洋子
洋子は出たすぐの廊下の隅でまるい肩をふるわせ泣きじゃくっていた。
そこに太郎が近づき、肩に触れた。
顔を上げた洋子に、太郎はだまってハンカチを差し出した。
受け取り、鼻にあて音を立ててかんだ。
「ありがと、ちょうど洗濯して持っていなかったの。あとで洗って返すわ」
うん、と太郎はうなずいた。
ふ、と洋子は笑った。ハンカチをあわててエプロンのポケットにしまうと、また顔を赤くしてうつむく。色が白いから、感情が高まるとすぐわかる。
「いいわね、太郎は奉公先が決まってて」
ああ、と太郎は軽くうなずいた。ふつうなら、ここで君もいつか決まるよとかなんとか、なぐさめの言葉をかけるのだろうが、太郎は無言だった。その代わり、ただ黙って立っているだけだ。そんな太郎に感情を激昂させていたのが恥ずかしくなったのか、洋子は冷静さを取り戻した。こんなとき、わざとらしいなぐさめを言わずに黙っていてくれるのが洋子にはありがたかった。
「来週、卒業ね……」
ぽつりとつぶやく。
太郎と目が合う。太郎と洋子は、ほぼおなじ背の高さだ。太郎はこの年頃の男子としては小柄なほうだから、目の高さは同じくらいになる。ふっ、と洋子は目をそらした。
「あんたとはずっと幼なじみだった……あたしがここの執事学校に入る前から、太郎はあたしの遊び相手だったわ……」
ぼんやりとつぶやき、窓を見た。
外はあいかわらずの雪景色で、庭に植えられている桜の樹にはつぼみが固くついているだけだ。つぼみが咲きほころぶのは、たぶん来月だろう。ふたりのいる松前郡長万部県は、扶桑国のなかでももっとも北の果てにある。春がくるのは四月も終わりで、あっという間の夏が過ぎ去れば、あとは急ぎ足で秋が過ぎ行き、長い冬を迎える。
洋子はこのホテル兼執事学校の一人娘、つまりお嬢さまというわけだ。
太郎は母親がこのホテルの従業員であったため、生まれてからずっとここで育っている。
もちろん従業員宿舎で、という意味だが子供のころはおたがいそんなことは意識せず、仲の良い幼なじみとして暮らしてきた。
ふたりの関係が微妙に変化したのは太郎が中学校に入学したころだった。そして中学を卒業した太郎が執事学校に入学を決めたあと、洋子もあとを追うように入学してきたのだった。
執事学校で太郎はめきめきと頭角をあらわし、卒業間際のいまではだれも最高の召し使いになるだろうという評判をとっている。
お嬢さま育ちの洋子には執事学校の修行は辛いものだったが、それでも必死の頑張りで太郎と同じように卒業の日を迎えることが出来たのだった。
なぜじぶんは執事学校に入学したのだろう……。洋子はあらためて思い返した。父親の山田勇作の勧めがあったからだと思いたかったが、やはり太郎の存在が大きかったといまでは省みることが出来る。
息を吸い込み、洋子は口を開いた。
「太郎、あのね……!」
彼女の指が、壁に「の」の字を書いている。頬がほんのりピンクに染まり、なにか決意を固めたようだ。
思い切って彼女はふりむいた。
「太郎、あたし……!」
洋子の言葉は途切れた。
太郎はいなくなっていた。