医療区域
茜はくんくん、と鼻をうごめかした。
「なんだか病院の臭いがする……」
そうだ、ここはコロシアムの医療区域だと五郎は返事をした。勝は不機嫌につぶやいた。
「病院は嫌えだ……」
そうよねえ、お兄ちゃんには関係ないわと軽くあしらい、茜は五郎に尋ねた。
「医療区域って、病院のこと」
「まあ、そんなものだ。病院と違って、入院設備はないが、治療は行える。トーナメントに出場する参加者の負傷にそなえて、設けられたものだ。もっとも、参加者の体力は主催者の想像を超えていたがね。結局、利用されずじまいだった……」
言いながら五郎は鋭い視線をあたりにくばる。しっ、とかれは指に一本指をたて、ふたりに静かにするよう指示をした。
そろり……と、足音を忍ばせ、廊下を進む。
さっ、と角を曲がると五郎は手を伸ばした。
ひゃあっ、という悲鳴が聞こえ、ひとりの男が五郎の腕につかまれ姿を現した。
眼鏡をかけ、白衣を身につけている。
「な、なんですかあ? あなたがたは?」
おどおどとした視線を眼鏡の奥から三人に投げかける。いちおうまともなのは五郎ひとりで、茜はセーラー服で、勝はぼろぼろのガクランである。こういう場所でよく見かける服装ではない。
「あんた、医者かね?」
五郎の問いかけにかれは咳払いをして白衣の襟をたてた。
「まあね、といっても精神分析を専門にしておるがね」
五郎の目がきらりと光った。
「それじゃさっきここに誰かが運び込まれてこなかったか? 若い男と、女の子だ」
男の顔がぎくりとこわばった。五郎はかれの胸倉を掴んだ。
「知っているんだな! 言え、どこへ運んだ? もう”処置”は始まったのか?」
ぶるぶると男の唇がふるえた。五郎は迫った。
「知っているんだろう? あんた精神科の医者だと言ったはずだ。あの”処置”はあんたがやっているんだろう?」
五郎は男の胸倉を掴んだまま、かれの身体を持ち上げた。ばたばたと男の両足が宙を蹴る。
「言う、言うよ! たしかにそのふたりはさっき運ばれてきた……」
五郎は手を離した。とん、と男の両足が床につき、かれはちょっとよろけた。恐怖で、男の顔にはびっしりと汗が浮いていた。
「さあ、すぐに案内してもらおう」
「わ、わかった……」
ぎくしゃくと精神科医は歩き出した。
「美和子さん!」
横たわる美和子と太郎の姿を見て駆け寄ろうとする茜を五郎は止めた。
「待て、ふたりとも眠っているだけだ。それに、無理に起こして悪い影響があるかもしれない」
そう言うと精神科医を見た。
「どうだね、ふたりは眠っているのか?」
ああ、と精神科医はうなずいた。
「麻酔銃で眠っている。薬のききめがとけるまで、起こしようがない。それに、もうすぐ意識が戻るよ」
医療用のベッドに横たわるふたりの顔には目隠しのマスクがかけられていた。背中側の首筋には金属のクリップが留められている。
五郎に命じられ、精神科医はふたりの身体に繋がれている器具をはずしはじめた。
はずしながらかれは説明を続けた。
「これで神経を遮断する。感覚はなくなり、随意筋は反応しなくなる。目の覆いと、耳につめられた脱脂綿で外部の感覚もすべて遮断されるんだ。これで一日放っておけば、あとはなにを吹き込まれても心の底から信じるようになる……」
説明を続けるかれの口調は楽しげであった。ふたりの耳にはヘッド・ホーンがかけられている。それを外し、ヘッド・ホーンから繋がれているオーディオのスイッチを入れる。するとスピーカーからケン太の声が流れ出した。
「僕に従え! 君は僕のしもべ……君は僕のしもべ……」
ケン太の声はそれを何度も繰り返した。
「どうです、これを一日繰り返し聞かされれば、だれでもケン太さまの言うことをきくようになりますよ」
「なんてひどい……」
茜は本気で怒っていた。彼女の言葉に五郎もうなずいた。
「まったくだ。人間の尊厳というのを無視している所業だな。あんたはどうなんだ?」
と、これは精神科医に向けていった言葉である。言われて、精神科医はきょとんとした顔になった。
「わたしがどう、って、なんだね?」
「あんたはこの”処置”を受けたのか、ということだよ」
問われた精神科医はにっこりと笑った。
「もちろんだよ! だが、わたしとしてはなにも変わったとは思えないな。たしかにケン太さまへの忠誠心はゆるぎないものになったが、そのせいで精神に変調があったとか、そういう感じはないね。むしろ迷いがなくなって、頭の働きが鋭くなった気がするよ」
三人は愕然となった。