洗脳
ぽかりと洋子の意識が戻る。
闇。
どこまでも続く闇が洋子をつつんでいる。
闇の中で洋子は瞼をぱちぱちと瞬かせた。
そんなことをしても何もならないと判っていたが、それでもせざるを得なかった。
ここはどこ?
闇の中で洋子の思考だけが空回りする。
手探りをする。
凝然となる。
じぶんの手がどこにあるのか、まるで感覚がない。動かしても、手はなににも触れず、動かしている実感もないのだ。
手ごたえがないとはこのことか。
足も同様、まったく感覚がない。
あたしはどうなったの?
恐怖が、喉元にこみあげる。
悲鳴。
洋子は悲鳴をあげた。
が、その悲鳴すらあげることは出来ない。
彼女の脳は喉に悲鳴をあげることを命じたが、喉はまったく反応しない。
気がつけば全身の感覚がなかった。
暑さ、寒さ、痛み、痒みすらなかった。
暗闇の中、ぽっかりと意識だけが宙に浮いている。
あたしは死んだのかしら?
誰か答えて!
洋子は声にならない悲鳴をあげ続けていた。
脳波計が洋子の思考を忠実にグラフにあらわしている。
いまは細かな震動が激しくグラフにあらわれ、彼女の動揺をあらわしている。やがてα《アルファ》波とθ《ベータ》波が睡眠をしめすだろう。τ《タウ》波が出てくればしめたものだ。ケン太の前にはこの施術専門に雇った精神科医が、洋子の脳の状態をしめす結果をじっと見つめていた。
ふたりの目の前のベッドに洋子が横たわっている。
目には覆いがかぶされ、腕には点滴の管が繋がっている。点滴の容器には蒸留水とブドウ糖、その他の栄養分が混入され、彼女の健康を保っていた。
洋子の延髄には締め付け用のクリップが挟まれて彼女の神経と脳の伝達をさまたげている。これにより、随意筋に脳の出す指令を遮断し、全身の感覚は麻痺している。いま、洋子の主観では完全な闇の中にいるのだ。さらには耳につけられた耳栓が外部の音を伝えない。
目の覆いから一滴、涙が頬に伝う。洋子は今、自分が泣いていることすら確認できないだろう。
「このままの状態であと十二時間──完全を期せば二十四時間が理想ですな──すれば、彼女は理想的な状態になるでしょう」
精神科医がケン太を見上げ、陽気に話しかけてきた。ケン太はうなずいた。
心理学の研究に感覚遮断実験というものがある。五感を遮断した状態で、人間がどのような心理状態になるかという研究で、それによると完全に感覚を奪った状態でおくと、人間はきわめて暗示にかかりやすい状態になるという。それがどれほど反社会的であろうとも、じぶんの思想と正反対の思想であろうと、感覚を奪った状態においた人間に吹き込むと、完全に従属するようになるというものだ。
いわば洗脳の研究である。
これがあきらかになった時点でその研究は中止されたが、その行き先が洗脳であることは明白だ。
ケン太はその成果を利用していた。
召し使いで高倉コンツェルンの闇にふれることのおおい召し使い、社員をこの方法でケン太に対する忠実な家来に生まれ変わらせる。 いま実験を続けている当の精神科医もこの方法でケン太の忠実な部下と成り果てていた。
「二十四時間……短くても十二時間……。それでは遅すぎる。もっと早める方法はないのか」
ケン太の質問に精神科医は唇をすぼめ、考え込む様子を見せた。
「そうですなあ……そうなるとエンドルフィン、ドーパミンなどの投与と、覚醒させるためメラトニン・ブロックなどの処置が必要です。これにより、彼女は二十四時間暗闇にいたのと同じ状態になり、処置がスムーズにいくでしょう。ただし、洗脳が完全とは言えません。なんらかのきっかけで、解けてしまう可能性がありますから」
精神科医の口調はうきうきとしているようだった。ケン太は眉をひそめた。
洗脳処置により、ケン太の命令どおり動くロボットになった人間たちは、一様に不安定さを露呈する。いくら洗脳でケン太に絶対服従を誓っても、心の奥深くでは納得していないに違いない。それが、奇妙なほど陽気な様子や、躁鬱的な態度にあらわれるのだ。
「それでいい。やってくれ」
それでは、と精神科医は両手をすりあわせ、薬品棚からいくつのかの薬品を取り出した。
それらをカクテルをつくるシェイカーに放り込み、シェイクした。シェイクしながらかれはケン太に笑いかけた。どうです、面白いでしょうといっているようだ。
ケン太にはまったく面白くはなかった。この手の冗談に付き合っていたら、神経が磨り減ってしまう。洗脳を受けた連中は、たいていこういった笑えないジョークを披露したがる特徴がある。
ケン太の反応がまったくないのも気にせず、精神科医はシェイクした薬品を点滴の容器に注ぎいれた。
腕をまくり時計を覗き込む。
「これで二時間! お待ちください」
うん、とケン太はうなずいた。
 




