潜水艦
わあわあと騒がしい廊下に、杏奈はふらふらとさ迷いだした。
廊下を進むと、放送室のドアの前に数人の部下が顔をつきあわせ、なにか作業している。ドアを破ろうとしているのだろう。と、反対側からガス・トーチを持ってきた部下がやってきて、ドアの前に陣取った。
ぱん、とガスが引火する音がして、トーチの青白い炎がドアの取っ手に近づいた。
見る見るドアの一部が真っ赤に焼け、ペンキの焼けるいやな匂いがこもった。
「お嬢さま!」
声をかけられふり向くと、木戸がそのひょろ長い身体を運んでドアの前に立ったところだった。
「杏奈さま、ここにいてはいけません! お兄さまのところへいらしてください」
「お兄さまのところへ?」
木戸はうなずいた。
「そうです、非常事態です。なにがおきるかわかりませんから……おい!」
と、これは洋子に向けて木戸は命令した。
「お前はお嬢さまをつれて、飛行船に乗り込むんだ」
「飛行船? どういうこと?」
杏奈はじれったげに足踏みをした。説明されないのが頭にきたのだ。
木戸はじろりと冷たい目で杏奈を見つめた。
その視線に杏奈は身をすくめた。
そっと背後から洋子が杏奈の腕を取った。
「さあ、行きましょう」
ささやくと、ぐいぐい引っ張り、その場を離れていく。
杏奈が洋子によって連れられていくと、もう関心をなくしたのか、木戸はトーチを持った部下に命じた。
「ドアをとにかく、破るんだ。いつまで勝手なことをさせるわけにはいかん!」
はっ、と部下はうなずいてさらにトーチの火を近づけた。
「この書類によると、木戸氏は真行寺男爵に対し、詐欺同然の方法で財産分与の権利を獲得した疑いがあります……」
カメラを前に千賀子は喋り続けていた。
モニターにはケン太の怒り狂った顔が映し出されている。観客席を映しているモニターには、招待された記者たちが盛んにメモを取ったり、カメラのシャッターを切っている様子が映し出されていた。
かすかな熱を感じ、千賀子はドアを見た。
鍵がかけられたドアの取っ手あたりがオレンジ色に溶け、溶解した金属がとろとろと垂れている。
もうすぐ破られるだろう。
このへんでじゅうぶんだ。
千賀子はカメラをそのままに、隣の部屋へ移動した。
その瞬間、ドアが破られ、部下と共に木戸が放送室に踏み込んだ。
木戸はカメラの前に掲げられている書類に気付き、さっと引き破った。書類は複写されたものだったが、内容はおなじものだ。それに目を通し、木戸は渋面をつくった。
さっと部屋の中を見回すと隣の部屋へのドアが開いている。
「あっちだ!」
叫んでもうひとつの部屋へ踏み込んでいく。
ひゅう……!
海風が木戸の顔をなぶった。
かれは目を瞠った。
部屋の窓がおおきく開かれ、外の空気がおしよせてくる。
中国服を身にまとった千賀子が、窓枠をつかみ、身を乗り出していた。彼女のほつれ毛が風になびいて揺れていた。
「貴様……!」
木戸の叫びに千賀子はふりむいた。
「そこからは逃げられんぞ! 下は断崖になっている。飛び降りることはできん!」
木戸の言葉に千賀子は窓から身を乗り出して下を見下ろした。
ふっと顔を上げると、嫣然と笑う。
「そうかしら? 試してみる価値はありそうね」
「なにっ?」
木戸が一歩踏み出すのと、千賀子が身を躍らせるのが同時だった。
あわてて両手を伸ばし、掴もうとするが遅かった。彼女の身体はすでに落下をはじめていた。
窓から木戸は身を乗り出し、見下ろした。
はるかな高みから断崖が絶壁となって立ち上がり、海面に白い波が砕け散っている。
千賀子の身体が小さくなり海面に落下し、同心円の白い波を作っていた。
「馬鹿な……」
木戸はうめいていた。
ざぶん、と波をけたて、千賀子は海面下に沈んでいた。数メートル沈み、彼女は待った。
ほどなくアクアラングを身につけたダイバーが近寄り、彼女にボンベのマウスピースを咥えさせた。空気を吸い込み、千賀子は大丈夫と指で輪をつくる。
うなずいたダイバーは腰から懐中電灯を取り出し、二度、三度と点滅させた。
やがて水中にまるい、巨大な影があらわれた。
それは潜水艦だった。
ダイバーに案内され、千賀子は潜水艦のハッチへ潜り込んだ。ハッチの水が排水され、ドアが開くと潜水艦内部へと進むドアが開く。
待っていたのは執事協会で太郎の訴えを受理した、芳川女史であった。
これは執事協会の所有する潜水艦なのだった。
「ごくろうさん。あんたの放送は、こっちでもモニターしていたよ」
千賀子は芳川のねぎらいに笑顔をつくった。
うなずくと、身につけていた中国服のボタンを外し始める。彼女の中国服の下から、メイド服が現れた。中国服を脱ぎ去り、メイド姿になった千賀子はおおきくため息をついた。
「ああ、窮屈だった! やっぱりあたしはこの格好がいいわ!」
くすくすと芳川は笑った。
「中国服の下にメイド服を重ね着していたんじゃ、窮屈なのも当たり前よ!」
へへっ、と千賀子は舌を出したが、すぐ真顔になって話しかけた。
「それより真行寺美和子と、只野太郎のふたり大丈夫かしら? あれで高倉コンツェルンの不正が白日のものになったのかしら」
芳川は頭をふった。
「それは判らない。でも、わたしたち執事協会は裁定者ではないのよ。あくまで協力者の立場をくずすことは出来ません。でも、あそこには大勢の記者がいたから、隠しおおせるわけはないでしょう。それにトーナメントの視聴者もいるから、明日の新聞記事は大変なことになるわ。あとはかれらの自助努力にまかせましょう」
芳川は肩をすくめた。
「あの只野太郎の報告に、わたしたちが独自の調査を開始して判ったことなんだけど、まあ高倉ケン太とは大変な策士ね! じぶんの召し使いを真行寺家に潜入させ、ひそかに財産を奪うとは……。でも、あんな不正をわれわれ執事協会はぜったい見過ごすことは出来ない!」
芳川の言葉に千賀子はうなずいた。女史はふりかえり、叫んだ。
「さあ、いつまで愚図愚図していないで、戻るわよ!」
部下がきびきびと動いて潜水艦の操舵を開始した。
「了解! 全速前進、深度五十!」
モーターの音が高まり、潜水艦は動き出した。