過呼吸の理由 麻友の気持ち
「麻友さん、明日、リベンジしません? 」
定時、智也が片付けをしながら言った。今日こそは病院に行かなければ、五月に怒られると笑っていた。麻友はふっと笑って頷く。そう言えば今日は、大ちゃんの顔を見てないな……
麻友も片付けを始める。どうして大ちゃんの事、思い出したんだろう……
この前、変な別れ方をしてしまったからかな。
応接室に行ってみようかな……いや、用事がないや。
麻友はぼんやりとしたままエレベーター乗った。
「腑抜けた顔してんな、お前」
「えっ」
麻友が顔をあげると、大介が乗っていた。
「大……ちゃん」
「ぼんやりしてると転ぶぞ」
「転ばないわよ、子供じゃあるまいし」
麻友が言い返すと、大介がポツリと呟いた。
「子供じゃあるまいし、か」
エレベーターを降りるまで会話は無かった。1階に着いて、大介が麻友に向かって挨拶をするまで。
「じゃあな、気をつけて帰れよ」
麻友の頭を軽く叩いて行ってしまった。え、それだけ?
「帰りが一緒になったなら、ご飯とか食べに行っても良いんじゃない?! 」
自分の言葉に驚く。え、何で? 私、何言ってるの?
家に帰り着いても、大介の事ばかり考えていた。
「電話、してみようかな……いや、やっぱり用事ないや」
私どうしたんだろう。声が、聞きたい? え? 何で……何か苦しい……あれ? 私何で泣いてるの? あ、やばい。これ……ダメなやつかも、どうしよう、どうしよう、苦しい、怖い、助けてっ
「麻友! 」
勢い良く玄関のドアが開いて、駆け込んできた。
ものすごく心配そうな顔をしてる。そんなに急いで……転んじゃうよ?
痛いっ、そんな乱暴にしないで。
ああ、大ちゃん。ゴメンね、ゴメン。
「お前はバカなのか? 」
大ちゃん、苦しい……
「怖かったよぉ……」
「お前は、バカなのか? 」
そうかも、知れない
大介は一度ぎゅっと抱き締めてくれた。この腕の中は暖かくて、安心できる。
そして、ゆっくと唇を重ねてくれる。
私は、この人の優しさを、知っている
「もう、大丈夫か? 」
「……うん……ご、ゴメンなさい……」
「お前、こんなんで独り暮らしとかヤバイんじゃないか? 」
「返す言葉も、無い、です……」
麻友は2度目の過呼吸になってしまっていた。苦しくなって夢中で大介に電話を掛けていた。大介は帰宅途中だったらしく、すぐにここへ来てくれた。
麻友は今回の過呼吸の原因に、気付き始めていた。
大介の腕の中は、とても安心出来る。もう少し、甘えて良いかなぁ……
「そろそろ、俺帰るな」
「え? あ、うん。ゴメンね、疲れてるのに……」
素っ気ない態度。麻友はそっと大介から離れ、玄関まで見送る。
「ここで良い。ゆっくり休めよ」
大介は笑顔で、軽く手を振った。ドアが閉まる。
翌日、麻友はぼんやりしながら机に座った。
「例のメールの復旧の件は、情報処理システムの前田さんにお願いしました」
「出来そう? 」
「恐らく。データのバックアップがどれ位の期間残っているかですけど」
智也と環の会話も右から左だ。
(あ……)
麻友の頬に、無意識になま暖かい涙が流れる。
(どうしよう……こんな事、初めてだ。ああ、ほら、2人が驚いているじゃない。拭かなきゃ)
「麻友さん? 」
「今の話、感動的だった! 」
(よし! 完璧に誤魔化せたわ)
麻友は立ち上がり「化粧室行ってきます」キリッとして言った。
「どうしたの、西ちゃん」
「いや、感動的って……」
「無理しなくて良いんですよ。僕一人で行けますから」
定時少し前、2人はエントランスで待ち合わせをしていた。智也はカッターシャツに暖かそうなニットのベスト、細身のジーンズを着こなして、とても素敵だった。麻友はベージュのタータンチェックのミニワンピースを選んだ。一見すると、ただのデートだ。
「大丈夫! 私の次の就職先になるかもだし! 」
「おかしな使命感やめて下さいっ」
「ふふっ、混まないうちに出ましょう」
麻友はふわっと微笑んだ。
「あの2人、仲が良いよねぇ。付き合ってるのかなぁ」
「でも竹内君は、同期の前田さんと付き合ってるって噂よ」
「まぁ、年齢的に西野さんじゃないわよね」
「西野さんも顔は可愛いけど、年齢的にね~」
「三十路でしょ、無いわ」
「無いわね」
2人を見送った受付嬢の会話。くすくすと笑っている。
(陰湿。女の嫉妬は怖いな)
大介は小さくなった2人を目で追っていた。昨日の麻友の華奢な肩と、自分を見上げる潤んだ瞳。俺にしがみつく小さな手。そして、俺の唇に触れた震える指先と、冷たい唇。麻友は無防備過ぎる……あの部屋にあれ以上居たら、俺は間違いなく麻友を押し倒していた。それ位、限界に近づいてる……
大介は深々と息を吐く。そんな事をしたらもう2度と、彼女は俺に笑顔を向けてはくれないだろう。
「こんばんは」
2人は"SAKURA"のドアを開けた。涼やかな風鈴の様な音が響く。
「いらっしゃいませ、あら」
出迎えてくれたのは、前回と同じ顔だった。
「就職の事、考えてくれたのね」
麻友の手を握って言う。
「ち、違いますって! 」
智也が焦って否定する。その様子が可愛くて麻友は苦笑いした。照んないはさほど広くなく、かと言って狭くもない。雰囲気のある間接照明と静かなジャズらしき音楽。カウンターが8席ほどで、ボックス席が5箇所あった。席と席は十分間隔を空け、恐らくよその話は気にならないだろう。入り口には、大きくて美しい胡蝶蘭やカサブランカが品良く並んでいた。
「はじめまして、オーナーの愛子です。お話伺いますので、どうぞこちらへ」
奥から落ち着いた桜色の着物姿の、美しい女性が出てくる。優雅で無駄の無い所作。女性の麻友でもみとれてしまう。
「はじめまして、生田雅也の身内の者で、竹内智也と申します。本日はお時間戴きまして、ありがとうございます」
愛子は一瞬手を止めて、智也を凝視した。
「生田さま……」