
「そこは素直に甘えて欲しいですね」
智也はニヤリと笑った。
「ごめんね、ありがとう」
鍵を返却した智也とエレベーター前で落ち合う。智也がはい、と何かを手渡してくれる。
「チョコレート? 」
「はい、五月さんが麻友さんにって」
さっそく包みを開け、食べる。麻友はチョコレートが大好きだ。あっという間に4階に到着した。麻友は智也に向き直り、ぺこっとお辞儀をする。
「改めて、さっきは本当にありがとう」
部屋に戻ると環が帰る仕度をしていた。
「環さん? まだ定時前ですよ? 」
「固いこと言わないの! あ、今日またミーティングするから。何時もの所で何時もの時間にね! 」
「いつものって、2回目ですよっ」
麻友の言葉も聞かず出ていってしまった。
(自由人なんだからっ! )